倒幕に活躍した「勤皇の母」・松尾多勢子(1811〜1894)野村望東尼が福岡の平尾山荘にて勤皇攘夷の志士たちを世話をしていた頃、京都で「勤皇の母」 と呼ばれて活躍したのが松尾多勢子である。 多勢子は今の長野県飯田市に庄屋の長女として生まれた。両親は勤皇の志あつい教養人で 多勢子を歌人の北原因信に弟子入りさせ読み書きや和歌を学ばせた。 多勢子は19歳で豪商の松尾家に嫁ぎ、三男四女の母として一家を切り盛りするかたわら、 歌人・福住清風に師事して学問に磨きをかけた。 子供たちを立派に育て上げた多勢子に深く感ずる出来事があった。文久2年(1862) 公武合体論のもとに皇女・和宮の降嫁の行列を目にしたのである。 時代のうねりを鋭敏に察知した多勢子は憂国の情抑えがたく、夫の許しを得て京都に向け 信州を飛び出した。多勢子52歳の時である。 京都で間借り生活を始めた多勢子は和歌を通して勤皇派の公家と志士たちの連絡係りとして 幕府の機密をさぐるなど情報収集に重要な働きをした。 多勢子が志士たちを倒幕に向かわせた特筆すべき貢献は岩倉具視を表舞台に復活させた ことである。公武合体の推進者であった岩倉は志士たちには警戒すべき存在で「天誅」の ターゲットでもあった。 多勢子は岩倉の人物に直接ふれて確かめようと、岩倉が隠れ住む京都郊外の岩倉村に入った。 王政復古に命をかける岩倉の真意を理解し、たがいに肝胆相照らすところとなる。 志士たちに岩倉は同志にとって絶対必要人物であると説得した。 その後、薩摩の大久保らが岩倉を担ぎ出し、倒幕勢力の中心に据えたのである。 多勢子は活動の合間に時折帰郷した。ここでも志士たちを寄寓させたり、援助を惜しまなかった。 品川弥二郎、久坂玄瑞など、多勢子の世話になった志士は枚挙にいとまがない。 同志の結集は「天火同人」の卦。同志は身内ばかりなく、広い分野からの結集が肝心であることを説いている。多勢子は家庭内でも肝っ玉母さんであったが、志士の間でも肝っ玉母さんであった。
歴史を大きく動かした人物は表舞台にいるとは限らない。(猶興) 岩倉具視の記事は: http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/16941678.html |
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2008年01月26日
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