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尊王と幕府への忠誠を尽くした会津藩は急転直下の暗転、史上類を見ない過酷な運命に陥る。
8・18の政変以後、翌年の新選組の切込みによる池田屋事件、そして禁門の変により長州の尊攘派の憤激は会津藩に向けられた。
長州藩と薩摩藩は密かに同盟を結び、幕府の第2次長州征伐は失敗し、将軍家茂は失意のうちに大坂城で陣没する。 一橋慶喜が将軍職を継いだものの、続いて孝明天皇が崩御。
時勢は倒幕への流れを加速した。 慶応4年正月3日。鳥羽伏見の戦いで会津藩兵を主力とする幕府軍は、薩長軍に敗退し、朝敵にされてしまう。 しかも、江戸に戻った容保は慶喜から江戸府内からの退去を命じられる。慶喜にとってもはや容保と会津は邪魔な存在になった。
あれほど忠誠を尽くしてきた徳川家からも裏切られた容保と会津藩の苦衷は察するにあまりある。失意の内に容保は会津に戻り城外に謹慎した。
戊辰戦争での会津藩は完膚なきまでに生贄にされた。
錦の御旗を擁して薩摩長州を主力とする新政府軍は奥羽の地に乗り込んできた。江戸城を無血開城とした新政府軍は徳川家の身代わりに日本中の人心を新たにするためにも壮絶な戦争にしたかった。
慶応4年8月23日。世に有名な飯盛山における白虎隊自刃の悲劇。家老・神保内蔵助、田中土佐の両名も敗戦の責任をとって自刃。城下の武家屋敷でも、足手まといにならぬよう女子供は自刃する。婦女子でも薙刀の覚えのある者たちは城外で薙刀を振るって戦った。後に「娘子軍」と呼んだ。この戦いで奮戦した中野竹子は有名。
篭城戦は1ヶ月におよんだ。その間、新政府軍は城に猛烈な砲撃を加え、砲弾が1日におよそ2700発も城に打ち込まれたという。城内に戦死者が続出。その死骸は埋葬することもできずやむなく城の空井戸に入れられ、落城時には2つの空井戸が戦死者の遺骸で埋まったという。
9月22日午前10時。ついに大手門前に白旗が掲げられ会津藩は降伏した。降伏後も新政府の敗戦国・会津に対する処置は過酷を極めた。藩主容保の命は助けられたものの、家老・萱野権兵衛は切腹。藩士はことごとく異郷に移され謹慎させられた。
会津側の戦死者の遺骸は賊軍として埋葬が許されず、野ざらしにされ野犬や鳥などの餌食となった。戦死者の遺骸を長く放置し辱めるなど長い日本の合戦史上でも希な処置であった。
明治2年松平家再興の許しがあり、下北半島北部に移された。そこで藩名を「斗南藩」と称した。表高3万石。しかし実質1万石にも満たない土地であった。その土地に藩士と家族1万7千人あまりが移住した。そのため飢えと寒さに苦しんだ。 まさに一藩流罪と言える。
容保は明治になって賊軍の汚名を受けたが一切抗弁しなかった。廃藩置県により斗南から東京に移った容保は、晩年日光東照宮などの宮司を勤め、明治26年59歳で亡くなった。容保の死後、容保が亡くなるまで肌身放さず持っていた一本の竹筒が発見された。竹筒の中身はあの孝明天皇から下された御宸翰であった。会津が官軍であった唯一の証である。
大きな穴に陥ってしまう。「坎為水(かんいすい)」の卦。「習坎」ともいう。艱難が次々と襲い掛かる象である。どう足掻いても逃れることは出来ない。「憂きことの なほこの上に つもれかし 限りある身の 力ためさん」 の気概を要する。
本来なら徳川家が負うべき運命であった。犠牲になった会津藩には手を合わせるだけである。
明治15年、会津藩出身の女性がアメリカで教育を受けて日本に帰国した。(幕末の女)山川捨松については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/30393703.html
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