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吉田松陰の親友であり、池田屋事件に散った尊王攘夷の士・宮部鼎蔵(ていぞう)1820〜1864
肥後国益城郡田代村(熊本県御船町)に医師の子として生まれる。叔父の宮部増美の養子となる。
山鹿流軍学を学び、抜群の成績が評判になり、熊本藩に召し出された。
同じく山鹿流軍学を修めた長州藩の吉田松陰が九州遊学した時知り合い忽ち意気投合した。二人は夜を徹して日本の将来を語り合った。鼎蔵30歳、松蔭20歳。兄弟のような親しみを持った。
翌年、江戸で二人は再会する。鼎蔵は藩の許可を得て東北へ遊学するところだった。外国船がしきりに日本に迫り来る頃であり、地方視察のため松蔭も是非同行したいと願い出た。
鼎蔵に異存は無かったが問題は松蔭の藩からの許可が下りない。しかし、松蔭は鼎蔵との東北旅行のため藩に無許可で出発する。水戸藩、会津藩を始め東北事情を見聞した。
安政元年(1854)松蔭は鼎蔵に重大な計画を打ち明ける。再来航したペリーの艦艇に密航するという。「幕府が許可しない以上、外国を知る方法はこれしかありません。」松蔭の決意は固い。「よし、見事に死んで来い。俺もやる。国のためきっと命を捨てる。」二人は国のために命を捨てようと誓い合った。
松蔭は密航に失敗し萩の野山獄に入り、その後松下村塾で弟子を育て安政の大獄にて刑死した。
鼎蔵は熊本の肥後勤皇党に参加していたが、尊皇攘夷の情已み難く脱藩して京都に出る。松蔭の弟子たちとともに尊王運動に加わる。文久3年(1863)の八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると鼎蔵も長州藩へ去る。
翌年、元治元年(1864)巻き返しを図って京都へ潜伏。池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが捕えられるのを拒み自刃する。享年45歳。
同志を表す卦は「天火同人」。同人誌はここから。友をつくるには身内同族より遠く外に求むべし。
迫り来る国家の危機を前にして命を捨てようと誓い合う若者。
こんな若者により現在の日本があることを忘れたくない。
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