さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の殿様

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徳川幕府は300を越える藩で成り立っていた。
それぞれの藩は独立して独自の特色をもっていた。
その中心は殿様と呼ばれた藩主である。
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「大政奉還」に政治生命を賭けた土佐藩主・山内容堂1827〜1872

薩摩・島津斉彬、越前・松平春嶽、宇和島・伊達宗城と並んで「幕末四賢侯」の一人と言われた開明派藩主である。

一橋派として将軍継嗣問題で南紀派と争い敗れる。一度目の敗北である。謹慎、そして隠居の身で復活。

脱藩していた坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介によって、慶応2年(1866)、 薩長同盟が成立した。翌年、両名の仲介により、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛と土佐の後藤象二郎・板垣退助らが会談し、容堂の意に反して幕府排除と王政復古のための薩土同盟が成立した。

あくまで容堂は幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来ない。何とか起死回生の一手が欲しかった。そこに参政・後藤から妙案が届いた。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案「大政奉還」である。後藤が龍馬から手にいれた「船中八策」がもとになっている。

容堂はこれを15代将軍・徳川慶喜に建白した。これにより慶応3年(1867)10月、慶喜は朝廷に大政奉還した。そして同年の12月9日開かれた朝廷内小御所に於いて土佐、薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表が集まり、会議を開いたのだ。

容堂41歳、千載一遇のチャンス。容堂は満を持して会議に乗り込んだ。会議をリードし、徳川慶喜を代表にした列藩体制を作り上げる算段であった。

容堂は議長役の岩倉具視に先制パンチを放った。「大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当ではないか。」と主張した。一旦は容堂の気迫の前に怯んだ岩倉であるが、西郷らに励まされ反撃に出てきた。次第に形勢は逆転してくる。主導権は公卿を味方にした薩長の倒幕組のものであった。

容堂は酒の勢いも借りて、「一部の公卿が幼沖の天子を擁し、権威を欲しいままにしようとしている」と発言すると岩倉から「大失言であるぞ!天子を捉まえて幼沖とは何事か!」「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」と鋭く反撃。返答に窮した容堂に、「土州、土州、返答せよ!」と畳み込まれた。持論を引くしか無い。容堂二度目の完敗である。

満を持して会議に臨む。「雷天大壮」の卦。陽の気が盛んな象である。「礼に非ずんば履まず。」とある。気力旺盛は時として冷静さを欠くことがあるので要注意。

新政府では議定の要職をつとめた。そしてよく飲み、よく遊んだ。
酒なら2升でも3升でもの酒豪。歌舞伎俳優を引き連れての芸者遊びを好んだ。
妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送り、
明治5年、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳の生涯を閉じた。

小御所会議については⇒http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/16625678.html
坂本龍馬の船中八策については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/23559399.html

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動乱の渦中にも信念と中庸を忘れなかった長州藩主・毛利敬親(たかちか)1819〜1871

幕末と言えば薩長である。薩摩の殿様である島津斉彬は誰知らぬものはないだろう。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋など多くの人材を輩出した長州。その殿様とはいったいどんな殿様であったのか。

長州は薩摩と同じく関が原の負け組みである。19歳で藩主を襲封した敬親を待っていたものは窮迫する藩の財政問題であった。敬親が実行したことは質素節倹。自ら粗衣粗食を徹底した。

ブレーンに村田清風を起用して財政再建と文武の興隆に着手した。藩士の教育こそ根本と考え江戸の有備館、藩内の明倫館の充実を計った。明倫館では少年・吉田松陰が教鞭をとったことで知られる。

安政の大獄、桜田門外の変と激動期を迎えた頃、長州は公武合体論を唱え幕府の信任を得る。ところが尊皇攘夷派はこれに反対。朝廷の攘夷派とも結んで幕府に尊皇攘夷を求める。

藩論を尊皇攘夷に転換すると朝命を奉じてアメリカ、フランス、オランダの軍艦を砲撃した。ところが外国軍艦は下関を報復攻撃。劣勢に立った長州にさらに難題が。

朝廷内での内乱に破れた三条実実以下7名の公家が京都を追われ長州に逃げて来た。「七卿落ち」である。長州は朝敵の烙印を押され、幕府からは征長令が下った。

革新派と保守派の間で藩政は目まぐるしく変わった。元治2年(1865)高杉晋作の電撃的クーデターにより革新派が藩論をリード、倒幕路線を歩むことになる。

このように藩政が右に左にまるで振り子のように揺れる中、藩主・敬親は?

藩内が対立する中、敬親は「そうせい侯」と呼ばれていた。どちらの意見にも「解った。そうせい。」と答えるのである。風見鶏のように何の意見も持ち合わせない藩主だったのだろうか?

そうではない。動乱の渦中にあっては、どちらにも偏らないのが藩主としての責任と信じていたのだ。家来たちを信じ、任せ、祈っていたのだ。結果は歴史が証明している。そんな名君がいたのだ。

「火天大有」の卦。大いなる勢力を有しながらも、自らは表に出ない象である。静かな名君は長州藩から多くの人材を生み出す背景になったのである。

ことに教育に熱心な藩主であり、家柄や年齢にこだわらず才能を愛した。特に11歳も年下の吉田松陰の才能に惚れこみ、自ら門下に入ったエピソードは敬親の人柄である。また倒幕後すぐ隠居した事が示すように、私欲や野心にも囚われる事もなかった。

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島津斉彬、徳川斉昭とともに一橋派の中心藩主・松平慶永(春嶽)1828〜1890

将軍・徳川家慶の従兄弟でもある。徳川御三卿の田安家に生まれ、名門親藩・越前福井藩主の松平家の養子となり、11歳で藩主になる。

嘉永6(1853)ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、海防強化や攘夷を主張する。老中の阿部正弘が掲げた挙国体制論に賛同し、水戸の徳川斉昭を領袖とする島津斉彬、伊達宗城、山内容堂らととともに一橋派を結成した。

一橋派は南紀派に朝廷を巻き込んでの対立の末破れ、安政の大獄という事態を生じ、春嶽も斉昭らとともに隠居謹慎の処分を受けるに至った。その上、春嶽には奈落の底に落とされる報せを受ける。

最愛の家来・橋本左内が26歳の若さで小塚原の刑場にて斬首されたのである。

6年前、25歳の春嶽は20歳の佐内を登用した。左内は蘭学者で医師の緒方洪庵がその天才ぶりを池中の蚊龍(こうりょう)と呼んだ若者である。医学に止まらず政治、経済、国際問題まで明敏な先見性をもっていた。春嶽は佐内の能力と気質に惚れこみ、西洋文明をとりいれた兵制の改革、物産の開発、藩士教育、など藩政の改革に夢を馳せていた。

春嶽は佐内を早速江戸に送り、水戸藩の藤田東湖や薩摩藩主・島津斉彬を訪問させ、西郷吉之助らとも交遊させた。安政4年、暗礁に乗り上げていた将軍継嗣問題に決着をつけるため、春嶽は左内を朝廷に送り込んだ。ところがこの決断が裏目に出たのだ。

弟のように愛してやまない家来を失うことになろうとは。春嶽の落胆振りは如何ばかりであったろうか。31歳の藩主・春嶽はしばらくは茫然自失の日々を過ごした。

もともと春嶽は他の一橋派の藩主のような政治権力への執着心はなかった。知識人、文化人という印象である。エリート藩主としてこの激動期に生まれ合わせただけだ。

藩内にすむ歌人・橘曙覧(たちばなあけみ)との交友にその一端を見ることが出来る。曙覧の貧窮のなかに歌の道に生きる人生に感動し、その貧しい庵を訪れている。そして曙覧を歌の師と仰ぎ、生活を援けたりして交流している。曙覧が死ぬと「敷島の 道のしるべは 絶えにけり 今より何を 方便にはせん」と詠った。

激動期の中央は春嶽を遊ばせてはくれない。35歳で幕政の最高責任者である政治総裁としてカムバック。「天下とともに天下を治める。」の信念のもとに幕府を支え続けた。薩長の倒幕運動には組しなかったが、維新後には新政府の重職を勤めた。明治23年、63歳で没した。明治という元号は春嶽が名づけたといわれる。

春嶽は人材活用の名君と言われた。「地天泰」の卦。上にある君主が常に謙虚に家来の意見を聞く。すると家来は意気に感じて働く。理想的な卦である。(易者の看板にはこの「泰」が使われている。)

橘曙覧は「独楽吟」という一派を成した。「楽しみは」で始まり「とき」で締める歌である。
「たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲けるみるとき」
「たのしみは とぼしきままに 人あつめ 酒飲めものを 食えというとき」
弟子の春嶽が作った「たのしめる歌」という歌集の中から一首。
「たのしみは 思ひのままの 遊びして うたげに人の くだまかぬとき」

橋本佐内については⇒: http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27667547.html

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幕末最大の対立・将軍継嗣問題に大きく係わったのが大奥の女性たちである。

一橋慶喜を次期将軍に担ぐ一橋派は斉昭を中心に老中首座・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平慶永らは大奥工作として、島津斉彬の養女・篤姫を将軍家定の御台所にすることに成功した。

大奥の女性たちを慶喜擁立に賛成して貰うための布石である。ところが、篤姫の努力も大奥には通じなかった。そこには根強い水戸への嫌悪感が支配していた。こんな理由があった。

幕末期の大奥が水戸徳川家を嫌い始めたのは当時大奥で権勢を振っていた姉小路が嫌い始めたためではないかといわれている。姉小路は公家の出身で皇女・和宮の大叔母にあたる。妹の唐橋とともに絶世の美女として知られていた。

その妹・唐橋が将軍・徳川家斉の娘で水戸藩主・徳川斉脩(斉昭の兄)に嫁ぐ事になった峰姫付の大上臈となり、峰姫に従って水戸徳川邸に入った。

水戸藩邸に入った途端に、藩主の弟・斉昭に言い寄られて斉昭の子を懐妊してしまうという前代未聞の出来事が起きた。(行動派の斉昭は女性にも手が早かったのである。)

公家の娘である妹・唐橋に簡単に手を出す斉昭の浅ましい行動がいやらしく見え、それから姉小路を筆頭に大奥の水戸嫌いが始まったとされる。唐橋は京都へ帰洛するが、その後「花ノ井」と改称して斉昭の下へ赴く事となったという。

大奥の最高位は上臈御年寄(じょうろうおとしより)とされる。将軍や将軍正室への謁見が許される。家慶時代は姉小路、家定時代は歌橋が上臈御年寄である。歌橋は家定の乳母であり、家定は将軍になっても歌橋にしか心を開かない自閉症的なところがあったという。

水戸嫌いはトップから女中に至るまで広がっており、大河ドラマ「篤姫」で有名になった将軍・家定の生母・本寿院は「もし水戸の息子が将軍になったら自害する」とまで言ったそうだ。

柔が剛を制する道として「風天小畜」という卦がある。封建社会であっても、女の力は健在であった。

斉昭の好色は有名である。肝胆相照らす臣下であった藤田東湖が忠告しようとした。斉昭「では、そちは酒が止めらるか?」酒好きの東湖「それは無理です。」斉昭「だったらもう言うな。誰だって好きなものは止められないものじゃ。」

柔が剛を制する庶民的な話⇒「寅さん偏・かあさんの歌」 http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/10733507.html

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幕末最大の対立は、徳川斉昭対井伊直弼の対立である。

家督を慶篤に譲り、謹慎した後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって2年後に謹慎を解除され、嘉永2年(1849)に藩政関与が許された。

嘉永6年(1853)6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬とともに幕府に献上している。

時の老中首座・阿部正弘は従来の幕府制度を見直し挙国体制で難局に立ち向かうべきだと考えた。すなわち、譜代大名だけではなく御三家、親藩、外様大名の中の実力のある雄藩にも政治参加させようというのだ。斉昭を中心に福井・松平慶永、薩摩・島津斉彬、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城たちである。

この構想に対し、溜り間詰めの譜代大名たちが反対した。中心の彦根藩主・伊井直弼は正弘の構想を幕府の分裂にも発展しかねないと危惧した。非常時こそ悪戯に改革を叫ばず、落ち着いて最良の対策を立てるべきであると考えた。

二つの勢力は病弱な家定将軍に代わる次期将軍を斉昭の七男・一橋慶喜をかつぐ一橋派と紀州藩の徳川慶福をかつぐ南紀派に別れて対立を深め、安政5年まで幕臣、各藩、朝廷まで巻き込んでどちらも譲らず政争を続けた。

老中・阿部正弘が39歳の若さで急死すると、南紀派は優位に立つ。大老に就いた直弼が開国と将軍問題に強権を発動、次期将軍派を慶福にする。納得できない一橋派は朝廷を動かす。危惧を抱いた伊井大老は一橋派を断固処分する、「安政の大獄」である。「伊井打つべし」ついに水戸浪士は直弼を暗殺、「桜田門外の変」である。しかし、斉昭も5ヵ月後に心筋梗塞で急逝。彦根藩士に暗殺されたの説もある。享年61。

巨星・斉昭は幕府の存亡の危機に「ものいう御三家」として水戸藩から一歩踏み出した。弱体化した幕府を建て直し「尊皇攘夷」の志操を日本中に広め、団結してわが国を外国から守り国難に対処することが御三家である自分の責任であると考えた。
しかし、老中たちは自負とプライドをかけて250年守り抜いた政治制度は渡せなかった。

「水地比」の卦。一人の中心人物に大衆が従っている象である。中心人物が健在であれば問題はないが、一たび中心がなくなると崩壊の危険をはらむ。

水戸藩のその後は悲しい。藤田東湖の嫡男・小四郎、武田耕雲斉たち斉昭の家臣たちは4年後、800人の浪士隊を結成して「尊皇攘夷」をかかげて水戸から加賀まで長征の果てに無残な処刑にあった。「天狗党事件」である。藩内の派閥抗争が背景であるが、偉大な指導者を亡くした集団の迷走としかいいようがない。その後、水戸藩は新政府に活躍する人材も出していない。

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