さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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皇室を尊崇し幕府への忠誠・「敬神崇祖」貫き、砕け散った会津藩主・松平容保(かたもり)1835〜1893

美濃高須藩主・松平義建の6男として生まれ、会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。

会津松平家24万石は、2代将軍徳川秀忠の庶子・保科正之を藩祖とし、越前松平家などと並んで、徳川御三家に次ぐいわゆる御家門として高い家柄である。質実剛健の藩風であり、その精強さは同じく戦国の士風を残す薩摩藩に匹敵するといわれた。

万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺で倒れると、幕府の威権は失墜し、にわかに朝廷のある京都はテロの嵐が吹き起こり、治安は著しく悪化した。このことを憂慮した幕府は強力な軍隊を京都に常駐させ治安の安定を図ることにした。この白羽の矢がたったのが会津藩であり松平容保である。

将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職・松平慶永(前福井藩主)は容保の京都守護職を口説きに口説いた。
容保は財政難を理由に守護職の就任を固辞。大勢の藩兵の京都駐留に掛かる莫大な費用もさることながら、勢いを増す尊王攘夷派の矢面に立つことは決して得策ではなかった。

会津からは、国家老・西郷頼母、田中土佐が至急江戸に出府し、「このような時勢に京都守護職就任など好んで火中の栗を拾うようなもの」と必死に守護職辞退の諫言を行った。

しかし、容保はもはや辞退できる状況ではないことや、追い詰められた状況を述べ、ついに西郷頼母、田中土佐らは容保の苦衷に感泣し、「君臣ともに京の地を死に場所にしよう」と決意した。君臣相擁して泣いたと言われている。

実は、会津藩には京都守護職の就任を断りきれない理由があった。 藩祖・保科正之が定めた家訓である。その第1条は「将軍に忠勤を尽くせ。我が藩は他の藩とは違う。もし将軍に異心を懐く者があればそれは私の子孫ではない。家臣たちもそのような者に従ってはならない。」というものだ。

京都守護職の就任を決断した容保の心境は、
自ら省(かえり)みて直(なお)くんば、千万人といえども我行かん(孟子)
「天雷无妄(むぼう)」の卦。嘘、偽りの全くない心境である。

藩の存亡を賭けて容保は京都守護職に就任した。文久3年8月18日。会津藩は薩摩藩と同盟して尊王攘夷派の長州藩と長州派公家を御所から追放することに成功する。世に言う「8・18の政変(禁門の政変)」である。孝明天皇は容保の忠誠と指揮の見事さに熱く信頼を寄せた。そして、臣下に対しては異例である宸翰(しんかん・手紙)と御製(和歌)を容保に下賜された。

孝明天皇の宸翰の内容は、
堂上以下暴論をつらね、不正の所置増長につき痛心堪えがたく、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患掃攘朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすものなり(原文漢文)
 御製は、
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる

和らぐも たけき心も 相生の まつの落ち葉の あらず栄えむ

武士と こころあはして いはほ(巌)をも つらぬきてまし 世々のおもひで

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