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8・18の政変により京都を追われた尊攘派公卿・三条実美(さねとみ)1837〜1891
父の実万(さねつむ)が内大臣の要職にあったとき、父から天才と聞かされていた福井藩の松平春嶽の家臣・橋本佐内が三条邸を訪ね何やら密談をしていたのをその凛とした姿とともに実美は記憶していた。
実美23歳のある日、その3歳年上の橋本佐内が江戸で刑死したと聞き実美は驚いた。
大老・井伊直弼による安政の大獄である。父・実万も辞官落飾となったことから、政争に巻き込まれ、次第に尊攘思想を強めていった。
実万の遺志を継いで朝権回復、攘夷の遂行をもってその任とした。実美は公家尊攘派の中心となって和宮降嫁を断行した公武合体派の公家・岩倉具視を弾効する。
長州藩と提携し、勅使として江戸城に赴き幕府に攘夷の実行を督促するとともに勅使の待遇を改めさせ、朝幕の力関係を逆転させ「王政復古」のため獅子奮迅の働きを誓った。
ところが、会津、薩摩二藩を中心とする公武合体派は長州藩と尊攘派の公家を排除する作戦を立てていた。
文久3年(1863)8月18日である。実美が目を覚ますと御所方面が騒然としている。参内しようとすると御所の周囲は会津、薩摩二藩の兵士で一杯である。
一転、実美を始め、7人の尊攘派公家は京都追放の憂き目に遭った。世にいう8・18政変である。
已む無く長州へ下ることになるがその旅費さえ無かったのである。肥後の宮部鼎蔵が奔走して毛利家から朝廷への未納の献納金を調達し、これを七卿西下の諸経費にあてた。
逆境、不遇に陥ること。「地火明夷(めいい)」の卦。夷は破れる意味で明が破れるのである。いかなる艱難にもその志操を変えなければ吉である。
七卿のうち、一人は病死し、一人は軍資金を持ち逃亡した。
実美ら5人は大宰府に幽閉され5年の忍耐の日々を送る。
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