|
解良家に残る良寛の書(心月輪)
晩年の良寛は木村家の他にも阿部家、解良(けら)家にも寝泊りしている。良寛が73歳で亡くなったときに20歳だった解良栄重(よししげ)は子供の頃からの良寛の逸話を「良寛禅師奇話」としてまとめている。こんな記述がある。
「師、余が家に信宿日を重ぬ。上下自ら和睦し、和気家に充ち、帰去ると云ども、数日の内、人自ら和す。師と語ること一夕すれば、胸襟清きことを覚ゆ。師、更に内外の経文を説き、善を勧むるにもあらず。或は厨下につきて火を焚き、或は正堂に座禅す。其話、詩文にわたらず、道義に及ばず、優游として名状すべきことなし。只道徳の人を化するのみ。」
良寛の人柄が偲ばれる一文である。晩年の良寛は誰からも慕われ尊敬されていた。その良寛も70代になると寒中の独り暮らしが原因だろうひどい下痢に悩まされた。それでも阿部定珍や貞心との歌のやりとりが何よりの楽しみだった。とくに貞心から歌が届くと小躍りして喜んだ。
天が下に みつる玉より黄金より 春のはじめの 君がおとづれ
秋萩の 花咲くころは 来て見ませ 命またくば 共にかざさむ
夏のある日、貞心が良寛の庵を誘うと庵は留守だった。ふと見ると花がめに蓮の花が活けてあった。
来て見れば 人こそ見えね いほもり(庵守)て にほふ蓮の 花の尊き
貞心にとって良寛は蓮の花だった。良寛の死後、貞心は「はちすの露」という歌集を編んだがこの歌が基ではないだろうか。良寛にとっても貞心は天が贈ってくれた一輪の花だった。
1830年の暮れ、73歳の良寛は急に重体に陥った。貞心は人の知らせでかけつける。良寛は貞心を待ちわびていた。
いついつと 待ちにし人は きたりけり 今はあひ見て なにかおもはむ
貞心は片時も離れず看病した。(以前は医師の妻、心得はあった。)
生き死にの 堺はなれて 住む身にも 去らぬ別れの あるぞかなしき
歌を良寛に見せると、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」最後の返し歌である。正月6日、貞心や弟・由之に見守られ静かに息をひきとった。
*** *** 上卦は地
*** *** 大地、陰の代表
*** ***
******** 下卦は山
*** *** 勤勉、動かざるもの
*** ***
「地山謙」の卦。謙は謙遜、謙虚の謙である。高い山が地の下に隠れている象を表している。「稔るほど頭をたるる稲穂かな」 教養もあり、心の豊かな人が、己を虚しくして人にへりくだるとき、その香気は一層光輝くものである。
名主の身分を捨て、心の豊かさだけを追求して生きた良寛。財産という財産は何も所有しなかった良寛。何も持たなかった良寛こそ最も豊かな人生を生きたのではないだろうか。経済至上主義の現代人に良寛は何を語るのか。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用



