さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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緒方洪庵門下であり、近代兵器の天才的戦術家。(1824〜1869)

禁門の変で敗退し、窮地に陥った長州が高杉晋作のクーデターにより再び第一線に返り咲いた
ことは世に知られる話である。

しかし、いかに晋作が天才的革命家といっても大仕事を成すには実務にその能力を備えたもの
が必要不可欠である。そのクーデターとその後の幕府の第二次長州征伐に奇跡的に長州を勝利に
導いた戦術家が大村益次郎である。

益次郎が長州藩士になるまでは、かなりの回り道がある。生まれは長州の村医であり、医学、
蘭学を学び始める。人間形成には儒学を修める必要があると豊後(大分県)の広瀬淡窓の私塾
「咸宜園」へ入塾。その後、大阪の緒方洪庵の「敵塾」へ入塾、5年間勉強し塾長になった。

郷里へ帰った益次郎は医者を開業したが、さっぱりはやらなかった。人付き合いが全く下手な
ためである。悶々としていた益次郎に思わぬとこから声がかかった。

四国・宇和島藩が蘭学の指導者として招いたのだ。喜んで招きに応じ、兵書の翻訳や蘭学の教授
にあたった。その後藩主・伊達宗城の参勤に従い江戸にのぼった益次郎は番町に「鳩居堂」とい
う塾を開いた。

益次郎のずば抜けた能力は幕府や各藩にも認められた。長州の桂小五郎は自藩から天才的な頭脳が
流出していることを惜しみ、藩に計って正式な長州藩士にしたのである。

鳥羽伏見の戦いでは益次郎が実力を発揮する前に幕府軍が自滅してしまったが、益次郎の真価を
発揮したのは江戸無血開城のあと、上野に立てこもった彰義隊を掃討した戦略である。

益次郎は江戸が大火になることを避けるため明暦・明和の大火について調査して、上野だけを
たたき、他には飛び火しない作戦を立てた。

その布陣は完全無欠なものといわれる。上野を三方面から囲み、一方に敵の逃げ道を開いて
おいた。西郷がこの布陣を見て「薩摩兵を皆殺しにする気でごわすか」と怒ると益次郎は
「さよう」と平然と答えたという。さすがの西郷も唖然とした。

午前七時半、アームストロング砲による戦闘開始。官軍の大砲は絶え間なく発射された。
彰義隊は前近代的な武器しか持たなかっがその迎撃はめざましかった。

戦いは熾烈を極め、夕刻になっても決着がつかず、「どういうことだ」と益次郎に難詰する
ものがいた。益次郎は時計を見つめて「もう少しお待ちなさい」と落ち着いていた。

すると、上野が炎上し程なく「官軍勝利」の伝令がついた。すべて益次郎の計算通りであった。

「火風鼎」の卦。「鼎新」(ていしん)という言葉がある。革命は古きを去ることであり、鼎新は革命の後、新しきを興すことである。

益次郎は合理主義者である。兵部大輔として武士の廃刀、志願兵制、陸・海軍を整えようとした。

武士という階級は否定した。しかし、否定されたものにより46歳で暗殺されることになった。

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