高杉晋作を支えた勤皇の歌人・野村望東尼(ぼうとうに)(1806〜1867)
晋作が死ぬ間際に辞世の歌を作ろうとして「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いた
ところで力尽き、その後を「住みなすものは 心なりけり」と続けたのが野村望東尼である。
望東尼(本名・もと)は福岡藩士の三女として生まれ、一度結婚に失敗した後、
福岡藩の書道と和歌の師範である二川相近のもとで和歌の道にはげんだ。
24歳の時、師範のすすめで門下生の福岡藩士・野村定貫と再婚、定貫には3人の子供がいた。
自分の子は4人とも早死にしたりと、苦難続きであったが夫婦は歌を作っては互いに励ましあう
日々であった。
先妻の子供が成人し平尾山荘に移り山村生活の10年後、夫が66歳で亡くなった。
髪をおろし望東尼と名のったのは53歳である。時は安政6年、「安政の大獄」そして
「桜田門外の変」の頃であった。
激動する時の流れを敏感に感じとった望東尼は何かにつき動かされるようにして京都に旅立った。
一年半の京都滞在中に近衛家の村岡局とも交わり風雅の道とは別の幕末の空気を感じ取り、
勤皇の志を確認して故郷に帰った。
平尾山荘は望東尼の母性に引かれた尊皇攘夷の志士たちが次々と訪れる場所になった。
禁門の変に加わって六角獄舎で斬罪された黒田藩士の平野国臣もその一人である。
長州の俗論党に追われ、窮地に立った高杉晋作が名を隠して身を寄せたのは元治元年(1864)
11月のことである。晋作は望東尼の心くばりがなによりの支えとなり、10日あまりの滞在の
後、俗論党一掃の秘策を胸に長州へ旅立って行く。
旅立つ晋作に望東尼が贈った歌は
まごころを つくしのきぬは 国のため たち帰るべき 衣手にせよ
晋作のめざましい働きにより俗論党は一掃され、長州は倒幕の決意を固めることになる。
しかし、福岡藩では尊攘志士への弾圧が始まり、切腹、斬罪、流罪その数140人余り。
望東尼も志士を匿った罪で捕えられ、玄界灘の孤島・姫島に流されることになった。
畳もなく、すきま風が吹き込む牢での生活は60歳の身には辛い。孤独と寒さに耐えた幽閉の
日々を支えたのは歌であった。 「姫島日記」とともに耐える望東尼は幽閉生活10ヶ月に
及んでいた。 このままこの島で果てる覚悟だったが、突然助け出された。
豪胆にも救出作戦を立て、決行したのは高杉晋作が放った6名の志士であった。
下関の白石正一郎宅に連れて来られた望東尼は晋作と感激の再会を果たした。
だが、晋作はすでに病んでいた。晋作がわずか27歳で慶応3年4月に亡くなると、
緊張の糸が切れたのか、望東尼は後を追うように同年11月に帰らぬ人になった。
幕末、勤皇攘夷の志士たちは浮き沈みを味わった。「火地晋」の卦と「地火明夷」の卦。順境の道と逆境の道である。「地火明夷」ではいかなる艱難にもその志操を変えずにゆくことが肝心である。
姫島幽閉中の望東尼に親切にしてくれた島民がいた。望東尼は詠んだ、
暗きよの 人やに得たる ともしびは まこと仏の 光なりけり
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