さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の殿様

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徳川幕府は300を越える藩で成り立っていた。
それぞれの藩は独立して独自の特色をもっていた。
その中心は殿様と呼ばれた藩主である。
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会津藩主・松平容保の実弟であり、戊辰戦争では台風の目となった桑名藩主・松平定敬(さだあき)1847〜1908

美濃国高須藩藩主・松平義建の八男。兄に会津藩主・松平容保、尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄がいる。定敬(さだあき)を含め「高須四兄弟」として知られる。

桑名藩主・松平定猷のあとに14歳で定猷の娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となる。
文久3年(1863)の将軍・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行する。

元治元年(1864)に京都所司代に任命され、禁裏守衛総監の一橋慶喜、京都守護職の会津藩とともに京都の「一会桑体制」と言われた。同年の禁門の変では会津藩とともに長州藩の兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。

慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が朝廷より発せられると、容保と定敬は京都警備の任を解かれ、政局からの締め出しを受ける。容保と定敬は将軍慶喜とともに大坂城にて今後の対策を協議していた。

そこに鳥羽・伏見の戦いが勃発。幕府軍は三分の一に満たない官軍に敗北して、大坂城へと逃げ帰ってきた。大坂城では次の戦略を協議していた。慶喜は「全員一丸となって戦おう」と藩士らに激励を発した。しかしその晩、容保、定敬らに命じて側近だけで海路軍艦にて江戸へと脱出する。敵前逃亡であり、容保、定敬は驚いたが将軍の命である。江戸での徹底抗戦を誓い已む無く藩士を置き去りにした。

ところが江戸に着くや慶喜は容保と定敬たちには相談もなく一人上野の寛永寺に謹慎してしまう。江戸は無血開城となり、官軍の支配となる。そこで、定敬は徹底抗戦派の桑名藩士を一まとめにし、江戸から海路、越後の柏崎へ向かい、その地で会津藩らと共同で官軍迎撃にあたることとした。

頂点に立つものが柔弱では組織は成り立たない。「沢天夬(たくてんかい)」の卦。河の決壊を表す象である。

容保と定敬は慶喜とは親戚関係でもあり慶喜の性格を良く知っていた。一番危惧していたのは慶喜の変節癖であった。その変節癖が最も大事な時に現実のものになってしまった。

一方、藩主の居なくなった桑名藩では大論争の末、官軍に恭順が決まった。10歳の先代の遺子・万之助を藩主名代として陣中に行くと「朝敵・万之助!頭を低くせよ!」と長州藩士に怒鳴られた。

定敬たちは会津の地も玉砕すると、仙台へと移動し、そこから榎本武揚が率いる軍艦に乗り込み、箱館へと向かい、そこにて共和制を樹立し、独立国建設に取り組んだ。

しかし、一年も立たずして、新政府軍の鎮圧部隊が北海道に投入された。激戦の末、桑名藩家老・酒井孫八郎の説得により、定敬はようやく降伏した。

新政府は、徹底抗戦の首謀者を死罪にする。桑名藩では藩主に代わって、森陳明(つらあき)が藩の全責任を負って、斬殺された。森は定敬が京都所司代を勤めていた時からの重臣で、彰義隊に参加して、箱館戦争まで官軍と死闘を演じてきた人物であった。

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尊王と幕府への忠誠を尽くした会津藩は急転直下の暗転、史上類を見ない過酷な運命に陥る。

8・18の政変以後、翌年の新選組の切込みによる池田屋事件、そして禁門の変により長州の尊攘派の憤激は会津藩に向けられた。
 
長州藩と薩摩藩は密かに同盟を結び、幕府の第2次長州征伐は失敗し、将軍家茂は失意のうちに大坂城で陣没する。 一橋慶喜が将軍職を継いだものの、続いて孝明天皇が崩御。

時勢は倒幕への流れを加速した。 慶応4年正月3日。鳥羽伏見の戦いで会津藩兵を主力とする幕府軍は、薩長軍に敗退し、朝敵にされてしまう。 しかも、江戸に戻った容保は慶喜から江戸府内からの退去を命じられる。慶喜にとってもはや容保と会津は邪魔な存在になった。

あれほど忠誠を尽くしてきた徳川家からも裏切られた容保と会津藩の苦衷は察するにあまりある。失意の内に容保は会津に戻り城外に謹慎した。

戊辰戦争での会津藩は完膚なきまでに生贄にされた。

錦の御旗を擁して薩摩長州を主力とする新政府軍は奥羽の地に乗り込んできた。江戸城を無血開城とした新政府軍は徳川家の身代わりに日本中の人心を新たにするためにも壮絶な戦争にしたかった。

慶応4年8月23日。世に有名な飯盛山における白虎隊自刃の悲劇。家老・神保内蔵助、田中土佐の両名も敗戦の責任をとって自刃。城下の武家屋敷でも、足手まといにならぬよう女子供は自刃する。婦女子でも薙刀の覚えのある者たちは城外で薙刀を振るって戦った。後に「娘子軍」と呼んだ。この戦いで奮戦した中野竹子は有名。

篭城戦は1ヶ月におよんだ。その間、新政府軍は城に猛烈な砲撃を加え、砲弾が1日におよそ2700発も城に打ち込まれたという。城内に戦死者が続出。その死骸は埋葬することもできずやむなく城の空井戸に入れられ、落城時には2つの空井戸が戦死者の遺骸で埋まったという。

9月22日午前10時。ついに大手門前に白旗が掲げられ会津藩は降伏した。降伏後も新政府の敗戦国・会津に対する処置は過酷を極めた。藩主容保の命は助けられたものの、家老・萱野権兵衛は切腹。藩士はことごとく異郷に移され謹慎させられた。

会津側の戦死者の遺骸は賊軍として埋葬が許されず、野ざらしにされ野犬や鳥などの餌食となった。戦死者の遺骸を長く放置し辱めるなど長い日本の合戦史上でも希な処置であった。

明治2年松平家再興の許しがあり、下北半島北部に移された。そこで藩名を「斗南藩」と称した。表高3万石。しかし実質1万石にも満たない土地であった。その土地に藩士と家族1万7千人あまりが移住した。そのため飢えと寒さに苦しんだ。 まさに一藩流罪と言える。

容保は明治になって賊軍の汚名を受けたが一切抗弁しなかった。廃藩置県により斗南から東京に移った容保は、晩年日光東照宮などの宮司を勤め、明治26年59歳で亡くなった。容保の死後、容保が亡くなるまで肌身放さず持っていた一本の竹筒が発見された。竹筒の中身はあの孝明天皇から下された御宸翰であった。会津が官軍であった唯一の証である。

大きな穴に陥ってしまう。「坎為水(かんいすい)」の卦。「習坎」ともいう。艱難が次々と襲い掛かる象である。どう足掻いても逃れることは出来ない。「憂きことの なほこの上に つもれかし 限りある身の 力ためさん」 の気概を要する。

本来なら徳川家が負うべき運命であった。犠牲になった会津藩には手を合わせるだけである。

明治15年、会津藩出身の女性がアメリカで教育を受けて日本に帰国した。(幕末の女)山川捨松については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/30393703.html

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皇室を尊崇し幕府への忠誠・「敬神崇祖」貫き、砕け散った会津藩主・松平容保(かたもり)1835〜1893

美濃高須藩主・松平義建の6男として生まれ、会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。

会津松平家24万石は、2代将軍徳川秀忠の庶子・保科正之を藩祖とし、越前松平家などと並んで、徳川御三家に次ぐいわゆる御家門として高い家柄である。質実剛健の藩風であり、その精強さは同じく戦国の士風を残す薩摩藩に匹敵するといわれた。

万延元年(1860)、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺で倒れると、幕府の威権は失墜し、にわかに朝廷のある京都はテロの嵐が吹き起こり、治安は著しく悪化した。このことを憂慮した幕府は強力な軍隊を京都に常駐させ治安の安定を図ることにした。この白羽の矢がたったのが会津藩であり松平容保である。

将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職・松平慶永(前福井藩主)は容保の京都守護職を口説きに口説いた。
容保は財政難を理由に守護職の就任を固辞。大勢の藩兵の京都駐留に掛かる莫大な費用もさることながら、勢いを増す尊王攘夷派の矢面に立つことは決して得策ではなかった。

会津からは、国家老・西郷頼母、田中土佐が至急江戸に出府し、「このような時勢に京都守護職就任など好んで火中の栗を拾うようなもの」と必死に守護職辞退の諫言を行った。

しかし、容保はもはや辞退できる状況ではないことや、追い詰められた状況を述べ、ついに西郷頼母、田中土佐らは容保の苦衷に感泣し、「君臣ともに京の地を死に場所にしよう」と決意した。君臣相擁して泣いたと言われている。

実は、会津藩には京都守護職の就任を断りきれない理由があった。 藩祖・保科正之が定めた家訓である。その第1条は「将軍に忠勤を尽くせ。我が藩は他の藩とは違う。もし将軍に異心を懐く者があればそれは私の子孫ではない。家臣たちもそのような者に従ってはならない。」というものだ。

京都守護職の就任を決断した容保の心境は、
自ら省(かえり)みて直(なお)くんば、千万人といえども我行かん(孟子)
「天雷无妄(むぼう)」の卦。嘘、偽りの全くない心境である。

藩の存亡を賭けて容保は京都守護職に就任した。文久3年8月18日。会津藩は薩摩藩と同盟して尊王攘夷派の長州藩と長州派公家を御所から追放することに成功する。世に言う「8・18の政変(禁門の政変)」である。孝明天皇は容保の忠誠と指揮の見事さに熱く信頼を寄せた。そして、臣下に対しては異例である宸翰(しんかん・手紙)と御製(和歌)を容保に下賜された。

孝明天皇の宸翰の内容は、
堂上以下暴論をつらね、不正の所置増長につき痛心堪えがたく、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患掃攘朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすものなり(原文漢文)
 御製は、
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる

和らぐも たけき心も 相生の まつの落ち葉の あらず栄えむ

武士と こころあはして いはほ(巌)をも つらぬきてまし 世々のおもひで

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開明大名の代表・島津斉彬の異母弟。藩主の父として中央を目指した久光。1817〜1887

父は藩主・斉興、母は側室の由羅。有名なお由羅騒動により、兄・斉彬と家督を争ったが藩主にはなれなかった。しかし、5年後に斉彬の急死により長男・忠義の後見人として事実上の藩主になった。

現在も人気のある島津斉彬に対して地味であること、さらに人気のある西郷隆盛と対立したことにより、久光のファンという人は余りいないのではないか。

久光は兄・斉彬に負けず劣らずの勉強家であった。しかし斉彬の西洋好きに大して久光は国学。儒学、史学と云った学問が中心であり、封建性を信奉、君臣制度はその基本であると信じた。

西郷と対立したのは一に西郷側にある。西郷は亡き斉彬を思慕するあまり、久光に対して「斉彬公とは器が違う。」とまで言ったことがある。久光はその非礼な言葉を生涯忘れることが出来なかった。

兄に負けたくなかった久光はどうしても中央政界へ進出したかった。桜田門外いらい膠着した幕藩体制を改善するため、文久2年(1862)公武合体推進のため兵を率いて上京する。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の計画は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。

大久保の薦めもあり、不承ながら西郷を先兵として京都に向かわせたが自分の言いつけを無視する西郷に激怒して遠島処分にする。(西郷なしでこの大事業を成し遂げることに賭けた。)

ところが、早速大問題が起こった。京都滞在中に、有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子が尊王派の志士、真木和泉、田中河内介らと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義邸を襲撃しようと伏見の寺田屋に集結していた。

久光は大久保を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、「同士討ち」を覚悟の上で剣術に優れた藩士を選んで鎮撫使を遣る。鎮撫使たちの説得は成らず激しい斬り合いとなり、6名が死亡し3名が重傷を負った。「寺田屋事件」である。

多大な犠牲を払いながらも久光の朝廷に対する働きかけにより、
1、将軍・徳川家茂の上洛。
2、5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置 。
3、一橋慶喜の将軍後見職と前越前藩主・松平春嶽の大老職就任。
の「三事策」を幕府に要求するため勅使・大原重徳に随行して江戸に下向、幕府との交渉に当たり「三事策」を実現させる(文久の改革)。

目的を達成し東海道を江戸から京都に上る途上、生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区)でイギリス民間人4名と遭遇、久光一行の行列を乱したという理由で随従の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「生麦事件」が起こる。

生麦事件により薩英戦争が起こるが、幸い薩英同盟のきっかけともなり、結果的には日本の歴史を一歩前進させることになる。久光の中央進出計画は大成功を治めた。

久光と西郷の関係は「火沢睽(けい)」の卦。反目する。睨み合う。背く。である。
反目することにより、自分を成長させれば吉となることもある。

意外に思われるだろうが、昭和天皇の皇后さまは久光の曾孫にあたるので、今上天皇は玄孫である。

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幕末の四賢候(島津斉彬、松平春嶽、山内容堂)のもう一人・宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)1818〜1892

3人の賢候とともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を押す一橋派として、伊井大老により蟄居させられた。しかしその後は親友である山内容堂とともに大政奉還にも寄与し、新政府では議定、外国官知事、大蔵卿の重責を務めた。

宗城は進歩的雄藩の藩主たちとの交流を通して、西洋の学問や事情に強い関心を持っていた。そのあらわれとして蛮社の獄で指名手配中の蘭学者・高野長英をかくまい、蘭学の翻訳、教授、砲台の設計などをさせている。

藩内の医師で長崎へ行きシーボルトから西洋医学を学んだ二宮敬作を重用した。敬作の口添えでシーボルトの娘・イネを招き日本で最初の女性産婦人科医としての勉強を援けた。

また、大阪の緒方洪庵の適塾で学んだ大村益次郎という逸材が長州にいると聞くと破格の待遇で招き寄せる。村医としてくすぶっていた大村は二つ返事で求めに応じた。大村には蘭学の翻訳、教授、軍艦の製造・研究をさせた。(大村は後に長州藩士となり倒幕に活躍する)

殖産興業にも意欲的であった。提灯屋であった前原巧山を見出し、日本初の蒸気船の建造を行った。巧山はミシンの製作にも成功し藩の技術革新に大いに貢献した。

宗城が活躍できたのは引退した前藩主・宗紀(むねただ)の存在が大きい。宗紀は藩主時代は財政改革、農業振興、徴税制度の改革におおきな成果をあげ、隠居後も宗城に対しさまざまなアドバイスを与え新しい時代に先駆的対応を促した。実の父子ではないがこの二代にわたる宇和島藩主の日本の近代化につくした功績は大きい。

「山天大畜」の卦。大人君子が大徳・大才を養って動ぜぬ象であり、偉大な王者が勝れた人材を包容して安定している象である。

前藩主・宗紀は寛政4年(1792)生まれ、亡くなった明治22年(1889)には実際には98歳であるが「100歳になった」と明治天皇と皇后から下賜品を賜っている。

側近の者が「侯の長寿の秘訣は何でございますか」と問うたところ「それは女色を慎むことにある」と答えた。重ねて「何歳から女色を慎まれましたか」と質問すると「70歳じゃ」と答えたという逸話が宇和島では有名らしい。

大村益次郎については⇒: http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28041445.html
高野長英については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/26882018.html
シーボルトの娘イネについては⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28800707.html

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