さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の女

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幕末という時代に生まれ、懸命に生きた女たち。
どんな環境にも負けることなく誇りを失わず生き切った。
近代を勝ち得たのは男の仕事ばかりではなかった。
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江戸幕府開府以来初めて、皇女である和宮が十四代将軍・家茂に降嫁した。

ペリー来航以来の外圧に屈服した幕府は、日米修好通商条約の調印に踏み切った。
幕府はこじれた朝廷との修復を図る為公武合体政権をつくろうと即位したばかりの
将軍家茂に皇室から御台所を迎えようと画策した。

白羽の矢を立てられたのは孝明天皇の妹である和宮で家茂と同じく当時13歳であった。
和宮には既に許婚、有栖川宮熾仁親王がいた。和宮は絶対にいやだと言った。

孝明天皇も反対であったが、侍従の岩倉具視が外国との条約を破棄し攘夷を実行させるには
他に道はないと説得した。幕府と朝廷の意向には和宮はいやいやながらも従うしか道はなかった。

京都から江戸までは攘夷派志士の襲撃を警戒して29藩の藩士が警護に当たり
花嫁行列は1万5千人、なんと50キロにもなった。

江戸城の大奥では万事公家風を守ろうとする和宮派と武家風を押しとうそうとする
前将軍夫人の天璋院派に分かれて対立し、気苦労ばかりの毎日が待っていた。

唯一の救いは家茂が和宮を理解してくれ優しい夫であったことである。
しかし、激動の時代に翻弄された将軍家茂は21歳の若さで死去した。
さらに半年後、頼みの兄、孝明天皇も崩御したのである。

その2年後、慶応4年、15代将軍の慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に逃げ帰った。
その討伐軍の総督は皮肉にもかつての許婚であった有栖川宮熾仁親王だったのである。

慶喜は和宮に協力を要請。和宮は新政府軍に嘆願書を差し出す。
「官軍差し向けられ、御取り潰しに相成り候わば、私、一命は惜しみ申さず」

和宮は実家である朝廷も嫁ぎ先である徳川家も裏切ることは出来なかったのである。
維新後、和宮はひっそりと麻布で暮らし、湯治先の箱根の旅館で32歳の生涯を閉じた。

時代の流れ、自分に課せられた運命を受け入れることは、「巽為風(そんいふう)」の卦。風がどんな隙間にも入り込んでゆく象でもある。柔軟な適応性があれば必ず道は開ける。

将軍家茂も皇女和宮も与えられた運命を素直に受け入れた。

そして、せいいっぱい誠実に取り組み短い生涯を全うした。

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安政の大獄を決行したのは大老の井伊直弼であるが、京都で尊攘派の情報をスパイし、陰から働き暗躍したのは村山たかという女である。

たかの生涯は暗い影に包まれている。父親はある住職だが不倫の間に出来た子である
ゆえに、他人に預けられて育った。一人で生きていける様に唄と踊りを仕込まれたせ
いか身のこなしに色気の漂う女であった。

18歳のとき彦根藩の井伊直亮(直弼の兄で後の藩主)に女中として仕え、その後京
都で芸者になる。金閣寺の僧との間に子を作るが、子連れのまま多田性の寺侍に譲ら
れる。その後息子をつれて彦根に戻り、今度は直弼に仕える事になる。

直弼はまだ埋木舎(うもれぎのや)と呼んだ部屋住みの身で、鬱々とした人生を送っ
ていた。そんな直弼を慰めたのがたかでありそして愛人となった。

数年後、直弼のもとに国学と和歌の塾を開いている長野主膳が出入りする。この主膳
が直弼の政治的ブレーンとなるのである。たかはこの主膳とも関係をもち後に主膳の
愛人となる。

直弼は思いがけず藩主となり、さらに幕府の大老に就任することになる。安政の大獄
を演出したのは、長野主膳と言われるがたかはその主膳の手足となって、京都で密偵
の役を果たし尊攘派の志士たちを処刑に追いやったのである。

桜田門外で直弼が暗殺されるや、主膳も斬首され、たかも尊攘派の志士たちにより
「天誅」と叫ばれ三条河原に3日3晩さらし者の刑にされたのである。息子の多田
帯刀はたかの面前で首を切られた。

立て看板には「この女、長野主膳の妾にして奸計を助けたる者。女子の身なれば死罪
一等を減ず。」

この時、たかは50歳を超えていたが、衰えを感じさせない美貌と毅然とした態度に
は気品さえ感じられ、罵声をあびせる者はいなかったという。

スパイのような働きは易学では「天風姤」の卦が相応しい。何処にでも入り込む風を現す。君子に取り入るのに巧みである。警戒を要す。

晩年のたかは尼となり、京都の寺で亡き息子と愛人達の冥福を祈り続けたという。

第一回のNHK大河ドラマは昭和38年「花の生涯」である。船橋聖一の原作はたかがモデルである。

たかを演じたのは淡島千景(画像)で絶賛を浴びたそうだ。

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政略結婚により薩摩から将軍家に嫁いだ天璋院篤姫(1836〜1883)

外国から開国の声がしきりに聞こえ始めている頃、徳川将軍家では深刻な御家の事情を
抱えていた。12代将軍・家慶の跡継ぎ問題である。

生まれた子供がいづれも病弱で次々と夭折し、残った四男の家定も病弱でありとても将軍を
継げるほどの人材ではないことである。成人になり公家から輿入れはさせたが、性的にも不能
であり子供も出来ない。しかも夫人が相ついで亡くなっている。

将軍継嗣問題はこうして興り、紀州の慶福(よしとみ)をおす伊井直弼、大奥などの南紀派と
水戸の一橋慶喜をおす島津斉彬、松平慶永、阿部正弘らの一橋派がまっこうから対立した。

島津斉彬は大奥の懐柔をねらって、島津家より家定夫人を送り出すことにした。白羽の矢を
立てられたのが、分家の島津安芸忠剛の娘の敬子である。敬子は斉彬の養女となり、さらに
公家である近衛家の養女として名を篤姫(あつひめ)とあらため家定のもとに輿入れした。

既に将軍・家慶は病死し家定が13代将軍になっていたが殆ど奥に引きこもったままである。
篤姫の努力が実を結ぶ前に1年半後の安政5年には大老に就任した伊井直弼が強権を発動して
次期将軍を慶福と決定してしまった。しかもその直後夫の家定が35歳で亡くなった。

その上、頼りの養父・島津斉彬までもが急死。22歳で大奥に一人取り残されたのである。
篤姫は落飾して名を天璋院とあらため徳川家の女として生きる決意を固める。

時代は急転回をみせはじめる。安政の大獄そして桜田門外の変にて井伊直弼は暗殺される。
公武合体論により和宮降嫁が決定し、天璋院は14代将軍・家茂(慶福)の御台所・和宮を
大奥で迎えることになった。

慶応2年(1866)、第2次長州征伐に赴いていた将軍・家茂は21歳で急死。

その2年後には江戸城開城の時を迎えるのである。天璋院と和宮は徳川家の存続を官軍と
天皇家に必死に嘆願することになる。

明治16年、千駄ヶ谷の徳川邸で波乱万丈の生涯をとじた。行年48歳。
(上の画像はNHK大河ドラマにて天璋院篤姫役を演じる宮崎あおいです。)

「水沢節」の卦。険阻艱難の時代に喜びをもって進んでいく象である。節は節義、礼節、節操、貞節である。苦節を守り通せば必ず道は開けるのである。

動乱の時代、篤姫に恋愛をする暇は無かった。

しかし、明治になり勝海舟がしばしば篤姫を屋形船に誘ったという。

密会はいつも深夜に及んだという。遅まきながら青春を取り戻したのでは。

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