さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の女

[ リスト | 詳細 ]

幕末という時代に生まれ、懸命に生きた女たち。
どんな環境にも負けることなく誇りを失わず生き切った。
近代を勝ち得たのは男の仕事ばかりではなかった。
記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

幕末の舞台にたびたび登場する船宿「寺田屋」の女将・お登勢(1829〜1877)

宿屋の娘として生まれたお登勢は18歳で伏見の船宿「寺田屋」の6代目・伊助に嫁いだ。
一男二女をもうけるが、夫は殆んど家に帰らないような放蕩者で35歳の若さで死んでしまう。

お登勢は女将として寺田屋を経営していくことになる。寺田屋の三十石船は多くの船頭で
漕ぐために船足が速く、評判は上々であったという。

一日中働きづめで芝居見物も出来ないお登勢の唯一の道楽は「人の世話」であった。
どんなに忙しくても人から頼まれたことはどんな事でも引き受けてしまう。

時には捨て子の面倒までみたこともあるという。そんなお登勢を頼りにしたのが勤皇の
志士たちである。奉行所から睨まれて危うく入牢されそうになったこともある。

文久3年4月、薩摩藩士・有馬新七らが藩主・島津久光の命によって上意打ちにきた
奈良原喜三郎らに乱闘のすえ斬られた「寺田屋事件」がおこった。

その時、お登勢は慌てず落ち着いて幼い娘をかまどに隠し、女将として帳場を守り
事後も手際よく使用人を動かした。血だらけの畳や襖をかえ、天井や壁の血痕も残らず
ふき取って直ちに営業できるように整えたという。

最もお登勢の世話になったのが坂本龍馬であり、龍馬が彼女に宛てた手紙は殆んどが
頼みごとか泣き言であったという。早くに母親を失くした龍馬にはお登勢が母親のように
思えたのかも知れない。又、龍馬が連れて来た娘・お龍を養女としている。

慶応2年1月、定宿としていた龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛しようと寺田屋に押し入った。
その時、風呂に入っていたお龍が裸のまま二階に駆け上がり危機を知らせた。龍馬は短銃で
反撃しながら左手を負傷したものの間一髪、脱出に成功し難を逃れた事件もあった。

勝海舟もお登勢を「豪胆かつ細心な女性」であったと評している。
明治10年9月、没。享年48歳。

「山雷頤」(さんらいい)の卦。「養う」ことを意味する。身体を養う。精神を養う。他人を養う。物を養う。「養う」の道はまことに多様であり、愛情を持つこと、慎み深くあることが肝心である。

維新の英雄と言えば男達に目が行きがちではあるが、

同じ時代に生きた女達の底力はこんなところにもあった。

イメージ 1

日本の近代化に多大の足跡を残して永久追放されたシーボルトには娘がいた。

シーボルトと遊女・楠本滝との間にイネは生まれた。両親の限りない愛を受けて育った
イネだったが、不幸なことに2歳7ヶ月の時、シーボルト事件が起こり、父は国外に永
久追放となる。最愛の親子は離れ離れとなる。

父は最も信頼する弟子の二宮敬作に娘の将来を多額の教育費とともに託した。イネは再
婚した母のもとで暮らしたが、父の血を引いたせいか、混血の身では並みの結婚は望め
ないと考えたものか学問に情熱を抱く少女であった。

14歳の時、伊予宇和島藩主に仕える医師・二宮敬作の勧めに従い敬作のもとで医学を
学ぶ。18歳の時、敬作はイネには産科の道が相応しいと考え同じシーボルト門下であ
る備前岡山の石井宗謙に預けることにした。

6年間、医術の修得に励むイネであったが、こともあろうに宗謙は暴力でイネを犯した。
傷心のイネは長崎に帰るが、そこで自分の妊娠を知ることになり、娘・高子を生んだ。

敬作は再び、宇和島に呼び寄せ、助手として手伝わせことになる。そのとき、藩主に招
かれ蘭学教授をしていた大村益次郎と知り合い蘭学を学ぶとともに二人は愛し合い一時
同居もする。(益次郎は倒幕に活躍した戦術家であり、後に大阪で刺客に襲われ、重傷
を負った時、死を看取ったのはイネである。)

ペリー来航後、幕府は開国しシーボルトの入国が許されると、日本への思い絶ち難いシ
ーボルトは14歳の息子を連れて30年ぶりに来日した。敬作とともに長崎に帰郷して
いたイネは思いもかけず、母ともども父との再会を果たす。イネ32歳の時である。

シーボルトの世話でオランダ海軍軍医らの指導を受けることができた。3年後、シーボ
ルトは息子のアレクサンダーを残して長崎を去り、71才で、ドイツで病死する。
母・滝も世を去り、父親代わりの敬作もシーボルトが日本を去った年に他界した。
 
明治3年、東京築地で、女医としては日本初の産科医を開業した。その後、一時長崎に
戻るが再び上京し、高子とその家族と住む。
 
明治36年(1903)、77才の生涯を閉じるが、幕末から明治にかけての動乱の中、
「混血児」という不利な境遇を乗り越え、未婚の母という重荷を背負いながらもイネの
一生は、偉大な父シーボルトの名に恥じないものであった。

イネが医師への志を立てて以来、苦節20年は掛かかったであろうか。挫折しかかったこともあったであろう。「水沢節」の卦。節を守ってこそ真の幸福がある。「節」は悦んで危難を受け入れ、自己の立場を守って節度を保ち、中正な行いによって発展していく。

晩年のイネは娘の高子とともに、琴や三味線を楽しんだという。

いい人生を送った、いい女が明治の東京に居たということです。(画像・左イネ、右高子)

(幕末の女・6)幾松

イメージ 1

幕末動乱の中、大恋愛の末、結ばれたカップルと言えば桂小五郎と幾松である。

幾松は若狭小浜藩士の娘に生まれたが、家が没落し9歳で京都三本木の舞妓になった。
美しい上に、舞が上手で人気芸子であった。

その幾松に長州の桂小五郎が惚れ込んだ。何とか落籍してわがものにしたいが、
幾松には養わねばならない親兄弟もおり、金持ちの贔屓客もあった。

悩む小五郎を見かねて、伊藤俊輔(博文)が仲に入り、脅したりすかしたり、
大金を出したりして、とうとう身請けを承知させた。幾松19歳、小五郎29歳。

ある時、小五郎が芸子を揚げている席へ新撰組が探索に来た。
幾松は急ぎ小五郎を床下から逃がした。
新撰組が踏み込んで見ると、幾松が一人、金屏風の前で静かに舞の稽古をしていた。
荒々しい隊士たちを見ても顔色も変えない。反って、男達の方が気押しされ、
早々に引き上げたという。

禁門の変の後、小五郎は物乞いに身をやつして五日間、二条大橋の下に隠れた。
この時も幾松は身装を変え、毎晩、握り飯を橋の上から投げてやった。

その後、高杉晋作の挙兵後に帰郷を願う同志の手紙を携えて但馬出石に隠れ住んでいた
小五郎を迎えに行ったのも幾松である。

維新後、幾松は長州藩士・岡部利済の養女の格で名を改めた木戸孝允に嫁ぎ、
木戸松子となる。松子は終生、夫をよく支えた賢婦人であった。

恋愛を表す卦は「沢山咸」。若い男が下にあって変わらぬ愛を誓い、若い女も喜んで受け入れる。固い結びつきを続けるならば、万事順調、結婚に吉である。

小五郎にとっては、再婚であった。幕末の志士は多く色町の女性に惹かれている。

白刃の下をくぐるような生活を続ける男達には並の家庭婦人ではもの足りなかったのだろう。

イメージ 1

波乱万丈の生涯をおくった坂本龍馬の妻、お龍。

お龍の父は京都の町医者だが、頼三樹三郎や梁川星巌らと親しく、安政の大獄に
連座して獄死した。

残された家族は暮しに困窮し一家離散した。お龍の妹は大阪へ女郎として売られ
てしまった。

気の強いお龍は自分の着物を売り少しばかりの金を作ると、短刀を懐に大阪へ乗
り込み、命を張った談判の末、無事に妹を連れ帰ったと言う。

その話を聞き及んだ龍馬がお龍を伏見の船宿寺田屋に預けた。寺田屋の女将お登
勢もまた、この時代に生きた女傑の一人である。

薩長同盟に関わった龍馬を捕えようと、伏見奉行所の捕吏が寺田屋に乗り込もう
としたとき、風呂に入っていたお龍は気配に気付き、裸のまま二階に駆け上がり
龍馬に知らせる。龍馬は手傷を負いながらも、辛うじて脱出した。

もともと医者の娘であり、気転もきき、美人で度胸もあるお龍。甲斐甲斐しく傷
の手当てをするお龍に龍馬は結婚の決意をしたようだ。

西郷隆盛らの勧めで、療養と新婚旅行を兼て、鹿児島の温泉を巡り、高千穂山に
も登った。お龍にとっては、生涯で最も輝いたバラ色のひと時であった。

しかしわずか1年後、龍馬は暗殺される。龍馬33歳、お龍28歳であった。

しばらく龍馬の実家で暮すが、実家には龍馬の姉、女傑の乙女がおり、勝気と
勝気では衝突するばかりで、結局外に出されることになる。

その後のお龍は悲しい。一度、行商人と世帯をもつが、長続きせず、各地を転々
とし、大酒を飲んでは、「私は、龍馬の女房だぁ」と喚き散らしたという。

神奈川県横須賀市の観念時裏長屋にて、66歳の生を閉じた。

龍馬が死んだ後のお龍さんは気の毒であるが。易学的に見ると、「地火明夷」の卦。太陽が地中に隠れた状態である。この時にあたっては、内に明徳をつつみ、外は柔順な態度で処していかねばならない。

お龍さんに限らず、突然大切な人を失ったら世の中が真っ暗になるものだろう。

そんな時はなまじ才能を発揮して局面打開をはかろうとせず、じっとしている方が良い。

苦難の中で磨かれた実力は、やがて玉のごとく輝くものだ。

イメージ 1

役人の勘違いに泣いた女・お吉(1841〜1890)

アメリカの駐日総領事・ハリスは下田の玉泉寺を臨時の領事館にして宿泊することになった。
幕府はハリスとは会見することを避け、一年以上も下田に止め置いた。

ハリスは焦燥感と孤独に耐えながら、忍耐強く待たねばならなかった。加えて持病の悪化が進み
吐血を繰り返した。一時は通訳のヒュースケンに後事を託そうとした。見るに見かねたヒュース
ケンは下田奉行所の役人にハリスに看護婦をつけてくれるよう要請した。

ヒュースケンの日本語が充分伝わらなかった為か、役人は二人が現地妻を求めていると解釈した。
そこで役人は支度金を用意して、貧しい家庭の娘を探した結果、ハリスには母親とともに船頭た
ちの衣類を洗濯して生計を立てていた17歳のお吉に白羽の矢が立てられた。支度金は25両。
当時の大工の年収と同じである。

ところが、お吉はたった3日で自宅に帰される。吉にはれものが出来ていたためであり、ハリス
の病状が悪化していたためでもある。ハリスにとっては吉の存在はありがた迷惑であり、お吉の
身体に接したとは考えられない。

しかし愛人関係の有無とは関係なく吉は洋妾と蔑まされて生きねばならなかった。昔の恋人だった
大工の鶴松と一時同棲したが別れてしまう。気持ちが荒れた吉の酒癖が悪かったのが原因だった。

その後、三島で芸者をやったり、下田に戻って居酒屋「安直楼」を開業したりもした。しかし、
吉の酒乱がもとでうまくいかず、病も得て極貧の暮らしを続けた。

明治23年、下田から遠くない稲生沢川で投身自殺をとげた。享年50歳。今は「お吉ヶ淵」と
呼ばれ、「お吉桜」と名づけられた桜の名所になっている。

お役人の勘違いが自然美豊かな下田の片隅に住む名もなき女の人生におおきな悲劇をもたらした。

未来を塞いでしまったお吉である。「水山蹇(けん)」の卦。困難が立ちふさがり行き詰る象である。「蹇は西南に利しく、東北に利しからず。大人を見るに利し。貞にして吉。」西南は平坦、安全な地を意味する。東北は険阻、艱難の地を意味する。人生の先生にめぐり遭えば道は開けた。落ち着きを失わなければ幸運もあった。下田は吉には険阻、艱難の地となった。

幕末の動乱はこんな田舎の町にまで悲劇を運んできたのか。

写真で見る限りは屈託の無い、明るい娘そのもの。ご冥福を祈ります。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
kan*u*uuk*u
kan*u*uuk*u
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

幕末の歴史。

ファン登録

標準グループ

ブログ作成

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事