<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
<channel>
<title>さわやか易</title>
<description>いらっしゃいませ。易学を誰にでも解かり易くお伝えしたいと思い始めたブログです。 
 
 7周年を迎えましたが、広くそして深い易の魅力を伝えることは容易ではないことに 
気づかされております。 
 
 易の下卦を順番に現代のドラマにした「ある夫婦の物語」が無事終結しました。 
 
 今後は明治からの歴史に登場する人物を描くことにより、現在の日本の姿を考えて見たいと試みています。 
 
 一段落したところで、易学の本体に取り組む予定でおります。 
 
 どうぞ気長にお付き合い頂ければ幸いです。（猶興）</description>
<link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/url/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdQ--</link>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
<image>
<title>さわやか易</title>
<url>
    https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif
</url>
<description>いらっしゃいませ。易学を誰にでも解かり易くお伝えしたいと思い始めたブログです。 
 
 7周年を迎えましたが、広くそして深い易の魅力を伝えることは容易ではないことに 
気づかされております。 
 
 易の下卦を順番に現代のドラマにした「ある夫婦の物語」が無事終結しました。 
 
 今後は明治からの歴史に登場する人物を描くことにより、現在の日本の姿を考えて見たいと試みています。 
 
 一段落したところで、易学の本体に取り組む予定でおります。 
 
 どうぞ気長にお付き合い頂ければ幸いです。（猶興）</description>
<link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/url/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdQ--</link>
</image>
        <item>
        <title>友愛・平和さんのコメント</title>
        <description>義和団事件の勃発&lt;br /&gt;
 １９００年６月、蜂起した義和団は、たちまち北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
８ヶ国連合軍の北京出兵&lt;br /&gt;
 これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の８ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に入り義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。８ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン＝アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北京議定書の調印&lt;br /&gt;
 北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して１９０１年７月に北京議定書（辛丑和約、または辛丑条約ともいう）を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80ODg0MTQ2Mi5odG1sIzQ5NjgyODkw</link>
        <pubDate>Sun, 09 Dec 2018 15:52:59 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>歴史の真実を世紀ごと学ぶさんのコメント</title>
        <description>19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。&lt;br /&gt;
イポリット・テーヌは1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている。&lt;br /&gt;
美術史家バーナード・ベレンソンは1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼（レオナルド）が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80Nzc2MDcyNy5odG1sIzQ5NjAxMjAz</link>
        <pubDate>Sun, 02 Sep 2018 10:49:28 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>pinkeyさんのコメント</title>
        <description>ブログ開設12周年おめでとうございます！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これからも勉強させていただきたいと思います。&lt;br /&gt;
これからも宜しくお願いします。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80OTU4MDQ4Mi5odG1sIzQ5NTgwNzEy</link>
        <pubDate>Wed, 08 Aug 2018 20:36:23 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>環境歴史観光防災カメラマンさんのコメント</title>
        <description>ポーランド孤児 １９２０年～１９２２年、ポーランド孤児７６３名は、日本赤十字社の迅速な救助によって敦賀港に無事上陸しました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寒風吹きすさぶシベリアの荒野を飢餓と闘いながら放浪を余儀なくされた。 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 1920（大正９）年７月２３日、ロシアのウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」が敦賀港に入港しました。乗船していたのは粗末な服を 着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供たちでした。&lt;br /&gt;
子供たちは町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食をとった後、列車で東京へ向かいました。彼らは、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児 でした。その後も上陸は続き、計５回にわたり375名の孤児たちが救われました。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80NDg1NTEyMS5odG1sIzQ5NTc4MDQ4</link>
        <pubDate>Sun, 05 Aug 2018 13:40:41 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>歴史を学び未来の平和を繁栄を祈るさんのコメント</title>
        <description>戦後、第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1946年5月に占領下の日本を視察したフーヴァーは、東京で連合国軍総司令部のマッカーサーと会談した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その際フーヴァーはマッカーサーに対し、第32代大統領ルーズベルトを指して、太平洋戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 開戦前の1941年7月に行われた在米日本資産の凍結などの経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語った。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80OTE4Mjk3OS5odG1sIzQ5NDgzNjY1</link>
        <pubDate>Sun, 22 Apr 2018 22:37:37 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>マレーシアにまた行きたいなさんのコメント</title>
        <description>初期には東インド（インドネシア）の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国の広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80ODA4MTg3OS5odG1sIzQ5NDQ3Mjcx</link>
        <pubDate>Sat, 17 Mar 2018 12:07:15 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>闇に光をさんのコメント</title>
        <description>【1937年 毛沢東】&lt;br /&gt;
「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。 &lt;br /&gt;
 なお毛がまとめた『持久戦論』では日本軍の戦略を「包囲は多いが殲滅が少ない」と批判している。&lt;br /&gt;
 毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80NjA2MTg4Ni5odG1sIzQ5Mzc1MjAz</link>
        <pubDate>Fri, 29 Dec 2017 22:13:40 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>国益平和マネジメントさんのコメント</title>
        <description>列強のアジア植民地における弾圧と虐殺&lt;br /&gt;
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。&lt;br /&gt;
事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。&lt;br /&gt;
また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しに</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80ODk5OTAwNS5odG1sIzQ5MTMwMjE4</link>
        <pubDate>Fri, 05 May 2017 09:06:18 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>日中国交正常化45年南京80年に学ぶさんのコメント</title>
        <description>袁世凱の台頭と帝制運動&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袁世凱&lt;br /&gt;
中華民国成立後、1913年2月国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。&lt;br /&gt;
3月、議会からの圧力を警戒した袁世凱は国民党の宋教仁を暗殺した。&lt;br /&gt;
袁世凱は進歩党を組織し国会内での勢力拡大を図り、議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。&lt;br /&gt;
国民党の急進派はこれに反発、第二革命を起こしたが鎮圧された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1913年10月袁は正式な大総統となり、さらに11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。&lt;br /&gt;
しかしこのような外国依存の財政は、のちに列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80ODg1Nzk3NC5odG1sIzQ5MTE2NDAz</link>
        <pubDate>Sat, 22 Apr 2017 21:01:24 +0900</pubDate>
    </item>
            <item>
        <title>日中国交正常化45年南京80年に学ぶさんのコメント</title>
        <description>そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった（盧溝橋事件）。&lt;br /&gt;
この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。&lt;br /&gt;
apaから引用</description>
        <link>https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/cmt/rss2/item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9rYW5vdXl1dWtvdS80NTM4NTkzOC5odG1sIzQ5MDUzOTM3</link>
        <pubDate>Sun, 26 Feb 2017 07:18:46 +0900</pubDate>
    </item>
    </channel>
</rss>