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開明大名の代表・島津斉彬の異母弟。藩主の父として中央を目指した久光。1817〜1887
父は藩主・斉興、母は側室の由羅。有名なお由羅騒動により、兄・斉彬と家督を争ったが藩主にはなれなかった。しかし、5年後に斉彬の急死により長男・忠義の後見人として事実上の藩主になった。
現在も人気のある島津斉彬に対して地味であること、さらに人気のある西郷隆盛と対立したことにより、久光のファンという人は余りいないのではないか。
久光は兄・斉彬に負けず劣らずの勉強家であった。しかし斉彬の西洋好きに大して久光は国学。儒学、史学と云った学問が中心であり、封建性を信奉、君臣制度はその基本であると信じた。
西郷と対立したのは一に西郷側にある。西郷は亡き斉彬を思慕するあまり、久光に対して「斉彬公とは器が違う。」とまで言ったことがある。久光はその非礼な言葉を生涯忘れることが出来なかった。
兄に負けたくなかった久光はどうしても中央政界へ進出したかった。桜田門外いらい膠着した幕藩体制を改善するため、文久2年(1862)公武合体推進のため兵を率いて上京する。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の計画は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。
大久保の薦めもあり、不承ながら西郷を先兵として京都に向かわせたが自分の言いつけを無視する西郷に激怒して遠島処分にする。(西郷なしでこの大事業を成し遂げることに賭けた。)
ところが、早速大問題が起こった。京都滞在中に、有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子が尊王派の志士、真木和泉、田中河内介らと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義邸を襲撃しようと伏見の寺田屋に集結していた。
久光は大久保を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、「同士討ち」を覚悟の上で剣術に優れた藩士を選んで鎮撫使を遣る。鎮撫使たちの説得は成らず激しい斬り合いとなり、6名が死亡し3名が重傷を負った。「寺田屋事件」である。
多大な犠牲を払いながらも久光の朝廷に対する働きかけにより、
1、将軍・徳川家茂の上洛。
2、5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置 。
3、一橋慶喜の将軍後見職と前越前藩主・松平春嶽の大老職就任。
の「三事策」を幕府に要求するため勅使・大原重徳に随行して江戸に下向、幕府との交渉に当たり「三事策」を実現させる(文久の改革)。
目的を達成し東海道を江戸から京都に上る途上、生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区)でイギリス民間人4名と遭遇、久光一行の行列を乱したという理由で随従の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「生麦事件」が起こる。
生麦事件により薩英戦争が起こるが、幸い薩英同盟のきっかけともなり、結果的には日本の歴史を一歩前進させることになる。久光の中央進出計画は大成功を治めた。
久光と西郷の関係は「火沢睽(けい)」の卦。反目する。睨み合う。背く。である。
反目することにより、自分を成長させれば吉となることもある。
意外に思われるだろうが、昭和天皇の皇后さまは久光の曾孫にあたるので、今上天皇は玄孫である。
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