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老中と幕臣
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幕府から選ばれた幕臣として政権を支えてきた役人たち。
幕府への忠誠と誇りを忘れることは出来ない。
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日本人として始めて太平洋を横断しアメリカへ渡った「咸臨丸」の艦長・勝海舟(1823〜1899)安政の大獄、桜田門外の変で一つの時代が終わりつつあった頃、まったく新しい時代が生まれつつあった。 海舟の父・小吉は無役の旗本・小普請組というから身分はかなり低い幕臣である。16歳で剣を学び、禅にも精進して、21歳で免許皆伝を受ける。開国論の佐久間象山の門下になり、蘭学者・永井青崖から蘭学を学ぶ。 貧しさは「困難ここに至る」状態であり、祖母、妹も病弱で縁側の板や柱を割って炊事をしたこともあったという。その間の勉強振りは凄まじい。オランダ語辞典を借りると、2部筆写して1部を売り、その金で借り賃を払った。 1853年、ペリーの来航後、老中・阿部正弘が階級を問わずに意見書を募集した時、海舟の開国積極論に目を止め、翻訳担当者として抜擢した。海舟30歳の時である。 やがて長崎海軍伝習所にてオランダ海軍のカッテンディーケから航海、造船、算術、砲術、蒸気機関などを学ぶ機会を得た。5年の伝習所生活は海舟を大きくした。演習中には薩摩の島津斉彬にも知遇を得た。 日米修好通商条約を締結した幕府はアメリカに遺米使節団を派遣することになった。使節団の乗る船はアメリカ軍艦「ポーハタン号」だが、この船の護衛という名目で日本人操縦による軍艦が随行することになった。 この船が「咸臨丸」で勝海舟が艦長として1860年正月22日横浜を出発した。途中、嵐に翻弄されながらも40日かかって2月26日にサンフランシスコに無事到着する。(3月3日が桜田門外の変である) 海舟達がサンフランシスコに滞在したのは約40日で、その間街の様子などを見聞して帰りにはハワイのホノルルにも寄って帰って来た。実は行きの航海では海舟をはじめ日本人は殆ど船酔いで役に立たず、乗り合わせた米国水兵が操縦した。しかし、帰りの航海は日本人のみの操縦であった。 この「咸臨丸」とう名前の由来はというと、易の「地沢臨」の卦の中にある「咸臨」から名づけられました。「咸臨」とは世の中の期待を命がけで受けて立つ心意気を表したものです。正に時代が変わりつつあった日本にとって相応しい名前でありました。海舟にとってはこの体験こそ、その後の生き方を大きく変えた出来事になったことでしょう。
勇気を持って挑戦することです。成功体験は人間を大きくしてくれます。 参考・カッテンディーケ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/24590055.html |
幕末のクライマックス「安政の大獄」と「桜田門外の変」はこうして起きた。大老・井伊直弼は一橋派の藩主たちの不時登城に対して水戸斉昭を筆頭に断固たる処分を下した。直弼の真意は「御三家でありながらこの幕府の非常時に何ということよ。頭を冷やせ!」である。 一方、処分を受けた水戸斉昭たちは「伊井め!大老という名を借りてわれ等をを何と心得る。権力の乱用じゃ。許せん!」 激怒した島津斉彬は挙兵するため薩摩へ取って返した。戦争も辞さず志を遂げようとした。(しかし、藩兵の訓練中、急逝。父・斉興による毒殺説が根強い) 水戸斉昭は今度こそ大老を引き下ろそうと朝廷を動かし孝明天皇より勅書を取り付ける。幕府の臣下である藩主に勅書が下されることは前代未聞のことである。(幕府の権威は完全に地に堕ちる。) 内容は1、勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことを責め、詳細な説明を求める。2、御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、攘夷を推し進る幕政改革を求める命令。そして上記二つの内容を諸藩に廻達せよというもの。(戊午の密勅という) この情報を知るや直弼は老中・間部詮勝を水戸藩邸にやり、「勅書の写しの回達は断じて許さず。直ちに勅書は幕府に差し出すべし。」 水戸対幕府の対立は深刻なものとなった。 さらに朝廷内では幕府のパイプ役である九条関白が辞職に追い込まれたとの情報が入る。「関白が朝廷より去れば、幕府の真情を主上のお耳に達する術はなく、これ以上放任すれば取り返しがつかぬ。」 決心した直弼は「関白の辞職には同意すべからず。奸賊の手下どもを捕縛して厳重に処罰すべし。」京都にて情報収集に当たっていた埋木舎時代よりの腹心・長野主膳に申し送った。 かくして、安政の大獄が開始された。水戸藩家老・安藤帯刀以下水戸藩士を始め、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本佐内、吉田松陰など学者、志士を死罪、公卿、公家につとめる老女に至るまで75名に及ぶ断罪である。 この断罪は日本中を震撼させたが、反幕府、尊皇攘夷の勢いは京都を中心に日本中に広がり始め、もはや手の打ちようは無かった。水戸藩の過激派は直弼暗殺のため脱藩して姿を消した。 安政7年3月3日、桜田門外、春の大雪の中、江戸城に向かう直弼の駕籠は襲撃された。行年46歳。 大河の氾濫を表す意味で「沢天夬(たくてんかい)」の卦。忍耐を重ねて蓄積されたマグマが爆発するようなものである。改革のエネルギーも体制を守ろうとするエネルギーも限界まで蓄積されていたのだろうか。3月3日登城前、心配した主膳に向かい直弼は言った。
「一期一会の心は忘れてはおらぬ。今日という日は再び無く、今日の私は明日の私ではない。」 一日一日信念に従い精一杯生きているので悔いは無いという意味だろうか。 参考・幕末の女・村山たか⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28615157.html |


