知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生
日本人の心を掴んだ歌姫・美空ひばりとはどんな生き方をしたのだろうか。
昭和12年に横浜の魚屋さんで生まれている。
6歳のとき、父・増吉が出征するが、その壮行会で歌った「九段の母」に聞いてる人たちが涙を流したという。そのとき、母・喜美枝は娘の歌唱力に無限の可能性を発見した。
終戦後、9歳のとき、NHK「素人のど自慢」に出場させると、審査員たちは「上手いが子供らしくない」「非教育的だ」として不合格にした。納得できない母は終了後、審査員の古賀政男に「どうか、もう一度娘の唄を聴いてください」と頼み込み古賀の「悲しき竹笛」を歌わせた。古賀は感心し「のど自慢レベルではない。立派に出来上がっている」「歌手になるならがんばりなさい」とエールを贈った。
10歳のとき、ある漫談の前座歌手として高知県に巡業したが、乗っていたバスが交通事故で崖下に転落する。ひばりは一時、仮死状態となるも助かった。父から「もう歌手は辞めろ!」と怒られたがひばりは「歌を辞めるなら死ぬ!」と言い放った。
11歳のとき、関西興行界を取り仕切る山口組3代目組長・田岡一雄に挨拶し気に入られる。以後、田岡はひばりの後ろ盾となる。当時人気の浪曲歌謡漫談の川田晴久に才能を見込まれ一座に加わる。この年から「美空ひばり」と名乗った。
12歳のとき、映画「悲しき口笛」に出演。シルクハットに燕尾服が大ヒット。レコードは45万枚の最高記録を樹立する。
その後は次々と映画と歌が大ヒット、「天才」という声と「子供が大人の真似をして可愛くない」という声、子供ながらも大スターの地位を築く。
16歳の頃には、「お嬢」と呼ばれ、映画ではひばりと共演した男優は大スターになると言われた。中村錦之助、市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健など。
NHK紅白歌合戦には17歳から出場、出場17回、10年連続のトリ、33歳の時には大トリと司会を始めて兼任した。
江利チエミ、雪村いづみと3人娘と言われたのは18歳の頃からである。
アクション映画のスター・小林旭と結婚したのは25歳の時で2年後には離婚した。「芸を捨て、母を捨てることは出来ない」と語ったが、深い傷を負った。
最大のヒット曲となった「柔」は180万枚の売り上げ。そのあと、「悲しい酒」「芸道一代」「真赤な太陽」と続く。
30代の後半になると、実弟・かとう哲也の不祥事、公然の秘密と言われた山口組との関係が問題化するなど視聴者からのパッシングも強まり、紅白は辞退、ひばりにとっては辛い時期を過ごす。
40代になり、NHKビッグショウに復帰、紅白30周年記念では特別出演もした。しかし、母・喜美枝、実弟・哲也と武彦、親友・江利チエミと相継いで死別。ひばりに残されたものは歌だけであった。49歳、「愛燦燦」がヒット。しかし、孤独の毎日に酒とタバコの量が増えて行き、少しづつ身体を蝕むことになる。
50歳、公演先の福岡で倒れ入院。慢性肝炎、両側大腿骨骨頭壊死で4ヶ月の入院生活。退院後には新曲・「みだれ髪」のレコーディング。
51歳、新築の東京ドームにて「不死鳥コンサート」39曲の熱唱。終了後には倒れこんだ。
52歳、最後のヒット曲「川の流れのように」しかし、もうひばりの肺は冒されていた。2月、北九州市の公演後再入院。退院し3月、ニッポン放送の10時間番組に生出演、終了後急変、順天堂大学病院へ入院。平成元年6月24日間質性肺炎による呼吸不全のため、死去。
ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏に 染まるだけ
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