さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

さわやか易・文化芸術編

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赤い靴。

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♪ 赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった ♪

                   作曲・本居長世  作詞・野口雨情

このブロンズ像は横浜の山下公園に置かれてあるが、この唄がつくられたのは北海道・札幌である。

野口雨情は作詞家として世に出る前、一時札幌で新聞記者をしていたことがある。北鳴新報という小さな新聞社であったが、そこに鈴木志郎という男がいた。

ある日、雨情は鈴木の家で飯を一緒に食べた。そのとき鈴木の妻かよが涙ながらに語った話は雨情には身に詰まされた。雨情には前年、生まれて間もない娘に死なれた悲しい出来事があったからである。

かよは静岡の出身である。事情があり未婚の母として、赤子の娘を連れて北海道に渡ってきた。やがて、鈴木と再婚し開拓農場に入植することになる。ところが想像を絶する厳しさから、やむなく3歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻の養女に出した。

そして懸命に働いたが、静岡から呼び寄せた弟を過酷な労働の中で亡くし、開拓小屋まで火事で無くし失意の中で札幌へ移って来たというのだ。

雨情は「きっと、きみちゃんはアメリカで幸せに暮していますよ。」と言って慰めた。この時の話がモチーフになって「赤い靴」は生まれた。

後年、雨情は詩壇にデビューする。かよは「赤い靴」の唄を聴いたとき、「雨情さんがきみちゃんのことを唄にしてくれた」と言っては「赤い靴はいてた女の子〜」と繰り返し歌っていた。きみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに帰り幸せに暮していると信じていたが、その歌声はどこか後悔と悲しみに満ちていたという。

♪横浜の 波止場から 船にのって 異人さんに つれられて 行っちゃった♪

ところが、きみちゃんはアメリカに渡っていなかった。任務を終えたヒュエット夫妻が帰国しようとした時、きみちゃんは不幸にも当時不治の病と言われた結核に冒されとても長い船旅が出来ない。やむなく、東京のメソジスト系協会の孤児院に預けられ、そこで幸薄い9歳の生涯を閉じていた。

♪ 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える ♪
参考・野口雨情については「ぼっちゃんの夢」http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/16095256.html

川の流れのように

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知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生

日本人の心を掴んだ歌姫・美空ひばりとはどんな生き方をしたのだろうか。

昭和12年に横浜の魚屋さんで生まれている。

6歳のとき、父・増吉が出征するが、その壮行会で歌った「九段の母」に聞いてる人たちが涙を流したという。そのとき、母・喜美枝は娘の歌唱力に無限の可能性を発見した。

終戦後、9歳のとき、NHK「素人のど自慢」に出場させると、審査員たちは「上手いが子供らしくない」「非教育的だ」として不合格にした。納得できない母は終了後、審査員の古賀政男に「どうか、もう一度娘の唄を聴いてください」と頼み込み古賀の「悲しき竹笛」を歌わせた。古賀は感心し「のど自慢レベルではない。立派に出来上がっている」「歌手になるならがんばりなさい」とエールを贈った。

10歳のとき、ある漫談の前座歌手として高知県に巡業したが、乗っていたバスが交通事故で崖下に転落する。ひばりは一時、仮死状態となるも助かった。父から「もう歌手は辞めろ!」と怒られたがひばりは「歌を辞めるなら死ぬ!」と言い放った。

11歳のとき、関西興行界を取り仕切る山口組3代目組長・田岡一雄に挨拶し気に入られる。以後、田岡はひばりの後ろ盾となる。当時人気の浪曲歌謡漫談の川田晴久に才能を見込まれ一座に加わる。この年から「美空ひばり」と名乗った。

12歳のとき、映画「悲しき口笛」に出演。シルクハットに燕尾服が大ヒット。レコードは45万枚の最高記録を樹立する。

その後は次々と映画と歌が大ヒット、「天才」という声と「子供が大人の真似をして可愛くない」という声、子供ながらも大スターの地位を築く。

16歳の頃には、「お嬢」と呼ばれ、映画ではひばりと共演した男優は大スターになると言われた。中村錦之助、市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健など。

NHK紅白歌合戦には17歳から出場、出場17回、10年連続のトリ、33歳の時には大トリと司会を始めて兼任した。

江利チエミ、雪村いづみと3人娘と言われたのは18歳の頃からである。

アクション映画のスター・小林旭と結婚したのは25歳の時で2年後には離婚した。「芸を捨て、母を捨てることは出来ない」と語ったが、深い傷を負った。

最大のヒット曲となった「柔」は180万枚の売り上げ。そのあと、「悲しい酒」「芸道一代」「真赤な太陽」と続く。

30代の後半になると、実弟・かとう哲也の不祥事、公然の秘密と言われた山口組との関係が問題化するなど視聴者からのパッシングも強まり、紅白は辞退、ひばりにとっては辛い時期を過ごす。

40代になり、NHKビッグショウに復帰、紅白30周年記念では特別出演もした。しかし、母・喜美枝、実弟・哲也と武彦、親友・江利チエミと相継いで死別。ひばりに残されたものは歌だけであった。49歳、「愛燦燦」がヒット。しかし、孤独の毎日に酒とタバコの量が増えて行き、少しづつ身体を蝕むことになる。

50歳、公演先の福岡で倒れ入院。慢性肝炎、両側大腿骨骨頭壊死で4ヶ月の入院生活。退院後には新曲・「みだれ髪」のレコーディング。

51歳、新築の東京ドームにて「不死鳥コンサート」39曲の熱唱。終了後には倒れこんだ。

52歳、最後のヒット曲「川の流れのように」しかし、もうひばりの肺は冒されていた。2月、北九州市の公演後再入院。退院し3月、ニッポン放送の10時間番組に生出演、終了後急変、順天堂大学病院へ入院。平成元年6月24日間質性肺炎による呼吸不全のため、死去。
 

ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ああ 川の流れのように とめどなく  空が黄昏に 染まるだけ

ぼっちゃんの夢。

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♪〜シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた。  シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 生まれて直ぐに こわれて消えた。   かぜかぜ吹くな シャボン玉飛ばそ ♪〜

人にとって、最も悲しい出来事は愛する者との別れである。
その最たるものは、子供に先立たれることではないだろうか。

「シャボン玉」は生まれて7日目に亡くなった長女を思い、
野口雨情が儚い人の命をシャボン玉に例えて作った唄である。

雨情の生家は茨城県多賀郡磯原村にある水戸徳川藩主のご休息所「観海亭」と称され、
「磯原御殿」とも言われた名家である。村長として人望家の父の長男であった。

少年時代より文学を志し、15歳のとき、東京で衆議院議員を務める叔父の家に寄宿する。
18歳、東京専門学校(早稲田大学)に入学。坪内逍遥に学ぶも試作に専念するため一年で中退。

22歳、父が死亡、家督の相続、結婚、文学と現実の両立は難しく煩悶の日々。
詩人として中央を目指したいが中々芽が出ない。妻や親族の理解も得られない。

詩集の自費出版、新聞記者として札幌へ。石川啄木とも親交、2年間漂白したりもした。
郷里に戻り村の公職、山林管理や漁業組合の役員もしたが文学の夢は棄てられない。
33歳、妻と離婚。36歳、試作専念のため水戸へ、そこで2度目の妻つると結婚。

ようやく、西条八十の紹介で中央の詩壇に、自由詩集の「都会と田園」の刊行により、
詩人としての地位を確立した。大正8年、雨情37歳であった。

その後は、「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」の童謡。
「波浮の港」「船頭小唄」等の歌謡曲も大ヒットし、時代を代表する作詞家となった。

チャンスは容易にやって来るものではない。易学ではあせらず、落ち着いて準備することを可とする。「風山漸」(ふうざんぜん)の卦。長女が落ち着いてお相手からの求婚を待つ象でもある。婚礼の儀式も順序正しく行われるならば吉である。

雨情ほど経済的にも人脈にも恵まれた立場は中々ない。

それでも、芸術の世界では簡単に夢が叶ったりはしない。

人生の苦労を人一倍舐めた者にこそ芸術の花は咲くのだろう。

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朝焼け小焼けだ 大漁だ オオバいわしの大漁だ。 浜は祭りのようだけど 海のなかでは何万の いわしの弔い するだろう

「この詩にはアッと言わせるようなイマジネーションの飛躍がある」(西條八十)
これは、大正13年の金子みすずの「大漁」という詩だ。

みすず(本名テル)は山口県の港町、仙崎の恵まれた家庭に生まれたが、3歳で父を亡くした。
兄と弟がいた。1歳だった弟正祐(まさすけ)は手広く書店を営む子供のいない母の妹夫婦の
実の子として育てられる。

みすず16歳の時その叔母が亡くなり、母が後添えとして再婚することになる。
4年後に兄の結婚を機にみすずも同居することになった。

その頃からみすずの投稿する詩は「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」などの
雑誌に掲載され、当時の巨匠・西條八十からは「若き童謡詩人の巨星」と絶賛されていた。

作曲家を志す正祐は実の姉とは知らずにみすずの詩に感激し特別の愛着を抱いた。
みすずの詩を作曲し世に出すことを夢に見て、詩や唄について毎晩遅くまで語り合ったが、
詩への愛着はいつしか強い恋へと発展してしまった。

二人を心配した養父は姉弟を引き離すためにみすずを店の番頭と無理やり結婚させることに。
猛反対した正祐はみすずが実の姉と知らされ衝撃を受け家を捨てる。

文学に無理解な夫とは始めから衝突が続き、葛藤はみすずを追い詰めた。
夫は試作を禁じ、投稿仲間との文通も禁じた。女遊びを繰り返す夫からは淋病も移される。

逆境の中でもみすずは持ち前の優しさと広い心で夫を愛そうとしたが、
ついに夫には伝わらず離婚し愛娘を残したまま自殺した。26歳の生涯だった。

弟の正祐は作詞家上山雅輔という名で「買い物は自転車に乗って」等のヒット曲を作り、
戦後は劇団「若草」を創設し多くの俳優を世に送り平成元年世を去った。

金子みすずの詩は時代を越えて、人の心を潤す井戸の清水のようだ。井戸のことは易学では「水風井」である。「井は、邑を改むれども井を改めず。喪ふなく得るなし。」邑(町や村のこと)の名を変えることがあっても大切な井戸はそのまま残すものであり、真実なるものは減ることもなく増えることもない。

金子みすずの詩は死後、約半世紀の間、忘れられていた。

晩年まで上山雅輔氏が秘蔵していたみすずの500編に及ぶ遺稿集を
童謡詩人である矢崎節夫氏が発見し、世に出ることになったのである。

井戸の清水のように蘇えったのは昭和57年のことである。

ある日犯人に。

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周防正行監督が実話をもとに作った映画「それでもボクはやってない」

今の世の中で自分が何かの被害者になるかも知れないとは、
誰しも考えることではある。

しかし、自分が何かの加害者となり、犯人扱いをされ、
裁判の被告席に座ろうとは考えもしないことである。

話は満員電車の中で女子中学生から「痴漢したでしょう」と言われ、
身に覚えのない青年が駅の事務所に行くことから始まる。

話せば解るだろうと思ったら駅員は話も聞かず、警察を呼んだ。
「なにもしていません」と言っても警察では全く通じない。

厳しい取調べの後は留置場へ、完全に犯人扱い、当番弁護士にも
「裁判はたいへんですよ。認めて示談にした方が」と言われる。

「なにもしていません」という言葉は何の力にもならない。
被害者が「この人です」と言えば、無実である証拠を提出しなければならない。

裁判は小さな事件でも半年、一年とかかる。精神的苦痛、経済的損失に加えて
世間の冷たい非難、誰も肩代わりしてはくれない。

目の前が真っ暗になる状況を易学では「地火明夷(めいい)の卦」。太陽が地中に隠れる象である。こんな時に処するには「明夷は艱しみて貞なるに利ろし」。自分を信じてじっとしていることである。古来、君子は艱難に処して気を養い信念を強くしたものである。

自分には責任のないことで、何かしら悪者にされたり、友達を失うことになったり。

確かに、有ります。そんな時に慌てたり、騒いだりするのは止めましょう。

易学はどんな時も落ち着いて対処することを、教える学問でもあります。

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