肝っ玉母さん・松尾多勢子の活躍は明治27年84歳で没するまで続いた。
多勢子が京都で勤皇の母として志士たちの後押しをしたのはおよそ5年間。慶応3年には
薩摩の西郷や大久保たちが岩倉具視を中心にして倒幕グループを結成し王政復古のクーデ
ターに成功する。
翌年には鳥羽伏見の戦いが起こり、勝利した新政府軍は一気に江戸無血開城を成し遂げ、
時代は明治になっていく。
多勢子は郷里の信州・伊那村で松尾家の肝っ玉母さんとして農業と家政を取り仕切り、
国事のことを離れて忙しい毎日に明け暮れていた。
明治新政府の最高位・大政大臣・三条実美の次の位である右大臣になった岩倉具視であったが
多勢子の肝っ玉が必要となり、無理やり口説いて多勢子を東京へ呼び寄せた。
具視に取り次いで貰おうとする明治政府の高官たちを相手にする毎日であった。
国のために純粋に役に立ちたいとの一心で岩倉の要請に答えた多勢子には派閥争いに明け
くれる政治家たちの醜悪な姿には幻滅を感じずにはいられなかった。
とくに新政府が西洋にかぶれ、鹿鳴館などを作ってうつつを抜かす姿は許しがたく、東京
にも政府にも岩倉にも失望し一年ほどで郷里に帰って行った。多勢子には地位や名声など
何の興味も無い。ただ国のために役に立ちたかっただけである。
郷里・伊那の松尾家は常に社会のために奉仕することが家訓である。子供も孫も村の要職に
ついて働いていた。多勢子は県会議員である孫の千振を応援することにした。
千振は若者の中心となり取り組んでいたのが天竜川の築堤工事だった。
「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川の度重なる氾濫の被害で苦しんだ村人のために命がけで働く
大事業に多勢子も精力的に協力した。しかし、その千振が過労のため志半ばにして39歳の
若さで他界してしまう。多勢子は悲観のどん底に突き落とされた。
多勢子と千振の悲願を継いだのは多勢子の末子・為誠(ためよし)だ。そして、全長九百間
(1630M)の堤防が完成したのは明治33年。多勢子が世を去って6年後のことである。
多勢子は東京で見た西洋かぶれには拒否反応を感じた。そんな状態は「火沢睽」の卦。理解出来ない文化との交わりである。時間をかけて相手を理解することが肝要である。
勤皇の母の目に明治の東京はどう写ったのだろうか。
明治維新に勝ち残った者の中にも失望の念を強く持った者もいた。
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