さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

老中と幕臣

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250年間、徳川政権を譜代の大名として政権を担ってきた老中たち。
幕府から選ばれた幕臣として政権を支えてきた役人たち。
幕府への忠誠と誇りを忘れることは出来ない。
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徳川幕府の終焉まで責任をまっとうしようと努めた最後の老中首座・板倉勝静(かつきよ)1823〜1889。

貧乏・板倉と呼ばれていた藩の財政を見事に立ち直らせたのは、農商出身の陽明学者・山田方谷(ほうこく)である。その成功により勝静は老中に選任された。山田方谷は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府の滅亡が避けられない事を察して、勝静にはまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言する。

だが、「寛政の改革」で有名な松平定信の孫であり八代将軍・徳川吉宗の玄孫に生まれた勝静にとっては幕府(徳川家)を見捨てる事は出来なかった。

「安政の大獄」では大老・井伊直弼の強圧すぎる処罰には断固反対した。そのため、直弼の怒りを買い、老中を罷免させられた。

直弼死後の文久元年(1861)、寺社奉行に復帰、翌年には老中に昇格し、幕末の混乱する政局の安定化に努めた。15代将軍・徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任される。

そして幕政改革に取り組む一方で、大政奉還の実現にも尽力した。その後大阪城に居た時、鳥羽伏見の戦いが始まった。慶喜の相談役として「将軍として堂々と振舞うこと」「武家の統領として絶対に逃げてはなりません」と諌言した。

ところが、慶喜は「一丸となって戦おう」と激励を飛ばしたばかりのその晩、兵を置き去りにして軍鑑・開陽丸で江戸へ退却する。ここで慶喜を朝敵とする追討令が下り、大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍が東征を開始する事態となる。

慶喜は、勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野寛永寺に謹慎する。勝静は決心した。会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬を見捨てることは出来ない。将軍の身代わりとなって老中首座である自分が戦おう。それが自分の武士道と信じた。

勝静は老中・小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。

武士道は節義を重んずる。「水沢節」の卦。宇宙も生命も節奏である。道徳も節義である。健康も節度である。政治もまた国家生活を節制し、財を傷らず、民を害せず、中正にして通ずることである。

信念を貫き波乱万丈の人生をおくった勝静は晩年は幸福を得た。養子の板倉勝弼や山田方谷の弟子である三島中洲と川田甕江(おうこう)の協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立を行っている。

旧主・慶喜が赦免後に幕府のために命を捧げた家臣達の事も考えずに悠々自適の生活を送っていると知ると、激怒してあのような主君に仕えた自分が誤っていたと語った。

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慶応4年(1868)3月14日江戸高輪の薩摩藩邸において西郷と海舟は江戸城明け渡しの会談を行うことになる。

実はこれより四年前、西郷は長州征討軍の参謀として勝は幕府軍艦奉行として二人は大阪で会い率直に語り合っている。

そのとき海舟は西郷に10年前の思い出話を語った。それは長崎海軍伝習所の伝習生であった頃、師のオランダ軍人・カッテンディーケとともに薩摩藩を訪れ藩主の島津斉彬の知遇を得たこと、開明的な殿様の考えに脱帽した話である。

西郷にとって前殿様・斉彬こそ生涯の恩人である。海舟の話には感動した。二人は意気投合した。その時海舟は「今の幕府にはもう人材がいないのだ。」とまで語った。暗に倒幕を促したとされる。

その時の印象を西郷は大久保利通への手紙の中で「勝先生にひどく惚れ申し候」と書いた。海舟はその後「自分は今までにおそろしい人物を二人見た。横井小楠と西郷隆盛だ」と語っている。

方や征討軍・大総督府参謀、方や徳川幕府・陸軍総裁として再び相まみえる事になった両雄。二人はどんな会談をしたのだろうか。

西郷には260年続いた幕府に代わる新政府樹立の明確な意思がある。日本全体が新時代を意識するためにも、しっかりしたけじめが必要である。一方、海舟には将軍家、千人の大奥、3万人の幕臣たちの名誉と将来がその肩にかかっている。

二人の考えの奥には名君・島津斉彬の「挙国体制を作らねば日本は危ない」があったであろう。交渉ごとは人間対人間、最後は「日本のため」に小異を捨てて大同につく大胆な主張と大胆な譲歩で決着したのだろう。

「天火同人」の卦。文明の下に人が集まる象である。二人心を同じうすれば、その利きこと金をも断つ。同心の言はその香り蘭の如きものがある。

「老中と幕臣」を通して彼らに共通した幕府に対する忠誠、奉仕、没我を見ることが出来る。
安岡正篤先生は「日本精神通義」の中で、「個人主義、平等主義、権利主義の西洋思想に対して日本人の精神はある偉大なるものへの感激のうちに己を忘れ、擲ち、捧げていこうとする精神である」といっている。
この日本精神をバックボーンとした「日本人の品格」を彼らの中に発見する。

参考・カッテンディーケについては http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/24590055.html

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江戸無血開城の大舞台の前に大ドラマを演じた幕臣・山岡鉄舟(1836〜1888)

鉄舟は高橋泥舟にも勝るとも劣らない程の槍と剣の使い手であり、精神修行のため座禅にも打ち込んで剣禅一如の人物である。身長190cmの巨漢でもあった。

鉄舟は生き物を殺すことを嫌ったため、道場にはネズミがのさばった。座禅を組んでいた鉄舟のひざや肩にまで乗ってきたという。時々「えい!」とするどい気合をかけるとネズミは動けなくなったという。

修行三昧でさしたる活躍も見せなかった鉄舟が義兄・泥舟から東征軍の大総督府参謀の西郷隆盛へ慶喜の助命と江戸城無血開城の下交渉を任されたのは、慶応4年(1868)鉄舟33歳のことである。

鉄舟は海舟の手紙を懐に、薩摩藩士・益満休之助とともに駿府に向かった。官軍の陣を通過するときは「朝敵徳川慶喜家来・山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で呼ばわり、長州軍の前では益満を押したて「薩摩藩士でごわす。総督府にまかり通る」と臨機応変に突破した。

しかし、清水の手前、由比でついに危なくなり「望嶽亭」という茶店に逃げ込んだ。そこの主人・松永七郎平が困り果て用心棒ならと清水次郎長を紹介した。次郎長は大政、小政らの子分とともに駿府・伝馬町の西郷の宿舎まで無事送り届けた。

大総督府参謀の西郷隆盛に面会した鉄舟は臆することなく、西郷に切り込んだ、「朝廷は天下大乱を望まれるや」「ひたすら謹慎して朝命に背かぬと誓う臣下を何故討伐するや」「もしも貴殿と拙者が立場をかえたとしたら主君を他藩に差し出すことに承服なさるか」

武力で幕府を倒し、人心を一新したい西郷であったが、鉄舟の気迫の前に主戦論を和らげざるを得ない。ついに、西郷も折れて勝海舟との会見に応ずることになった。鉄舟は泣いた。泣いて西郷に感謝した。

この鉄舟の心境を易学的に言うならば、「天雷无妄(むぼう)」の初九。「无妄なり。往くに吉」と見る。无妄とは嘘と邪念が全く無い。清廉潔白にして何者をも恐れない心境。

後に西郷は山岡鉄舟を評して語った。
「あんな生命も名誉も金もいらぬ人間は始末に困る。
しかし、始末に困る人でなければ、天下の大事を語る訳にはいかん。
真に無我無私の忠胆なる人とは山岡さんのような人でごわす」

参考・清水次郎長については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/14597998.html

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幕府の最後に混乱を抑えた幕臣・高橋泥舟(でいしゅう)(1835〜1903)

「幕末の三舟」をご存知でしょうか。勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3人のことだ。このうち海舟の名は知らぬ人はいない。鉄舟も幕末ファンなら大抵は知っているだろう。しかし、高橋泥舟を知っている人はごく少ないのではないだろうか。

泥舟は山岡鉄舟の義兄であり道場の師である。もともと泥舟は山岡家の次男であったが高橋家に養子になった。ところが兄の槍術家・山岡静山が27歳の若さで亡くなった。道場は泥舟が継いだが、既に養子になっていたので一番弟子の鉄舟に妹の英子の婿として山岡家の家督を継いで貰ったのである。

泥舟は槍では天才的な才能があり、わずか22歳で幕府の講武所の教授に任じられ伊勢守となった。海舟の評では「泥舟は稽古となれば、命知らずで遣ったので天下一の槍術家になったよ。孝明天皇の耳にも達して槍一本から従五位伊勢守にもなった男だ。」

次第に若手幕臣の中心となるが理論武装派というよりも心情的リーダーという存在であった。いろいろな若手が頼ってきたが、その中の清川八郎が京都の尊王攘夷派を粛清するための浪士隊を組織しようというので泥舟と鉄舟も協力した。ところが、京都についた八郎は幕府を裏切り自ら尊皇攘夷に動いた。文久3年(1863)のこと、泥舟はこの不始末から解職、閉門を命じられた。

以後はひたすら槍に励んでいたが、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで将軍慶喜が江戸に逃げ帰ってきた。泥舟は江戸城に駆けつけ海舟らと相談の上、慶喜を上野の寛永時に謹慎させ、恭順の意を示すこととした。泥舟は遊撃隊と精鋭隊を統率して慶喜の身辺警護にあたる。

海舟は東征軍の西郷のもとに使者として泥舟に行って貰いたいと頼む。しかし、慶喜がそれを止める。「伊勢よ、お前が居なくなれば無謀の士がなにをするか解らない。この場を離れないでくれ」という。

泥舟は考え抜いた末、義弟の鉄舟にこの大任を託すことにした。鉄舟は期待と責任と幕府の運命を背負って駿河にいる西郷に合うため、西に向かって出発して往った。

「沢地萃(すい)」の卦。盟主を中心に同志相集まることである。盟主たるものが自尊驕慢になってはいけない。祖宗、先輩の徳を守ってゆくことになれば、吉。

安岡正篤先生は「有名無力より無名有力が貴重なのだ。」と言っている。
高橋泥舟の如きは「無名有力」の人と言えるのではないか。

参考・清川八郎については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27167338.html

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時代の先が読めていた幕臣・大久保忠寛(ただひろ)(1817〜1888)

大久保忠寛は小栗忠順と同じく、三河以来の旗本の家に生まれながらも小栗とは違い伝統やしきたりに拘らず、自由で柔軟な発想が出来た幕臣である。

安政元年、老中首座の阿部正弘に抜擢され海防掛に任じられた。自分の蘭学の師であった勝海舟を阿部老中に推挙したりもした。その後、番所調所頭取、長崎奉行、駿河奉行、京都奉行と出世した。

ところが、井伊直弼が大老になると、反対派(一橋派)とみられた忠寛は左遷され冷や飯を食うことになる。

桜田門外の変のあとに、文久元年(1861)外国奉行として再起用されるが、その頃から幕府は大政を奉還すべきだと唱え始めたが耳を貸すものはいなかった。

忠寛の考えは徳川家は 駿河、遠州、三河を領有する一大名となること。国政と外交は挙国体制で臨むため、議会制とすること。いつまでも幕府でありつづけると、豊臣家と同じように次世代の勢力に軍事力によりつぶされる。というものだ。

この考えはやがて勝海舟により「薩長同盟」路線となり現実化していった。つまりは大政奉還と江戸城無血開城は忠寛と海舟によってシナリオが出来上がり、龍馬と西郷が仕事をしたようなものだ。

幕府内では忠寛の意見は無視されたが、忠寛の言うとおり幕府自ら改革に動いたらまったく別の新体制が出来たはずである。このことを龍馬は「幕府にとっては大不孝、われらにとっては大幸」と評した。

忠寛はまわりがバカに写ったのか慶応元年(1865)49歳でさっさと隠居してしまった。

明治5年、新政府に請われて文部省、東京府知事、元老院議員に任じられた。元老院議員は11年間つとめ、ちゃんと出席したがほとんど発言はしなかったという。先が見えすぎてしまい、誰にも理解してもらえないと感じていたためだろう。

「風地観」の卦はものの見方を説く。なにものにも捕われず、自由な発想を持てる人にして始めて先見ということが出来るのだろう。

明治21年、忠寛は72歳で亡くなっているが、
忠寛の深慮遠謀は日本の将来まで見ていたのだろうか。
日清、日露戦争そして太平洋戦争まで見えていたのだろうか。

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