さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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越前(福井県)の生んだ天才・橋本左内。(1834〜1859)

医師の子として生まれた左内は15歳の時「啓発録」を著した。
ここには「稚心を去る」「気を振う」「立志」「勉学」「交友を択ぶ」の五項目について、
佐内の自立した考えを述べたもので今日でも古典的名著と言えるものである。

16歳で当時の名医である大阪の緒方洪庵に弟子入りする。
洪庵もこの天才を「池中の蚊龍(こうりょう)」と呼んだ。

医学だけでなく政治にも関心があり、梅田雲浜や横井小楠にも教えを受ける。
やがて、藩主・松平春嶽の知るところとなり、藩士として仕えることになる。

左内は西洋文明をとりいれ、兵制を改め、産業を新興する藩政改革を行った。
藩主・春嶽は難題であった将軍継嗣問題の朝廷工作に佐内を登用した。

左内は有能に働いたが、大老に就いた井伊直弼が将軍継嗣の反対派を粛清するために
断行したのが「安政の大獄」。反対派の松平春嶽の懐刀であった左内は捕らえられ、
斬罪に処せられた。

獄中、処刑される直前まで「資治通鑑」に注を記入していた。
牢名主までが「貴様の様な若い秀才を死なすとは誠に惜しいことだ。出来ることなら
自分が替わってやりたいものだ。」と涙を流したという。わずか、26歳であった。

西郷隆盛は島津斉彬の懐刀として将軍継嗣問題を左内と共に運動した同志であり親友で
あった。左内の死は痛恨の極みであり生涯左内からの手紙を大切に持っていたという。

最も落胆したのは、将来を期待していた藩主春嶽であるが、
日本にとっても大きな損失であった。

易学的に言うならば、乾為天の初九に「潜龍用うる勿れ」とある。潜龍は期待の新人と考えて良い。期待の新人に余り早くから重要な役割を課してはいけない。あせらず、大きく成長するのを待つことも大事である。という意味である。

「安政の大獄」では吉田松陰も斬罪に処せられた。

しかし、ここから一気に革命の火が燃え上がり歴史的変化が始まった。

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