さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

老中と幕臣

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250年間、徳川政権を譜代の大名として政権を担ってきた老中たち。
幕府から選ばれた幕臣として政権を支えてきた役人たち。
幕府への忠誠と誇りを忘れることは出来ない。
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勝海舟のライバルであり、誇り高き幕府財務官僚・小栗忠順(ただまさ)(1827〜1868)

安政7年(1860)1月咸臨丸より3日遅れて幕府の遺米使節団がアメリカ軍艦・ポーハタン号が横浜から出航した。正使・外国奉行の新見豊前守正興以下総勢77名の一行であるが、この中に目付である小栗忠順が乗り込んでいた。

ところが、一行がホノルルを出航した3月3日、桜田門外の変が起こり井伊大老という幕府のリーダーが突然この世を去った。その後の幕府の混乱を示すように、帰国後の忠順はまるで将棋の駒のように部署を移動させられた。

外国奉行、小姓組出頭、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、勘定奉行勝手方、軍艦奉行と次々と移動。「任免70回」とも云われた。それだけ、幕府が混乱し弱体化していったことを物語る。

しかし、忠順は「病の癒ゆべからずを知りて薬せざるは孝子の所為に非ず」「国亡び身斃るるまでは公事に応召することこそ真の武士なれ」といって最後の最後まで最善を尽くすのが幕臣の務めであると手を抜くことはなかった。

倒幕勢力の後ろ盾になろうとした英国に対し、幕府の後ろ盾になろうとしたフランスの公使・ロッシュと手を組んで、軍制改革に伴い横須賀に武器製造のための大規模な製鉄所そして造船所の建設に取り組んだ。

忠順は幕府財政が火の車であることを承知の上で、「たとえ幕府がどこかに売りに出すにしても、土蔵付きの売家だと威張ることも出来ようぞ」「この事業をやらないからといって、その分だけ余るという訳ではない」度胸ある財政通でもあった。

将軍・家茂の突然の死、慶喜の登場、大政奉還、鳥羽伏見での敗戦、江戸城無血開城と続く。忠順は最後まで強硬な主戦論であったため退けられ役を解かれた末、免職となった。15代にわたる幕府の中で将軍自身から直接免職を言い渡されたのは忠順だけである。

忠順のライバルである勝海舟は「小栗は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に勝れ、計略に富み、世界の大勢にも通じ、誠忠無二の徳川武士だった。三河武士の長所と短所を両方そなえておったよ」といっている。

上州の領地に引退し土着するつもりであったが、東山道総督府に抵抗すると誤解され、烏川のほとりで首を落とされた。行年42歳。

太陽がまさに沈もうとする時である。「地火明夷」の卦。しかし、いかなる艱難にもその志操を変えずに往く(艱貞)がよろし。死中に活を求める生き方もある。

日露戦争の英雄である東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である」といって、群馬の山村に隠棲していた遺族を捜し出し、礼を述べたという。

参考・外国人ロッシュ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/26121327.html

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安泰を偽装することに徹した老中・安藤信正(1819〜1871)

安政の大獄に続く桜田門外の変。伊井大老とともに幕府の主柱は倒れた。

安政七年3月3日、首を落とされた大老の遺体は直ちに彦根藩邸に運ばれた。まもなく現れた安藤信正は「ご負傷の一件につき、即刻お見舞いに参上いたしました。」と言った。

そして信正は首の無い大老に向かい、長々と見舞いの言葉を述べた上、ご家来衆に大老の死を秘すよう申し渡した。彦根藩と水戸藩の武力衝突を回避するための偽装工作である。

福島県の磐城平藩主の信正が老中に任ぜられたのは桜田門外の変のわずか40日前、伊井大老から抜擢された。そして大老の死、信正にして見れば正に急展開の政局である。

信正は反直弼派の久世広周を老中首座にすえて久世、安藤の連立政権により難局に立ち向かう。先ずは直弼の行き過ぎた強行路線を元に戻すため一橋慶喜、松平慶永、らの謹慎を解いた。

次に手を打つべきことは全国に広まった尊皇攘夷運動を鎮めることだ。もっとも効果のある施策は朝廷から将軍の御台所を迎えることである。

信正は、将軍・家茂(15歳)の御台所として孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王(15歳)の降嫁を願い出た。家茂にも和宮には既に婚約者があったが、それぞれの縁談をつぶすことになる。とくに和宮は「幾重にも御断り申し上げたく」と固辞した。しかも、孝明天皇は大の外国嫌いで開国に踏み切った幕府を許さない。和宮を異人徘徊の土地になどもっての外と断わる。

そこで信正は今更、鎖国攘夷など不可能でありながら朝廷にウソをつくことにした。「当節より7,8年ないし10年もたち候うちには、ぜひぜひ応接(外交)をもって引き戻し候か、または干戈(武力)をふるい征伐を加え候」攘夷を約束し、孝明天皇の勅許を取り付ける。

いたいけな和宮も莫大なワイロをもらった大人たちに説得されて「誠にいやいやの事、余儀なく御うけ申し上げ候」と家茂との結婚にうなずいた。

2年後の文久2年(1862)10月、江戸幕府開府以来始めての皇女の降嫁が実現した。しかし、婚礼の場に信正の姿は無かった。その年の1月、坂下門外にて降嫁に反対する水戸浪士に襲われ負傷した。「背中を斬られるとは武士としてあるまじき」として、その後隠居謹慎処分になっていた。

「山地剥」の卦。剥製の剥である。見た目は立派でも中身は無い。実際は莫大な債務を背負っているにもかかわらず粉飾決済によりごまかすようなものだ。倒産目前である。

立派に聳え立つ江戸城。問題は中の組織がしっかりしていたかどうかだ。
新しい倒幕勢力が出来る前に既に幕府は弱体化していたことを物語る話である。

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日本人として始めて太平洋を横断しアメリカへ渡った「咸臨丸」の艦長・勝海舟(1823〜1899)

安政の大獄、桜田門外の変で一つの時代が終わりつつあった頃、まったく新しい時代が生まれつつあった。

海舟の父・小吉は無役の旗本・小普請組というから身分はかなり低い幕臣である。16歳で剣を学び、禅にも精進して、21歳で免許皆伝を受ける。開国論の佐久間象山の門下になり、蘭学者・永井青崖から蘭学を学ぶ。

貧しさは「困難ここに至る」状態であり、祖母、妹も病弱で縁側の板や柱を割って炊事をしたこともあったという。その間の勉強振りは凄まじい。オランダ語辞典を借りると、2部筆写して1部を売り、その金で借り賃を払った。

1853年、ペリーの来航後、老中・阿部正弘が階級を問わずに意見書を募集した時、海舟の開国積極論に目を止め、翻訳担当者として抜擢した。海舟30歳の時である。

やがて長崎海軍伝習所にてオランダ海軍のカッテンディーケから航海、造船、算術、砲術、蒸気機関などを学ぶ機会を得た。5年の伝習所生活は海舟を大きくした。演習中には薩摩の島津斉彬にも知遇を得た。

日米修好通商条約を締結した幕府はアメリカに遺米使節団を派遣することになった。使節団の乗る船はアメリカ軍艦「ポーハタン号」だが、この船の護衛という名目で日本人操縦による軍艦が随行することになった。

この船が「咸臨丸」で勝海舟が艦長として1860年正月22日横浜を出発した。途中、嵐に翻弄されながらも40日かかって2月26日にサンフランシスコに無事到着する。(3月3日が桜田門外の変である)

海舟達がサンフランシスコに滞在したのは約40日で、その間街の様子などを見聞して帰りにはハワイのホノルルにも寄って帰って来た。実は行きの航海では海舟をはじめ日本人は殆ど船酔いで役に立たず、乗り合わせた米国水兵が操縦した。しかし、帰りの航海は日本人のみの操縦であった。

この「咸臨丸」とう名前の由来はというと、易の「地沢臨」の卦の中にある「咸臨」から名づけられました。「咸臨」とは世の中の期待を命がけで受けて立つ心意気を表したものです。正に時代が変わりつつあった日本にとって相応しい名前でありました。

海舟にとってはこの体験こそ、その後の生き方を大きく変えた出来事になったことでしょう。

勇気を持って挑戦することです。成功体験は人間を大きくしてくれます。

参考・カッテンディーケ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/24590055.html

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将軍継嗣問題で降板した一人の幕臣・川路聖謨(としあきら)1801〜1868

聖謨の生まれは大分県の日田であり父は代官所に務める下級武士である。父の転任に従い江戸に出、12歳の時、幕府小普請組の川路家に養子に入った。

下級幕吏からのスタートであったが、持ち前の才気と勤勉な努力で役人としてはきわめて順調に出世の階段を上った。40代では普請奉行、奈良奉行で治績を挙げ名奉行と言われた。

50才では大阪奉行、そして江戸に戻り勘定奉行ともなり、渡辺崋山、佐久間象山、間宮林蔵とも交友し海外事情にも精通した。駕籠での移動中も本を読み勉強したという。

嘉永6年、ペリー来航。続いてロシアのプチャーチンが来航すると、聖謨は筒井政憲とともに全権大使に選ばれ長崎へ会談に赴いた。そして翌年10月、下田にて会談。12月には日露和親条約を締結した。

司令官プチャーチンの秘書は後に小説家になったゴンチャロフであり、「日本渡航記」と題して出版している。その本の中で聖謨は絶賛されている。「すべてのことはかれの優秀な理知と聡明と鋭敏と経験とを現すものであった。民族、服装、言語、宗教、人生観は異なっても、賢明な人には共通の表象がある。ばかにも共通点があるのと同様である。」「彼はヨーロッパのどこの外交官にもひけをとらないほどの常識とウィットと炯眼と練達を示していた。」

ところが、安政5年正月、日米修好通商条約の勅許を発行して貰うため老中・堀田正睦に随行して京都へ行ったが、朝廷工作に失敗し勅許が得られなかった。

その結果、大老になった井伊直弼から閑職に左遷される。(聖謨は老中・阿部正弘に抜擢され一橋派と見られていた)つづく安政の大獄で聖謨は免職、蟄居に処された。

その後、生麦事件の事後処理のため英国との折衝にあたるが、結局は失敗する。政局から3年以上離れた聖謨にはもはやゴンチャロフに絶賛された「理知と聡明」は蘇えっては来ない。

失意の聖謨に病魔が襲う。中風となり身体の自由を失ったのだ。慶応4年、幕府は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、東征軍が江戸に迫る。そして、3月15日江戸開城の報せを聞いた聖謨は不自由な身体で切腹を試みたが果たせず、短銃で喉を撃って自殺した。幕府に尽くした生涯である。行年68歳。

葬列には2、3名しか従わない、生前のめざましい出世を想像することも出来ないような淋しい野辺の送りであったという。  明治17年新政府は従四位を贈った。

人が何物かに尽くすという姿は「山沢損」の卦。密かに感ずる処あって発奮し、外・私心を去って動ぜず、内・悦んで修養努力する象である。理想・高い目的の為に、低い情欲を犠牲にしてゆくのである。

生涯を尽くした幕府が滅びようとしている。聖謨の心に後悔はなかったろうか。

それにしても将軍継嗣の対立は根深いものですね。

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幕末のクライマックス「安政の大獄」と「桜田門外の変」はこうして起きた。

大老・井伊直弼は一橋派の藩主たちの不時登城に対して水戸斉昭を筆頭に断固たる処分を下した。直弼の真意は「御三家でありながらこの幕府の非常時に何ということよ。頭を冷やせ!」である。

一方、処分を受けた水戸斉昭たちは「伊井め!大老という名を借りてわれ等をを何と心得る。権力の乱用じゃ。許せん!」

激怒した島津斉彬は挙兵するため薩摩へ取って返した。戦争も辞さず志を遂げようとした。(しかし、藩兵の訓練中、急逝。父・斉興による毒殺説が根強い)

水戸斉昭は今度こそ大老を引き下ろそうと朝廷を動かし孝明天皇より勅書を取り付ける。幕府の臣下である藩主に勅書が下されることは前代未聞のことである。(幕府の権威は完全に地に堕ちる。)

内容は1、勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことを責め、詳細な説明を求める。2、御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、攘夷を推し進る幕政改革を求める命令。そして上記二つの内容を諸藩に廻達せよというもの。(戊午の密勅という)

この情報を知るや直弼は老中・間部詮勝を水戸藩邸にやり、「勅書の写しの回達は断じて許さず。直ちに勅書は幕府に差し出すべし。」 水戸対幕府の対立は深刻なものとなった。

さらに朝廷内では幕府のパイプ役である九条関白が辞職に追い込まれたとの情報が入る。「関白が朝廷より去れば、幕府の真情を主上のお耳に達する術はなく、これ以上放任すれば取り返しがつかぬ。」

決心した直弼は「関白の辞職には同意すべからず。奸賊の手下どもを捕縛して厳重に処罰すべし。」京都にて情報収集に当たっていた埋木舎時代よりの腹心・長野主膳に申し送った。

かくして、安政の大獄が開始された。水戸藩家老・安藤帯刀以下水戸藩士を始め、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本佐内、吉田松陰など学者、志士を死罪、公卿、公家につとめる老女に至るまで75名に及ぶ断罪である。

この断罪は日本中を震撼させたが、反幕府、尊皇攘夷の勢いは京都を中心に日本中に広がり始め、もはや手の打ちようは無かった。水戸藩の過激派は直弼暗殺のため脱藩して姿を消した。

安政7年3月3日、桜田門外、春の大雪の中、江戸城に向かう直弼の駕籠は襲撃された。行年46歳。

大河の氾濫を表す意味で「沢天夬(たくてんかい)」の卦。忍耐を重ねて蓄積されたマグマが爆発するようなものである。改革のエネルギーも体制を守ろうとするエネルギーも限界まで蓄積されていたのだろうか。

3月3日登城前、心配した主膳に向かい直弼は言った。

「一期一会の心は忘れてはおらぬ。今日という日は再び無く、今日の私は明日の私ではない。」

一日一日信念に従い精一杯生きているので悔いは無いという意味だろうか。

参考・幕末の女・村山たか⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/28615157.html

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