さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の俊秀

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歴史は時代が創る。そして危機は人物を創る。
幕末という未曾有の時代に直面した若者たち。
彼らは真剣に時代に立ち向かい、命を懸けて時代を切り開こうとした。
彼らの足跡を知り、その思いを学んでみよう。(猶興)
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幕藩体制からの脱却を唱えた熊本の先覚者・横井小楠(1809〜1869)

勝海舟が「今までに、天下に恐ろしい人物を二人見た。」と言ったが一人は西郷隆盛であり、もう一人の人物がこの横井小楠である。

小楠は藩校の「時習館」にて頭角を顕すほどの秀才である、若くして居寮長になっている。30歳の時、許されて江戸に遊学する。佐藤一斉、松崎慊堂(こうどう)、川路聖謨(としあきら)らを訪ねた。最も影響を受けたのは水戸藩の藤田東湖であったという。

しかし、この秀才には一つ欠陥があった。酒である。詳細は解からないが、酒による失敗のため国へ戻され謹慎処分を受けている。(その後も時々失敗したようである。)

当時の熊本(肥後藩)には、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」などのグループがあり、政争を繰り返していた。小楠は「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という「実学党」を結成した。

欧米列強のアジア進出で、インドの植民地化、中国のアヘン戦争での敗北、アメリカ・ロシア・イギリス艦隊の日本への開国の圧力と続く中、小楠は鎖国から開国、幕藩制度から中央集権国家への脱却を唱え始めたので、保守的な藩内では理解するものはおらず、小楠は孤立した。

小楠の革新的な思想は越前藩主・松平春嶽の知るところとなり懇請され越前藩の藩政の改革にあたることになる。越前にはこちらも天才と言われた橋本佐内がいたが、安政の大獄により処刑され、春嶽も謹慎処分となった。

このとき、小楠は春嶽に「これより先に進む工夫こそ肝要なり。」と励まし、「富国」「強兵」「士道」の三論からなる「国是三論」を掲げ、藩政改革に取り組んだ。

江戸に於いては、勝海舟、大久保一翁らにも遭い開明的論議を戦わした。「大政奉還」論もこの辺が出所ではなかろうか。坂本龍馬も小楠の意見を聞いている。

小楠は列強の植民地政策は大義を欠くものとし、富国強兵を超えた大義にのっとった国家であることを主張した。新政府の参与に任じられたが、明治2年1月、京都寺町通りにて狂信的尊攘主義者に襲われ死亡。享年61歳。

「風地観」の卦。ものの見方をついて説く卦であるが、最も高い見方は「観光」であり、国の栄光を観るという境地である。小楠はこの見方が出来た数少ない人物と言えるのではないか。(観光の言葉の語源である。)

富国強兵を超える大義を持った国家であることは、今日、猶、実現が難しい。
英国も米国もロシアも期待出来ない。日本こそ、その国を目指すべきだろう。

越前藩主・松平春嶽については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/34760995.html
大久保一翁についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/33080433.html

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備中聖人と称された松山藩の哲人経世家・山田方谷(ほうこく)(1805〜1877)

山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。幼少時から賢い子であったので父・五朗吉はお家再興を願い儒家の塾で学ばせる。

期待に答えて頭角を現した方谷は 21歳 名声広まり藩主、板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)を得、士分にとりたてられ藩校の筆頭教授に任命された。

遊学を許され京都の寺島白鹿に学ぶ。このとき、陽明学に出会う。その後30歳の時2年半の 江戸遊学で佐藤一斎の門下に入る。このとき、佐久間象山と出会う。

方谷と佐久間象山が毎晩遅くまで大議論をしたため、他の塾生が「眠れなくて困る」と師の 佐藤一斎に訴えたことがある。すると一斎は「あの二人の議論ならば、お前たちが我慢しろ」と答えた話は有名である。それ程二人の俊秀ぶりは一斎も認めていたのだろう。

方谷に大きな転機が訪れたのは45歳の嘉永2年、藩主の交代によって養子である板倉勝静(かつきよ)が藩主になった。勝静から元締役を要請され、破綻寸前の備中松山藩の改革を任されのだ。

「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」「義に生き、義が発揮されるなら利益は後からついてくる。」という「理財論」を表し、それを実践することで、改革を成し遂げた。

最初に取り組んだのが負債整理。大阪の商人たちにこれまでの備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の猶予を申し入れた。大阪商人は、方谷が示した「産業振興策」が具体的、正確、緻密なので心を動かした。そして、利子の免除、50年の借金棚上げを承認した。

「産業振興策」その内容は、備中にある砂鉄を使って、当時の人口の80%を占める農家を相手にした農具の商品開発である。備中鍬の誕生であった。従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、大ヒット商品となりわずか2年で借金を完済した。

タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、「備中」の名で売り出した。販売方法についても西国の藩は、産物を大阪に卸すのが常識であったが、方谷は外国船を購入し、江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売したので利益が上がった。正しい「商」は「義」として大いに奨励した。

方谷の改革は財政改革に止まらない。人心、風俗、習慣まで改まった。一たび旅人が松山藩内に入ると「成る程、ここが噂の松山か。」と感心するほど村人たちの表情が明るく礼儀正しかったという。

元治元年(1864)藩主の板倉勝静は老中首座として、長州征伐に出陣。慶応3年の 大政奉還ののち戊辰戦争おこり藩主は旧幕府軍として出陣した。留守を守る方谷は重臣たちと協議の上、征討軍に無血開城すると決定。

新政府軍は藩主・勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、方谷を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した。松山城を占領した岡山藩では名君・池田光政が陽明学を振興していたことも岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。

明治政府の大久保利通、木戸孝允はたびたび 方谷を大蔵大臣に要請したが、主君であった勝静が謹慎中であることを理由に応じ無かった。明治4年 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義を続け、明治10年73歳にて死去。

方谷には各地から弟子が集まった。長岡藩の家老・河井継之助も学びに来た。
「天火同人」の卦。大きな社会の下に一つの文明があり、そこに同士が集まることを顕している。

方谷の思想は後に弟子の三島中洲(二松学舎創立者)の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。
安岡正篤先生は名著「陽明学十講」の中で方谷を「幕末陽明学の大家の中でも最も尊敬すべき学者」として照会している。

佐藤一斎については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/26498700.html
佐久間象山については http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27337839.html
藩主・板倉勝静についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/35907932.html

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緒方洪庵門下、慶応義塾の創立者・福沢諭吉(1835〜1901)

諭吉は九州中津・奥平藩の下級武士の子として生まれた。父も兄も学問好きであったが、
父は部下の過失の責任をとり切腹、兄も若くして亡くなった。

諭吉は長崎に遊学し、ついで大阪の緒方洪庵の適塾に入門した。24歳で塾長になっている。

福翁自伝によるとその勉学ぶりはすさまじい。適塾では塾生は各自の自習であるが、その熱気は
戦争のようだ。大阪の夏は暑い。塾生は狭い部屋で汗だくのまま勉強する。

食事どきになると下着もフンドシもつけない素っ裸で、肩に絽の羽織をひっかけて全員が
草履をはいて立ったまま食べる。フリチンの裸がすけて見えた。諭吉はその様子を「百鬼立食」
と表現している。

こうして学問の研鑽を積んだ諭吉は藩の目にとまり、江戸において藩の子弟に蘭学を教える
ことになった。諭吉はさらに中浜万次郎について英語を学んだ。

26歳のとき大きなチャンスをつかむ。日米修好通商条約のために渡米する使節団の随行艦
「咸臨丸」にのりこむことになったのだ。

日本人による最初の太平洋横断であったが、実際には日本人は船酔いで役に立たず、乗り合わ
せたアメリカ海軍の隊員が操艦した。諭吉はその体験を「まるで牢屋に入って毎日毎夜大地震
にみまわれているようだった」と語っている。

渡米の2年後、今度は最初の遣欧使節団の通訳として同行しヨーロッパ各地、ロシアの
ペテルブルグまで足をのばしている。さらに4年後には再び渡米している。

諭吉はこの時代に最高の海外情報通として「西洋事情」を著し日本人に世界情勢を紹介した。
新政府からの要請もあったが、政府に参加するよりも日本人を啓蒙しようと考えた。

慶応4年、上野に於いて彰義隊と大村益次郎(適塾の先輩)が戦争をしている頃、諭吉は
芝・新銭座の「慶応義塾」にていつもとかわらぬ講義を続けた。

「諸君、世の中がいかに戦で乱れようと我等だけは一日たりとも学業を休んではならぬ。」
「諸君、この塾のあらんかぎり日本は滅びずの気概に燃えて、今からただちに勉強を
始めようではないか!」

「兌為沢」の卦は親睦講習の道を説く。論語にも「学んで時にこれを習う。また楽しからずや」とある。学ぶことは最大の楽しみなのだ。

明治5年に著された「学問のすすめ」は大ロングセラーとなり

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は不滅の名言になった。

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緒方洪庵門下であり、近代兵器の天才的戦術家。(1824〜1869)

禁門の変で敗退し、窮地に陥った長州が高杉晋作のクーデターにより再び第一線に返り咲いた
ことは世に知られる話である。

しかし、いかに晋作が天才的革命家といっても大仕事を成すには実務にその能力を備えたもの
が必要不可欠である。そのクーデターとその後の幕府の第二次長州征伐に奇跡的に長州を勝利に
導いた戦術家が大村益次郎である。

益次郎が長州藩士になるまでは、かなりの回り道がある。生まれは長州の村医であり、医学、
蘭学を学び始める。人間形成には儒学を修める必要があると豊後(大分県)の広瀬淡窓の私塾
「咸宜園」へ入塾。その後、大阪の緒方洪庵の「敵塾」へ入塾、5年間勉強し塾長になった。

郷里へ帰った益次郎は医者を開業したが、さっぱりはやらなかった。人付き合いが全く下手な
ためである。悶々としていた益次郎に思わぬとこから声がかかった。

四国・宇和島藩が蘭学の指導者として招いたのだ。喜んで招きに応じ、兵書の翻訳や蘭学の教授
にあたった。その後藩主・伊達宗城の参勤に従い江戸にのぼった益次郎は番町に「鳩居堂」とい
う塾を開いた。

益次郎のずば抜けた能力は幕府や各藩にも認められた。長州の桂小五郎は自藩から天才的な頭脳が
流出していることを惜しみ、藩に計って正式な長州藩士にしたのである。

鳥羽伏見の戦いでは益次郎が実力を発揮する前に幕府軍が自滅してしまったが、益次郎の真価を
発揮したのは江戸無血開城のあと、上野に立てこもった彰義隊を掃討した戦略である。

益次郎は江戸が大火になることを避けるため明暦・明和の大火について調査して、上野だけを
たたき、他には飛び火しない作戦を立てた。

その布陣は完全無欠なものといわれる。上野を三方面から囲み、一方に敵の逃げ道を開いて
おいた。西郷がこの布陣を見て「薩摩兵を皆殺しにする気でごわすか」と怒ると益次郎は
「さよう」と平然と答えたという。さすがの西郷も唖然とした。

午前七時半、アームストロング砲による戦闘開始。官軍の大砲は絶え間なく発射された。
彰義隊は前近代的な武器しか持たなかっがその迎撃はめざましかった。

戦いは熾烈を極め、夕刻になっても決着がつかず、「どういうことだ」と益次郎に難詰する
ものがいた。益次郎は時計を見つめて「もう少しお待ちなさい」と落ち着いていた。

すると、上野が炎上し程なく「官軍勝利」の伝令がついた。すべて益次郎の計算通りであった。

「火風鼎」の卦。「鼎新」(ていしん)という言葉がある。革命は古きを去ることであり、鼎新は革命の後、新しきを興すことである。

益次郎は合理主義者である。兵部大輔として武士の廃刀、志願兵制、陸・海軍を整えようとした。

武士という階級は否定した。しかし、否定されたものにより46歳で暗殺されることになった。

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越前(福井県)の生んだ天才・橋本左内。(1834〜1859)

医師の子として生まれた左内は15歳の時「啓発録」を著した。
ここには「稚心を去る」「気を振う」「立志」「勉学」「交友を択ぶ」の五項目について、
佐内の自立した考えを述べたもので今日でも古典的名著と言えるものである。

16歳で当時の名医である大阪の緒方洪庵に弟子入りする。
洪庵もこの天才を「池中の蚊龍(こうりょう)」と呼んだ。

医学だけでなく政治にも関心があり、梅田雲浜や横井小楠にも教えを受ける。
やがて、藩主・松平春嶽の知るところとなり、藩士として仕えることになる。

左内は西洋文明をとりいれ、兵制を改め、産業を新興する藩政改革を行った。
藩主・春嶽は難題であった将軍継嗣問題の朝廷工作に佐内を登用した。

左内は有能に働いたが、大老に就いた井伊直弼が将軍継嗣の反対派を粛清するために
断行したのが「安政の大獄」。反対派の松平春嶽の懐刀であった左内は捕らえられ、
斬罪に処せられた。

獄中、処刑される直前まで「資治通鑑」に注を記入していた。
牢名主までが「貴様の様な若い秀才を死なすとは誠に惜しいことだ。出来ることなら
自分が替わってやりたいものだ。」と涙を流したという。わずか、26歳であった。

西郷隆盛は島津斉彬の懐刀として将軍継嗣問題を左内と共に運動した同志であり親友で
あった。左内の死は痛恨の極みであり生涯左内からの手紙を大切に持っていたという。

最も落胆したのは、将来を期待していた藩主春嶽であるが、
日本にとっても大きな損失であった。

易学的に言うならば、乾為天の初九に「潜龍用うる勿れ」とある。潜龍は期待の新人と考えて良い。期待の新人に余り早くから重要な役割を課してはいけない。あせらず、大きく成長するのを待つことも大事である。という意味である。

「安政の大獄」では吉田松陰も斬罪に処せられた。

しかし、ここから一気に革命の火が燃え上がり歴史的変化が始まった。

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