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幕末の四賢候(島津斉彬、松平春嶽、山内容堂)のもう一人・宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)1818〜1892
3人の賢候とともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を押す一橋派として、伊井大老により蟄居させられた。しかしその後は親友である山内容堂とともに大政奉還にも寄与し、新政府では議定、外国官知事、大蔵卿の重責を務めた。
宗城は進歩的雄藩の藩主たちとの交流を通して、西洋の学問や事情に強い関心を持っていた。そのあらわれとして蛮社の獄で指名手配中の蘭学者・高野長英をかくまい、蘭学の翻訳、教授、砲台の設計などをさせている。
藩内の医師で長崎へ行きシーボルトから西洋医学を学んだ二宮敬作を重用した。敬作の口添えでシーボルトの娘・イネを招き日本で最初の女性産婦人科医としての勉強を援けた。
また、大阪の緒方洪庵の適塾で学んだ大村益次郎という逸材が長州にいると聞くと破格の待遇で招き寄せる。村医としてくすぶっていた大村は二つ返事で求めに応じた。大村には蘭学の翻訳、教授、軍艦の製造・研究をさせた。(大村は後に長州藩士となり倒幕に活躍する)
殖産興業にも意欲的であった。提灯屋であった前原巧山を見出し、日本初の蒸気船の建造を行った。巧山はミシンの製作にも成功し藩の技術革新に大いに貢献した。
宗城が活躍できたのは引退した前藩主・宗紀(むねただ)の存在が大きい。宗紀は藩主時代は財政改革、農業振興、徴税制度の改革におおきな成果をあげ、隠居後も宗城に対しさまざまなアドバイスを与え新しい時代に先駆的対応を促した。実の父子ではないがこの二代にわたる宇和島藩主の日本の近代化につくした功績は大きい。
「山天大畜」の卦。大人君子が大徳・大才を養って動ぜぬ象であり、偉大な王者が勝れた人材を包容して安定している象である。
前藩主・宗紀は寛政4年(1792)生まれ、亡くなった明治22年(1889)には実際には98歳であるが「100歳になった」と明治天皇と皇后から下賜品を賜っている。
側近の者が「侯の長寿の秘訣は何でございますか」と問うたところ「それは女色を慎むことにある」と答えた。重ねて「何歳から女色を慎まれましたか」と質問すると「70歳じゃ」と答えたという逸話が宇和島では有名らしい。
大村益次郎については⇒: http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28041445.html
高野長英については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/26882018.html
シーボルトの娘イネについては⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28800707.html
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