さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の殿様

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徳川幕府は300を越える藩で成り立っていた。
それぞれの藩は独立して独自の特色をもっていた。
その中心は殿様と呼ばれた藩主である。
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御三家・水戸藩のカリスマ藩主として徳川幕府存亡の時代を「尊皇攘夷」にて幕府建て直しを計った徳川斉昭(1800〜1860)

水戸藩で有名なものは、水戸黄門であり、「大日本史」である。「大日本史」の編纂は黄門様(光圀)の頃から始まり、この大事業は藩の収入の3分の1をかけた時期もあり、完成するまで250年、何と明治39年までかかっている。この文化風土が「水戸学」に発展したのも当然のことだろう。

「尊皇攘夷」のルーツは「水戸学」である。18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のもとで国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになった。

寛政3年(1791)藤田幽谷(ゆうこく)は「正名論」を著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会秩序を安定させるとする考え方を示し、「尊皇論」に理論的根拠を与えた。さらに幽谷の門人の会沢正志斎(せいしさい)は文政8年(1825) 、「新論」を著わし尊王と攘夷の重要性を説いた。

同年、幕府は「外国船打払令」を発布したので、国家の統一性の強化をめざし、民心の糾合の必要性を論じ、「尊王攘夷思想」が形成された。

その会沢正志斎のもとで幼少時から水戸学を学び、聡明さを示したのが斉昭である。文政7年(1824)イギリスの捕鯨船が藩の大津浜に上陸する事件もあり、外洋に面し外国との脅威を人一倍感じた斉昭は戦端を開く可能性もありとして攘夷のため武備充実の急務を唱える。

文政12年(1829)、長兄で藩主・徳川斉脩の死後、門閥派より第11代将軍・徳川家斉の第20子・恒之丞を養子に迎える動きがあったが、既に人望厚かった斉昭をかつぐ改革派の会沢正志斎、藤田幽谷の嫡男・東湖、安島帯刀、、武田耕雲斎らの猛烈な反対運動もあり、家督を継ぎ、第9代藩主となる。

藩主となった斉昭は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる藩政改革を行った。天保8年(1837)、「経界の義」(全領検地)、「土着の義」(藩士の土着)、学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)、「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。そして藩を挙げて質実剛健、文武両道を奨励した。

斉昭は幕府に対しても「強い幕府」を求めた。これまでとは違い「ものいう御三家」として蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを幕府に提言している。また大奥にも「質素倹約を徹底せよ」「将軍を惰弱にしてはいかん」など、遠慮なく注文をつけた。

あまりに注文を付け過ぎたのだろうか幕府には目の上のタンコブという存在になり、弘化元年(1844)に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられた。(暫らくの充電期間である)

「震為雷」(しんいらい)の卦。
実行、行動、活動、を表す。斉昭は気づいたことはすぐ実行する行動派であった。相手が誰であれ、すぐに訪問する、呼びつける、手紙を書く、身分の低い家来でも気軽に訪問して相手を恐縮させたという。

水戸学を学ぶため佐久間象山、横井小南、吉田東洋、橋本佐内、西郷隆盛、吉田松陰、木戸孝允、梁川星巌など錚々たる志士たちが水戸藩を訪れている。かくして「尊皇攘夷」は全国へ広まった。

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斉彬の功績の第一は日本の近代化への道を開いたことである。

西洋に興味を持つ斉彬は江戸巣鴨の勉強会「尚歯会」に参加した。そこには渡辺崋山(田原藩士)、江川英龍(海防学者)、高野長英(町医)、佐久間象山(松代藩士)、藤田東湖(水戸藩士)など、当時の最先端を行く識者達が集まって来ては、連日世界情勢や日本の将来を語り合っていた。

藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。アメリカから帰国したジョン万次郎を保護。西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上した。

斉彬はペリー艦隊来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張し、老中・阿部正弘と結び幕政改革(安政の幕政改革)を実現しようと計った。

老中の幕政から挙国体制を築いて列強諸国に備える。そのためには前水戸藩主・徳川斉昭、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、、尾張藩主・徳川慶勝らとの雄藩連合を提唱。

ところが安政4年(1857年)の阿部正弘が急死すると情勢が一変。安政5年、大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。一橋慶喜を推していた斉彬グループに対して紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す井伊は大老の地位を利用して強権を発動。反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始。

斉彬はこれに対し、藩兵5千人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかしその年の7月、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、急死した。享年50歳。

亡くなる年の2月のこと。その後の日本を大きく左右するある出会いがあった。

長崎海軍伝習所のオランダ人教官・カッテンディーケが塾頭の勝海舟を伴い薩摩藩を訪れている。二人は歓待され薩摩の近代化施設を見学し驚いた。斉彬はカッテンディーケに鹿児島の防備について意見を求め、水上保塁を提言されると早速着工。

5年後に起こった薩英戦争でその水上保塁が役に立った。世界一の海軍力を誇る英国は驚いた。戦死者は薩摩9人に対して英国63人。英国は薩摩の力を認めて薩英同盟を結ぶ。そして、その5年後には西郷と海舟の江戸城無血開城の会談が成立する。

「火地晋」の卦。朝日が地上から昇る象である。日本の近代化は偶然始まった訳ではない。命をかけて道を開いた先覚者がいたのである。

日本の近代化を夢に志半ばに倒れた英雄・島津斉彬。

その志はやがて西郷や大久保によって実現していく。

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英明の誉れ高い斉彬ではあったが、藩主にはなかなか成れなかった。父の斉興があくまで反対したのである。

島津斉興(1791〜1859)は蘭癖大名で有名な祖父・重豪が大借金をつくりながらも倹約政治が気にいらぬと藩主であった父・斉宣を無理やり隠居させたので、19歳で藩主にされたのである。

斉興は藩主になったものの、日に日に借金は膨らむ一方の藩政に何の手も打ちようが無かった。権力を離さない重豪が死ぬまで24年間も重豪の顔色ばかり覗って隠忍自重の毎日であった。

ようやく自分の時代になり家老・調所広郷の努力もあり財政が回復してくると、新たな心配が出来た。嫡男の斉彬が重豪にそっくりの西洋かぶれであり気性も生き写しのように似てきたのだ。

そのため、斉彬に家督を継がせると又しても財政悪化となるのではと心配でならない。そこに側室のお由羅が自分の子・久光を次期藩主へと運動し始めた。藩内は斉彬を藩主に望む「革新派」と久光を藩主に望む「保守派」が激しく対立していく。

40歳を過ぎても家督を継げない斉彬は奇策を図った。幕府老中・阿部正弘と手を結び、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流して藩主・斉興と家老・調所の失脚を狙った。ところが調所が罪を一身に背負って服毒自殺したため、怒った斉興は反って藩主の座を堅く守る。

不幸にも斉彬の多数の子女が次々と幼少の内に死亡した。生き残っていたのは女子3人と四男・篤之助である。久光の子女が無事に成長していたのとは全く対照的であった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が呪ったものである」と本気で考え、お由羅と久光を排除しようと計る。

嘉永2年(1849年)にその四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、斉彬派の重鎮がお由羅とその重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、6名が切腹を言い渡された。(謀議の真偽については不明)。又、斉彬派約50名が蟄居・遠島された。「お由ら騒動」である。

ここに至って四面楚歌の斉彬の襲封は絶望的であるかに見えた。

斉興の処分を逃れて脱藩した一部の斉彬派藩士は福岡藩に逃げ込んだ。福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)は重豪の12男であり斉彬の年下の大叔父であった。実家の騒動を見過ごせなかった長溥は実弟・八戸藩主・南部信順(重豪13男)と計って老中の阿部正弘に事態の収拾を訴えた。

老中・正弘は将軍・家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下した(隠居せよとの命)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月(1851)、遂に斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲った。

「水山蹇(けん)」の卦。四面楚歌、困難に陥り身動きがとれない象である。平静と貞正を守ることが肝要である。必ず助けてくれる朋がある。

「お由ら騒動」では西郷の父・吉兵衛が御用人をしていた赤山靭負が切腹させられた。西郷は赤山の血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる。また、大久保利通は父・利世が罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも免職謹慎となり困窮した。

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蘭癖大名・島津重豪が晩年になってようやく財政改革に取り組み、死亡する2年前に改革を託した家臣・調所広郷(ずしょひろさと)(1776〜1848)

広郷は下級武士の生まれで12歳のとき、茶坊主をつとめる調所家の養子となった。23歳のとき江戸高輪の薩摩屋敷にて殿様・重豪の茶坊主となった。勉強家の青年茶坊主は殿様の目にかけられ、その後異例の出世を重ね、町奉行などを経て49歳で二人の隠居(重豪、斉宣)の財政担当をしている。

いよいよ、藩の財政がにっちもさっちも行かなくなった天保2年(1831)、87歳の重豪は藩主・斉興の側役になっていた広郷を座敷に呼んだ。「その方に、藩の財政を全て任せるから立て直してみろ。」

広郷は鄭重に御断りする。「茶坊主あがりのそれがしの任ではございません。」すると「その方は藩主の側役だろう。」「おそれながら勤めさせて戴いております。」「側役というものは、主人と存亡をともにするものだ!」さらに「その方なら出来ると信ずるから命じているのだ!受けぬというなら、この場で手打ちにするぞ!」

ほとんど脅迫の重豪の命令には承知せざるを得ない。広郷は命をかけてこの大役を引き受けることになった。しかも、重豪の命令は「10年間で借金を返した上、50万両の蓄えを残せ。」というものだ。そして2年後に重豪は亡くなった。

広郷は鬼になる決心をした。全権を任される家老となった広郷は薩摩藩に金を貸している京・大阪の商人達に「薩摩藩の借金はすべて一律に250年の年払い・無利子で返済していくことにする」と一方的に申し渡した。事実上の「踏み倒し」のようであるが、それを実行した。

藩内の藩士から農民にまで、とにかく徹底して無駄を省き、支出を抑えた。当時の薩摩藩内の年貢の徴収法がその年その年の作柄を見て決定する「検見(けみ)取り法」から作柄に関係なく一定割合の年貢を納めさせる「定免(じょうめん)法」への移行を独断で決定して断行。

広郷は煙草、菜種、胡麻、椎茸、櫨(ロウソクの原料)など思いつく限りの商品作物の栽培を実施、硫黄・石炭・絹織物・薩摩焼(陶磁器)・かつお節など、一儲けできるものならなんでも手を出した。

最も金になったのは。、何と言っても奄美の黒砂糖である。黒砂糖のもたらす利益に目をつけ、その生産を完全に藩の管理下に置き、島民を奴隷のように扱い徹底的な強制栽培・搾取体制をとった。

その他には、琉球を経由して清と密貿易を行った。中国産の商品、または琉球から産出される朱粉やウコンといった特産品を大阪などに運び販売した。

そうした広郷の改革が効を奏し1840年代には薩摩藩の金蔵には250万両の蓄えが出来るほど財政が回復した。広郷の命をかけた改革は見事に成功し前殿様・重豪の墓前に報告することが出来た。

ところが、藩の救世主・広郷を悲劇が待つ。

藩主・斉興は二度と借金財政を招くまいとして、重豪にそっくりな世子・斉彬に家督を譲ることに反対していた。40歳を過ぎても家督を継げない斉彬は幕府老中・阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流して藩主・斉興と家老・調所広郷の失脚を図った。

嘉永元年(1848)12月幕府に呼び出された広郷は罪を一身に背負って服毒自殺。行年73歳。

「天地否」の卦。天地交わらずして万物通ぜず。上下交わることはない。封建制度はあくまでも縦社会である。君は君。家来はあくまで家来である。

その後、調所家は御家取り潰しの目にあう。

藩の救世主も家来は家来。藩主の都合が優先する。

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幕末の名君・島津斉彬(1809〜1858)を知るにはその誕生秘話を知らねばならない。

斉彬は幼い時から曽祖父である殿様・島津 重豪(しげひで1745〜1833)にそっくりだといわれていた。良い意味でも悪い意味でも生涯影響を与えた殿様・重豪はどんな殿様だったのだろう。

重豪は進取の気性に富み藩校・造士館、医学館、天文館等の建設、書物の編纂・刊行、積極開明策をとった。学問を好み中国や西洋の貴重な文物をコレクションした「聚珍宝庫」を藩邸に作ったりもした。西洋と蘭学へののめり込み様も半端ではなく、いわゆる「蘭癖」大名の代表とされる。

積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に三女・茂姫を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだことから、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称された。

重豪は誰も相手が出来ない程の酒豪でもあった。80を過ぎても側室に子を生ませ、超人的活動は衰えを知らなかったという。(重豪の9男〜13男はひ孫の斉彬よりも年下である)

曾孫の斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。会見したシーボルトは「重豪公は80余歳と聞いたが、どう見ても60歳前後にしか見えなかった」と語っている程である。

一方で、これらの政策、散財による莫大な出費は、最後には大名貸しからも資金調達を拒絶され、ついに市井の高利貸しからも借金する羽目となり、天文学的借金を作った殿様として家臣に糾弾される。

家督を長男の斉宣に譲って隠居した後も、なおも実権は握り続けた。斉宣が樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたところ、華美な生活を好む重豪がその政策に反対して斉宣を隠居させ、樺山らには死を命じた。近思録崩れ事件である。

そして重豪は孫の斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握ったのである。老いてますます盛んな重豪は、天保4年(1833)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた。1830年代、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱え破綻寸前状態になった。

重豪の晩年の姿は易学的には乾為天の上九「亢竜(こうりゅう)悔有り」である。亢竜とは高く昇りすぎた竜である。進むことのみを知り、退くことを知らず、剛を知りて、柔を知らず、高く昇り過ぎれば悔いることあるべきである。

500万両の借金はどれ程かというと、薩摩藩の全年収が14万両であることからもその途方も無い数字がお解かりになるだろう。やがてそれは血で血を洗うお家騒動に発展するが、全てこの亢竜・重豪に源を発するのである。

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