さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

老中と幕臣

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250年間、徳川政権を譜代の大名として政権を担ってきた老中たち。
幕府から選ばれた幕臣として政権を支えてきた役人たち。
幕府への忠誠と誇りを忘れることは出来ない。
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「天保の改革」を断行し幕政の回復を計ろうとした老中。(1794〜1851)

長期政権を続けた徳川幕府であったが、文化、文政の化政期を迎えると経済も高度成長期に入り爛熟した。文化、芸術の花が開花し、町人も百姓もそれなりの文化謳歌していた。

ところが平穏な時代が過ぎ、天保年間(1830〜43)に入ると暗雲が立ち込める。全国的な異常気象がおこり不作が続く。天保大飢饉である。

しかも飢饉に対する幕府役人の失政と腐敗が原因で、大塩平八郎の乱に代表される各地に起った百姓一揆は353件と歴史上最悪の事態を招いた。

天保の二大事件として蘭学者弾圧の「蛮社の獄」がある。異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす事態に先駆者である渡辺崋山や高野長英が犠牲になった。

文化、文政から天保にかけての将軍は11代将軍・家斉であるが、家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子をもうけた。

その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。

農村から多数農民が逃散して江戸に流入して盗賊団となり、物価は騰貴、役人の賄賂、腐敗は目に余るという有様。

そんなときに老中首座についた水野忠邦であったが将軍を退いたあとも「大御所」として君臨する家斉の下では改革の手が打てない。ようやく天保8年(1837年)家斉薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、「天保の改革」に着手した。

農村復興のため「人返し令」を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。

天保14年(1843年)9月に「上知令」を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどし、同年閏9月13日に老中を罷免され失脚した。

忠邦の改革はあまりに過激な改革で庶民の怨みを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。翌弘化元年(1844年)6月に外国問題の紛糾によって老中に再任されたが、昔日の面影は無く、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったという。

ペリー艦隊来航の2年前、嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58。

天保の時代とは「山地剥」の卦が相応しい。庶民が貧困にあえいでいるときに将軍だけが贅沢三昧をしている。重大な慢性疾患の患者が元気を装うようなものだ。崩落寸前の岩山の如きか。

水野忠邦は敗戦試合の処理にあたった投手のようなものだ。

命を賭した改革に精根尽きた。それでも他の老中も庶民も非難した。

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