さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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緒方洪庵門下、慶応義塾の創立者・福沢諭吉(1835〜1901)

諭吉は九州中津・奥平藩の下級武士の子として生まれた。父も兄も学問好きであったが、
父は部下の過失の責任をとり切腹、兄も若くして亡くなった。

諭吉は長崎に遊学し、ついで大阪の緒方洪庵の適塾に入門した。24歳で塾長になっている。

福翁自伝によるとその勉学ぶりはすさまじい。適塾では塾生は各自の自習であるが、その熱気は
戦争のようだ。大阪の夏は暑い。塾生は狭い部屋で汗だくのまま勉強する。

食事どきになると下着もフンドシもつけない素っ裸で、肩に絽の羽織をひっかけて全員が
草履をはいて立ったまま食べる。フリチンの裸がすけて見えた。諭吉はその様子を「百鬼立食」
と表現している。

こうして学問の研鑽を積んだ諭吉は藩の目にとまり、江戸において藩の子弟に蘭学を教える
ことになった。諭吉はさらに中浜万次郎について英語を学んだ。

26歳のとき大きなチャンスをつかむ。日米修好通商条約のために渡米する使節団の随行艦
「咸臨丸」にのりこむことになったのだ。

日本人による最初の太平洋横断であったが、実際には日本人は船酔いで役に立たず、乗り合わ
せたアメリカ海軍の隊員が操艦した。諭吉はその体験を「まるで牢屋に入って毎日毎夜大地震
にみまわれているようだった」と語っている。

渡米の2年後、今度は最初の遣欧使節団の通訳として同行しヨーロッパ各地、ロシアの
ペテルブルグまで足をのばしている。さらに4年後には再び渡米している。

諭吉はこの時代に最高の海外情報通として「西洋事情」を著し日本人に世界情勢を紹介した。
新政府からの要請もあったが、政府に参加するよりも日本人を啓蒙しようと考えた。

慶応4年、上野に於いて彰義隊と大村益次郎(適塾の先輩)が戦争をしている頃、諭吉は
芝・新銭座の「慶応義塾」にていつもとかわらぬ講義を続けた。

「諸君、世の中がいかに戦で乱れようと我等だけは一日たりとも学業を休んではならぬ。」
「諸君、この塾のあらんかぎり日本は滅びずの気概に燃えて、今からただちに勉強を
始めようではないか!」

「兌為沢」の卦は親睦講習の道を説く。論語にも「学んで時にこれを習う。また楽しからずや」とある。学ぶことは最大の楽しみなのだ。

明治5年に著された「学問のすすめ」は大ロングセラーとなり

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は不滅の名言になった。

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