尊皇攘夷派の母とも呼べる信念の老女・村岡局(1786〜1873)
安政の大獄で尊皇攘夷派は幕府の弾圧にあった。
吉田松陰も江戸の伝馬町に捕えられたが、そこで同じく捕えられていた一人の気丈な
老女に感服し、弟子たちにその立派な態度を手紙に書き送っている。
その老女こそ京都の公家・近衛家の村岡局である。
本名は津崎矩子(のりこ)13歳で近衛家に召され、聡明さは郡を抜いていた。
主君・近衛忠煕のあつい信頼を得て、やがて村岡局としての地位を不動のものとした。
ペリーが来航し、通商条約締結にあたりその是非をめぐり日本中が真っ二つに別れ、
あらためて朝廷の権威が脚光をあびるようになる。
強烈な攘夷派である孝明天皇を中心に志士たちが活動し、近衛家もその激動に巻き込まれ
村岡は志士たちと公卿の連絡、仲介の労を懸命にとり活動を援助した。
開国問題と同時進行の将軍継嗣問題では近衛家は一橋派に属していた。
将軍・家定の御台所に薩摩藩主・斉彬の養女・篤姫を嫁がす話にも後押しをした。
将軍正室は公家からとの慣習を重んじて篤姫は近衛家の養女として嫁ぐことになる。
村岡は篤姫の養母格として江戸まで付き従うことになった。
島津藩から加わった西郷隆盛とも気脈を通じる間となり、安政の大獄で窮地に立った
僧・月照の警護役を頼んだのは村岡である。
安政の大獄では村岡も伝馬町に捕えられ白砂に引き出されもした。きびしい追及にも
主家・近衛家に害の及ぶこと、西郷や月照のことは頑として突っぱね口を割らなかった。
そのとき村岡は74歳に達していた。
近衛家を辞した村岡は京都の北嵯峨に「直指庵」をもうけ風雅の道に生きる隠遁生活を
送り、里の子供たちに読み書きを教えた。「直指庵」には西郷や勤皇歌人の野村望東尼
などが訪れ、人望の高さを偲ばせる。
村岡は念願の王政復古の報せを聞き、明治6年まで生き88歳の生涯を閉じた。
「風沢中孚(ちゅうふ)」の卦。孚はまことである。誠心誠意を人にも世にも尽くす。まことなれば何事も成すことができる。
「直指庵」は現代の駆け込み寺として有名になっている。
しかし、村岡の墓に詣でるものはほとんどいない。
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