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武士よりも武士らしく尊皇攘夷を貫いた僧・月照1813〜1858
「尊皇攘夷」について考えて見たい。
日本が250年あまり太平の眠りをむさぼっている間に、欧米諸国では産業革命を起し工業化を進めた。未開発国を競って植民地とし、すさまじい勢いでアジア、アフリカを侵略していった。
イギリスはインドを征服し、続いて清国を破って香港を領有した。フランスはインドシナ、ロシアはシベリア、カムチャッカを占領。新興国アメリカもアジアに目を付け始めていた。各国とも次は日本に進出しようと虎視眈々と機会をうかがっていた。
かくして日本人も長い眠りから覚め、危機感を持って欧米列強に備え始めたのである。
日本人が一つにまとまろうとする時、必ず中心となるのが「尊王」である。
今の日本人なら「何故、攘夷なの?」と思うだろうが、当時の日本人にとっては外国人とは野蛮人というイメージを抱いていた風にも思える。それほど日本人の文化は進んでいたし、儒教を中心に教養も行き渡っていた。
250年間外国人を見たことがないのだから無理はない。当然、自国を守るためには「攘夷」が合言葉のように勇気ある日本人の中に広まっていった。
「尊皇攘夷」は武士を筆頭に各層にも及んでいる。清水寺・成就院の住職である月照も憂国の士である。薩摩藩主・島津斉彬とも親しく、京都の公家とも人脈多く、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。
安政の大獄を前に島津斉彬が急死したとき、ショックのあまり殉死しようとした西郷吉之助を「あんたさんが亡き殿の遺志を継がんでどないする。」とこんこんと諭し殉死を止めたのが月照である。
安政の大獄で幕府から追われる身となり、西郷と共に京都を脱出する。そして薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、斬り捨てろという意味である。
追い詰められた西郷と月照は死を覚悟し、共に錦江湾に入水自殺した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。
辞世の歌は「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」
危機に遭遇した日本人が心を一つにする。
「沢地萃(すい)」の卦。至聖、至尊なるものに集まるということ。
その中心であった孝明天皇はひたすら「民やすかれ、国やすかれ」と祈り続けた。その御製「朝夕に 民やすかれと おもふ身の こころにかかる 異国(ことくに)の船」
今後の日本人はあらゆる国を理解し常に思いやりを持って調和すること。
徳有るは敬い、徳無きは哀れみ、尊敬される国とならねばいけないだろう。
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