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吉田松陰が長州一の俊才と期待した弟子・久坂玄瑞1840〜1864
萩藩医・久坂良迪の二男として生まれる。藩校・明倫館に入って医学および洋書を学んだのち、安政3年、17歳で九州に遊学。訪ねた宮部鼎蔵より吉田松陰の名を知る。
早速帰藩すると、松下村塾に学び始めた。高杉晋作、吉田稔麿と共に松下村塾の三秀といわれた。松陰は玄瑞の純粋さと優秀さに惚れ込み、自分の妹・文と結婚させている。
安政5年、京都・江戸に遊学し、安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、尊皇攘夷の立場から反対し、藩論の転換に尽力した。
幕府へ攘夷を督促するための勅使・三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉晋作らと御楯組を結成、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
長州の京都藩邸御用掛として尊皇攘夷のリーダーとなり攘夷祈願の行幸を画策した。幕府に無理やり攘夷を上奏させると帰藩し、下関にて光明寺党を結成。首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃事件に加わった。
しかし幕府側は八月十八日の政変によって長州勢を朝廷より一掃する。
7人の公卿たちと京都を脱出、長州へ落ち延びた。玄瑞は再び京都へ舞い戻り、攘夷倒幕運動の中心人物として東奔西走する。
元治元年6月5日に起こった池田屋事変で多くの志士を失った長州藩は翌月挙兵、京都御所へ進軍。幕府軍と死闘を繰り広げる。禁門の変である。しかし長州藩はこの戦いに敗れ、玄瑞は鷹司邸内で自刃。享年25歳。明治24年、贈正四位。
革命を表すのは「沢火革」の卦。安岡正篤先生の「易学入門」には「幕府三百年の教学と修養があって、始めて明治維新の成功があった。自己を深めることなくして、自己を世に革新することはできない。」とある。
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、いずれも徳川三百年の教学が育てた逸材であった。
明治の高官たちは揃って「今こそ彼らの指導を仰ぎたい」と常に語っていたという。
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