さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

老中と幕臣

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250年間、徳川政権を譜代の大名として政権を担ってきた老中たち。
幕府から選ばれた幕臣として政権を支えてきた役人たち。
幕府への忠誠と誇りを忘れることは出来ない。
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将軍継嗣問題は幕末最大の対立となった。

ペリー艦隊による開国要求は幕府を揺さぶる大問題であったが、その騒ぎの最中、12代将軍・家慶が跡継ぎに病弱な家定を残したまま急死した。

家定は13代将軍を継いだが、直ぐに後継者が問題になった。候補は紀州の徳川慶福(8歳)、そして一橋慶喜(18歳)。

時の老中首座・阿部正弘は英明な一橋慶喜を将軍に据え、さらに従来の幕府制度を見直し挙国体制で難局に立ち向かうべきだと考えた。すなわち、譜代大名だけではなく御三家、親藩、外様大名の中の実力のある雄藩にも政治参加させようというのだ。

正弘の構想に同調した一橋派には慶喜の父である水戸・徳川斉昭を中心に福井・松平慶永、薩摩・島津斉彬、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城らそうそうたる雄藩の藩主が名を連ね、政治力、軍事力、財力、朝廷への人脈にも圧倒的な勢力をもつオールジャパンが結集した。

そんな時に新たに老中に加わったのが直弼である。直弼は正弘の構想を幕府の分裂にも発展しかねないと危惧した。非常時こそ悪戯に改革を叫ばず、落ち着いて最良の対策を立てるべきであると考えた。将軍継嗣も幕府の規則に従い最も血筋の近い紀州の慶福が相応しいと主張する。溜り間詰めの譜代大名たちも同調した。

かくして、将軍・家定の継嗣を廻り一橋派と南紀派は開国問題とともに対立を激化して行った。

彦根藩は譜代の中では30万石の大藩であるが、あとの譜代大名らは5〜10万石の小藩が多い。南紀派の最大勢力は大奥の女たちである。(水戸斉昭を嫌うことで家定の生母・本寿院を筆頭にまとまっていた)

一橋派は大奥対策として、島津斉彬の養女・篤姫を将軍の御台所に送り込むことに成功する。(しかし大奥を動かすことは不可能だった。)水戸斉昭は紀州派の松平乗全、松平忠固の二人を老中から外すことにも成功した。

紀州派には四面楚歌となり、一橋派の勝利目前と見えたが、老中首座を堀田正睦に譲ったばかりの阿部正弘が過労のためにわかに病死する。(スター選手ばかりの一橋派はまとめ役である名監督を失った)一橋派の切り札は朝廷だけである。朝廷に政争を持ち込むのは場外乱闘のようなもので幕法にも違反であるが、そんなことは言っていられない。外国嫌いの孝明天皇を味方につけ反幕府運動を繰り返す。

安政5年4月、家定将軍からの命で直弼は大老に就任した。(大老とは非常時に将軍に代わる地位である)直弼は大老就任早々、2大難問である「開国」と「将軍継嗣」に断を下さなければならない。

清国に勝利したイギリスが日本に向かっているとの情報を得、日米通商条約には待ったなしのタイミングである。朝廷の勅許を待つ時間はない。直弼は全て自分の責任で調印の指示を出した。

次に将軍継嗣問題について、一橋派のリーダーである松平慶永を藩邸に呼び「将軍からも内示があったことでもあり、これまでのことは水に流して協力して戴きたい」と頭を下げた。しかし慶永は「今さら後には引けない、他のものも同じと心得る」「どうしてもか」「どうしても」話は決裂した。

「こうなれば、信ずる道を行くしかない」直弼は翌日、御三家以下の譜代大名を大広間に集めると「次期将軍は慶福に決定」と発表した。

すると、一橋慶喜、水戸斉昭、水戸藩主・徳川慶篤、松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝が許可なく登城し、「慶喜を将軍に」「慶永を大老に」と直弼に直談判に及んだ。

禅と茶道、居合いで精神を養った直弼は顔色を変えることなく応対。しかし、大老は将軍の代理である。断固たる処分を下さねばならない。錚錚たる藩主たちを全員、蟄居謹慎処分とした。

大老の決断は天地間に雷鳴がとどろき渡るような断である。「震為雷」の卦。百里を震撼させる雷であっても、狼狽することなく祭礼をとり行って器物をとり落したりしない。そういう人物でなければ天下を営むことは出来ない。

一橋派が朝廷に持ち込んだ火は消えることなく燃え広がって行く。

「安政の大獄」「桜田門外の変」に続くのです。(続編をご覧下さい)

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部屋住みから大老。長い下積み時代に培った決断力。(1815〜1860)

井伊直弼と言えば、「安政の大獄」を断行した大老として誰一人知らぬものはいない。
しかし、直弼は世に出るまでの下積みの時代という別のドラマを置いては語れない。

彦根藩主の十四男として生まれた直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなった。弟の直恭とともに控え屋敷に入った。家臣と同格の300俵の捨扶持の部屋住みの身分となる。

直弼20歳のとき養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組だけで、直弼には期待むなしく養子の話はなかった。

「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」 
自らを花の咲くこともない埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ出世をあきらめる決心をした。

部屋住み時代の直弼は、国学、曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。禅では「有髪の名僧」と呼ばれるほどであったという。書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開いた。

茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある。他にも能面作りに没頭した。また、湖東焼、楽焼にも造詣が深かったという。半面では世捨て人のような諦念を抱きつつも、半面では「余は一日4時間眠れば足りる」として文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことがうかがい知れる。

こうした青春時代に一人の男との運命的出会いがある。後に直弼の懐刀となる長野主膳である。
主膳の前半生は不明。25歳の頃、国学者および歌人として伊勢に現れる。眉目秀麗、寡黙、酒を好まず、ひたすら学問に打ち込む。主膳と直弼は意気投合した。三晩つづけて夜を徹して語り明かした。ともに28歳。いらい和歌と学問の師として刎頚の交わりを結ぶ。

生涯埋もれ木の覚悟であったが、弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった直元(直中十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。
嘉永3年(1850)、直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となる。36歳のことである。

図らずも藩主となった直弼は残りの生涯を天下領民のため善政を誓った。
彦根領主としては3年しかいなかったが、前後9回も領内を視察し自由営業を奨励、娼妓の全廃、税の免除などしきたりに拘らず民政にさまざまな治績を挙げ、名君と呼ばれたといわれる。

直弼の埋もれ木の時代。「雷山小過」の卦。分を守り足るを知る道である。雌伏の時とも考えられるが陰の真価が問われる時でもある。

やがてカリスマ大老となり最大のライバル・徳川斉昭と対決する。

斉昭の豪放なカリスマ藩主とは生まれも育ちも対照的である。

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開国論の旗手として日本をリードしようとしたが、政治のしがらみに破れた老中・堀田正睦(まさよし)1810〜1864

水野忠邦の天保の改革に異を唱え、一度老中を追われた正睦は藩(千葉・佐倉)に帰り、藩政改革と蘭学を中心に学問振興をはかり、蘭学に関しては西の長崎、東の佐倉とまで言われた。とくに西洋医学はメッカとして江戸まで聞こえた。

ペリーが開国をせまった時の老中首座・阿部正弘が諸大名に対策案を求めた時、正睦は「国運を振張する道は開国にあり、国力を増進する策は通商にあり」と確信に満ちた意見書を提出し老中に返り咲いた。

阿部正弘は海防参与の徳川斉昭と溜間詰大名を招集して対策を協議する。打ち払い論を唱える斉昭に対して開国やむなしとする伊井直弼が応酬して激論となった時、意見を求められた正睦は理路整然と開国論を述べたところ、他の諸大名も一斉に正睦に同調したという。

将軍継嗣問題で阿部正弘は反対派の伊井直弼の圧力に屈して、首座を正睦に譲り連立内閣で事を進めようと図ったが志半ばで病死する。

老中首座となった正睦は早速、通商条約を求めるアメリカのタウンゼント・ハリスを迎えることになる。開国論の正睦には異論はなかったが、異を唱える勢力は朝廷の勅許を受けるべきだと主張した。

勅許を得ることもしっかり説明すれば簡単と考えていた正睦は莫大な献上金を用意して京都に乗り込み、勅許を願い出るが一向に下りない。2ヶ月を費やすものの失敗に終わった。(これは次期将軍に慶喜を担ぐ島津斉彬、松平慶永らが手を回し妨害していたためである。)

正睦が江戸に帰った3日後、伊井直弼が大老職に就き正睦は老中を解任される。直弼は勅許なしで通商条約に調印、次期将軍も慶福に決定と発表する。この決定に猛反発する勢力を弾圧する。「安政の大獄」である。

正睦は隠居、蟄居を受け失脚。開国に向けた見識と手腕は正当な評価を受けることなく終わった。

正睦は開発、啓蒙をしようとした。「山水蒙」の卦。未開発の状態を表す。人間では幼少期の教育に当たる。幼少期の教育に大切なことは相手の素質に合わせてその能力をいかに育てるかである。時に根気が必要である。

志を遂げることが出来なかった正睦であるが、蘭学は佐倉藩に広く普及した。

西洋にあこがれた藩士の子であった津田仙は明治になり、8歳の次女・梅子を岩倉使節団の女子留学生としてアメリカに留学させる。

梅子は後の津田塾大学を創立し日本の女子教育に偉大な貢献をすることになる。

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内憂外患の危機的時局に挙国一致内閣を目指した悲運の宰相・阿部正弘(1819〜1857)

天保の改革に失敗し、失脚した老中・水野忠邦と入れ替わって老中首座の押されたのが若干27歳の阿部正弘である。正弘は備後(広島県)・福山の城主。

失政の後の収拾であり、その上アヘン戦争の情報もあり外国からの開国要求が迫りつつあった。
正弘は日本の置かれた立場がいかに危機的な状況であるかを理解していた。

嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊の来航である。アメリカ大統領の親書を携えたペリーは開国か一戦かの重大な決意である。久里浜で親書を手渡した艦隊を江戸湾にまで侵入させ充分威嚇して再来を告げた上で戻って行った。「余りに軽蔑の所業、切歯の事故、直ちに打ち払いまでもと覚悟も決し候」と福井藩主・松平春嶽に手紙を書いている。常に冷静沈着な正弘にしては珍しい血気盛んな一面である。

その月の末、突然のように将軍・家慶が死去。後継の家定は病弱の上、知恵遅れでもある。

35歳の正弘は暗黒の海原に、絶対絶命の「日本丸」の舵取りを任された。
独断専行の水野の失政を見ている正弘は柔軟な姿勢で各階層からの意見を集約し、衆智を集めて難局を打開する道を探る。そして問題の分析、対処法の整理、重大な責任を背負って手探りの前進を開始した。

正弘は広く諸大名にアメリカの国書を示して意見を求める。さらに幕臣、諸藩士、一般庶民にも上書を許す。積極的な人材の登用を断行。川路聖謨を勘定奉行に抜擢、江川太郎左衛門、勝海舟、中浜万次郎などが登用された。安政の政局に活躍した幕臣のほとんどが正弘の抜擢を受けた人材である。

開国後は徳川幕府だけでは乗り切れないことを察知して、薩摩、宇和島、土佐、などの外様の雄藩を水戸・徳川斉昭、福井・松平春嶽らの親藩と結びつけ挙国一致体制を創ろう。

その為には中心であるしっかりした将軍が欠かせない。病弱な家定を水戸から一橋へ養子に出た慶喜に継がすのが一番だ。着々と手を打つ。薩摩の篤姫を御台所に据えて大奥も押さえねばならぬ。

ところが、これに猛反対を唱える勢力があった。正弘が外様大名とよしみを結ぶ模様を苦々しく見ていた溜間詰(タマリノマヅメ)の譜代大名たちである。格式を重んじる譜代大名たちは外様大名を軽蔑していた。

次の将軍に慶喜を押す一橋派と紀州の徳川慶福を押す南紀派に分かれ幕府内は激しい対立に発展する。南紀派の筆頭は後に大老となり強権を発することになる彦根藩主・伊井直弼である。

ついにその圧力に抗しきれず、開明派の堀田正睦を首座に据えて連立内閣として難局に立ち向かおうとした。しかしその半年後、安政3年6月、にわかに病死した。志半ば、39歳である。

大きな難局を前にして確固とした志がある。「水雷屯」の卦。産みの苦しみを意味する。いよいよ幕末の動乱に突き進む時代に相応しい卦である。

正弘の心境は鎌倉幕府で蒙古襲来を向えた時の北条時宗の心境でしょう。

徳川幕府、最後の名宰相と言えます。

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あらゆる奸智で出世した高官・鳥居耀蔵(ようぞう)1815〜1874

悪い奴の代表ともいうべき憎憎しい役人を紹介しよう。
鳥居耀蔵は大学頭林述斎の次男である。大学頭といえば今の東大総長のような名門である。
やはり名門の鳥居家の養子となる。どこで間違ったか耀蔵は手段を選ばぬ出世の権化となる。

耀蔵が出世のきっかけを掴んだのは大塩平八郎の乱である。平八郎は大坂町奉行の与力で、いわば幕府の役人。その役人が困窮する庶民に対し何の対策をも施さぬ幕政に抗議して門人をあつめて起した乱である。 しかし、幕府の役人の叛乱という前代未聞の事件に幕府はその後始末に苦慮した。

耀蔵は「大塩は養子格之助の妻と姦通した」と事実無根のデッチ上げの判決文を作成。大塩人気を封じたい幕府に事件のケリをつけさせた。そしてこの判決文こそが耀蔵の出世の糸口になった。以後、「誹謗」「中傷」「デッチ上げ」。これが耀蔵が出世をしていくための常套手段となる。

そのころ、外国船がしきりに日本近海に出没。幕府は江戸湾の測量を当時目付になっていた耀蔵と伊豆韮山の代官である江川英龍に命じる。江川英龍は韮山代官ながら蘭学者たちの集まりである「尚歯会」のメンバーでもあり測量にあたり最新の測量技術や人材を導入したので耀蔵側のものとは比較にならなかった。これにより耀蔵は大恥をかいた形となった。

面目を失った耀蔵は「尚歯会」に復讐を誓った。「尚歯会」を「野蛮な洋学を信奉する結社」という意味で「蛮社」と呼んで、誹謗、中傷、デッチ上げに取り掛かる。

渡辺崋山が書いた「慎機論」は幕政批判にあたるとし崋山を国許三河田原に永蟄居。(のち蟄居先で自殺)、蘭学者小関三英は自害。高野長英は自首したが終身刑。(のち破獄して全国を潜伏するも捕吏に囲まれ自殺) これにより「尚歯会」は潰滅した。これを「蛮社の獄」という。

さらに 耀蔵は幕府の要職、南町奉行になるため、老中・水野忠邦に取り入り、現奉行、矢部定謙を讒言により無実の罪に陥れ追い落とした。(矢部は大塩平八郎の友人であり共に飢饉に苦しむ市民のために尽力した篤実家の名奉行であったが、桑名藩にお預けののち自害した。)

このころ、老中・水野忠邦は「天保の改革」を行う。水野の三羽烏と呼ばれた耀蔵は江戸市民の贅沢を禁止した。市民の間にスパイを放ち、おとり捜査で次々と検挙して行った。江戸の町は一種の恐怖政治に陥った。人々は、耀蔵のことを「妖怪」と呼んで恐れた。

水野忠邦は腹心の耀蔵を勘定奉行にする。南町奉行と兼任だから今でいえば、財務大臣と、最高裁裁判官を兼任するようなもので耀蔵は権勢を欲しいまました。

しかし、水野の天保の改革も行き詰まりを見せて来た。 天保の改革の目玉、「上知令」が諸大名の猛反対でうまくいかなくなったためである。 日に日に、水野が追い込まれてゆく中で腹心であるはずの耀蔵は水野を見限る。見限るばかりか水野の裏情報を反対派に渡し水野を失脚させた。

ところが耀蔵の命運もここで尽きる。 将軍家慶の命令で10ヶ月後に水野が老中に返り咲く。復職した水野によって耀蔵は一転、罪人扱いの身分とされ、四国・讃岐丸亀の京極家に永預けとなる。

このような役人が蔓延るのは時代が行き詰った証拠である。「水山蹇(けん)」の卦。行き詰まり、行き悩みを表す。夜明け前の寒さのようでもある。

「蛮社の獄」の代償は余りにも大きい。 世界情勢を察知し情勢分析をする機関がなくなった。

もし「尚歯会」が残っていたらペリー来航の際、幕府の対応は違ったものになったはずである。

大塩平八郎、江川英龍、渡辺崋山、高野長英については「幕末の俊秀」をご覧下さい。

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