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時代の先が読めていた幕臣・大久保忠寛(ただひろ)(1817〜1888)
大久保忠寛は小栗忠順と同じく、三河以来の旗本の家に生まれながらも小栗とは違い伝統やしきたりに拘らず、自由で柔軟な発想が出来た幕臣である。
安政元年、老中首座の阿部正弘に抜擢され海防掛に任じられた。自分の蘭学の師であった勝海舟を阿部老中に推挙したりもした。その後、番所調所頭取、長崎奉行、駿河奉行、京都奉行と出世した。
ところが、井伊直弼が大老になると、反対派(一橋派)とみられた忠寛は左遷され冷や飯を食うことになる。
桜田門外の変のあとに、文久元年(1861)外国奉行として再起用されるが、その頃から幕府は大政を奉還すべきだと唱え始めたが耳を貸すものはいなかった。
忠寛の考えは徳川家は 駿河、遠州、三河を領有する一大名となること。国政と外交は挙国体制で臨むため、議会制とすること。いつまでも幕府でありつづけると、豊臣家と同じように次世代の勢力に軍事力によりつぶされる。というものだ。
この考えはやがて勝海舟により「薩長同盟」路線となり現実化していった。つまりは大政奉還と江戸城無血開城は忠寛と海舟によってシナリオが出来上がり、龍馬と西郷が仕事をしたようなものだ。
幕府内では忠寛の意見は無視されたが、忠寛の言うとおり幕府自ら改革に動いたらまったく別の新体制が出来たはずである。このことを龍馬は「幕府にとっては大不孝、われらにとっては大幸」と評した。
忠寛はまわりがバカに写ったのか慶応元年(1865)49歳でさっさと隠居してしまった。
明治5年、新政府に請われて文部省、東京府知事、元老院議員に任じられた。元老院議員は11年間つとめ、ちゃんと出席したがほとんど発言はしなかったという。先が見えすぎてしまい、誰にも理解してもらえないと感じていたためだろう。
「風地観」の卦はものの見方を説く。なにものにも捕われず、自由な発想を持てる人にして始めて先見ということが出来るのだろう。
明治21年、忠寛は72歳で亡くなっているが、
忠寛の深慮遠謀は日本の将来まで見ていたのだろうか。
日清、日露戦争そして太平洋戦争まで見えていたのだろうか。
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