さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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幕府の最後に混乱を抑えた幕臣・高橋泥舟(でいしゅう)(1835〜1903)

「幕末の三舟」をご存知でしょうか。勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3人のことだ。このうち海舟の名は知らぬ人はいない。鉄舟も幕末ファンなら大抵は知っているだろう。しかし、高橋泥舟を知っている人はごく少ないのではないだろうか。

泥舟は山岡鉄舟の義兄であり道場の師である。もともと泥舟は山岡家の次男であったが高橋家に養子になった。ところが兄の槍術家・山岡静山が27歳の若さで亡くなった。道場は泥舟が継いだが、既に養子になっていたので一番弟子の鉄舟に妹の英子の婿として山岡家の家督を継いで貰ったのである。

泥舟は槍では天才的な才能があり、わずか22歳で幕府の講武所の教授に任じられ伊勢守となった。海舟の評では「泥舟は稽古となれば、命知らずで遣ったので天下一の槍術家になったよ。孝明天皇の耳にも達して槍一本から従五位伊勢守にもなった男だ。」

次第に若手幕臣の中心となるが理論武装派というよりも心情的リーダーという存在であった。いろいろな若手が頼ってきたが、その中の清川八郎が京都の尊王攘夷派を粛清するための浪士隊を組織しようというので泥舟と鉄舟も協力した。ところが、京都についた八郎は幕府を裏切り自ら尊皇攘夷に動いた。文久3年(1863)のこと、泥舟はこの不始末から解職、閉門を命じられた。

以後はひたすら槍に励んでいたが、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで将軍慶喜が江戸に逃げ帰ってきた。泥舟は江戸城に駆けつけ海舟らと相談の上、慶喜を上野の寛永時に謹慎させ、恭順の意を示すこととした。泥舟は遊撃隊と精鋭隊を統率して慶喜の身辺警護にあたる。

海舟は東征軍の西郷のもとに使者として泥舟に行って貰いたいと頼む。しかし、慶喜がそれを止める。「伊勢よ、お前が居なくなれば無謀の士がなにをするか解らない。この場を離れないでくれ」という。

泥舟は考え抜いた末、義弟の鉄舟にこの大任を託すことにした。鉄舟は期待と責任と幕府の運命を背負って駿河にいる西郷に合うため、西に向かって出発して往った。

「沢地萃(すい)」の卦。盟主を中心に同志相集まることである。盟主たるものが自尊驕慢になってはいけない。祖宗、先輩の徳を守ってゆくことになれば、吉。

安岡正篤先生は「有名無力より無名有力が貴重なのだ。」と言っている。
高橋泥舟の如きは「無名有力」の人と言えるのではないか。

参考・清川八郎については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27167338.html

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