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備中聖人と称された松山藩の哲人経世家・山田方谷(ほうこく)(1805〜1877)
山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。幼少時から賢い子であったので父・五朗吉はお家再興を願い儒家の塾で学ばせる。
期待に答えて頭角を現した方谷は 21歳 名声広まり藩主、板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)を得、士分にとりたてられ藩校の筆頭教授に任命された。
遊学を許され京都の寺島白鹿に学ぶ。このとき、陽明学に出会う。その後30歳の時2年半の 江戸遊学で佐藤一斎の門下に入る。このとき、佐久間象山と出会う。
方谷と佐久間象山が毎晩遅くまで大議論をしたため、他の塾生が「眠れなくて困る」と師の 佐藤一斎に訴えたことがある。すると一斎は「あの二人の議論ならば、お前たちが我慢しろ」と答えた話は有名である。それ程二人の俊秀ぶりは一斎も認めていたのだろう。
方谷に大きな転機が訪れたのは45歳の嘉永2年、藩主の交代によって養子である板倉勝静(かつきよ)が藩主になった。勝静から元締役を要請され、破綻寸前の備中松山藩の改革を任されのだ。
「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」「義に生き、義が発揮されるなら利益は後からついてくる。」という「理財論」を表し、それを実践することで、改革を成し遂げた。
最初に取り組んだのが負債整理。大阪の商人たちにこれまでの備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の猶予を申し入れた。大阪商人は、方谷が示した「産業振興策」が具体的、正確、緻密なので心を動かした。そして、利子の免除、50年の借金棚上げを承認した。
「産業振興策」その内容は、備中にある砂鉄を使って、当時の人口の80%を占める農家を相手にした農具の商品開発である。備中鍬の誕生であった。従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、大ヒット商品となりわずか2年で借金を完済した。
タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、「備中」の名で売り出した。販売方法についても西国の藩は、産物を大阪に卸すのが常識であったが、方谷は外国船を購入し、江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売したので利益が上がった。正しい「商」は「義」として大いに奨励した。
方谷の改革は財政改革に止まらない。人心、風俗、習慣まで改まった。一たび旅人が松山藩内に入ると「成る程、ここが噂の松山か。」と感心するほど村人たちの表情が明るく礼儀正しかったという。
元治元年(1864)藩主の板倉勝静は老中首座として、長州征伐に出陣。慶応3年の 大政奉還ののち戊辰戦争おこり藩主は旧幕府軍として出陣した。留守を守る方谷は重臣たちと協議の上、征討軍に無血開城すると決定。
新政府軍は藩主・勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、方谷を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した。松山城を占領した岡山藩では名君・池田光政が陽明学を振興していたことも岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。
明治政府の大久保利通、木戸孝允はたびたび 方谷を大蔵大臣に要請したが、主君であった勝静が謹慎中であることを理由に応じ無かった。明治4年 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義を続け、明治10年73歳にて死去。
方谷には各地から弟子が集まった。長岡藩の家老・河井継之助も学びに来た。
「天火同人」の卦。大きな社会の下に一つの文明があり、そこに同士が集まることを顕している。
方谷の思想は後に弟子の三島中洲(二松学舎創立者)の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。
安岡正篤先生は名著「陽明学十講」の中で方谷を「幕末陽明学の大家の中でも最も尊敬すべき学者」として照会している。
佐藤一斎については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/26498700.html
佐久間象山については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27337839.html
藩主・板倉勝静についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/35907932.html
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