幕末の俊秀
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歴史は時代が創る。そして危機は人物を創る。
幕末という未曾有の時代に直面した若者たち。
彼らは真剣に時代に立ち向かい、命を懸けて時代を切り開こうとした。
彼らの足跡を知り、その思いを学んでみよう。(猶興)
幕末という未曾有の時代に直面した若者たち。
彼らは真剣に時代に立ち向かい、命を懸けて時代を切り開こうとした。
彼らの足跡を知り、その思いを学んでみよう。(猶興)
渡辺崋山とともに「蛮社の獄」の犠牲になった高野長英(1804〜1850)長英は陸奥水沢藩の藩医出身。幼い頃から新しい学問に興味を示したという。 17歳、江戸の蘭医・吉田長淑に師事。才能を認められ「長英」の名前を師から頂く。 その後、長崎のシーボルトの「鳴滝塾」に入門。医学、蘭学を学んで抜きん出た学力から塾頭に 抜擢され「ドクトル」の称号を得た。 しかし、シーボルト事件が起き塾は解散。幸いに熊本に 旅行中であったので難を逃れた。 37歳、江戸に戻り町医者と蘭学塾を開業。ここで「尚歯会」という今でいう異業種交流の勉強会 に参加した。もともと天保の飢饉対策を論じるのが目的で始まったとされるが、場所を提供したのが 田原藩の隠居した殿様・三宅友信であり、この殿様は蘭書の収集が趣味である。 そこに蘭学のオーソリティ・長英が参加したことから、蘭学や西洋事情を勉強する会に発展した。 次第に時代を代表する精鋭達が顔を揃えることになる。 天保8年、「モリソン号事件」が起こる。浦賀に寄港しようとしたアメリカの商船を拒んで追い 返した事件だが、モリソン号には漂流して助けられた日本人漁民7人が乗っていたのだ。 「こんなことでは日本は列強国の植民地になってしまう」長英の憂国の情は日に日に深刻になった。 長英は危険を承知の上で幕府の「外国船打ち払い令」に反対する「戊戌夢物語」を著わす。 大塩平八郎の乱で神経を尖らせていた幕府の目付・鳥居耀蔵はかねてより尚歯会を野蛮な国を慕う ものの集まりと見なし「蛮社」として敵愾心を抱いていた。 また鳥居は尚歯会の江川英龍と江戸湾岸の測量を巡って争った時、圧倒的な測量術の前に敗れ老中・ 水野忠邦に叱責された恨みを募らせていた。 長英たち尚歯会会員6人が逮捕される事件「蛮社の獄」は鳥居の私憤によるものと言える。 崋山を含め5人は亡くなったが、長英は5年後に牢の火災に乗じて脱獄した。その後、各地を転々 とした挙句、薬品で顔を焼き人相を変えて江戸に戻って潜伏していたが、町奉行に踏み込まれ乱闘 の末自ら首を切り壮絶な最期を遂げた。 時代の扉は容易には開かない。夜明け前の一番厳しい時である。「水雷屯(ちゅん)」の卦。」生みの苦しみを表している。この苦しい時代の次に新しい光が射すのである。長英の国許では婚約者もあり、長英の帰国を待ち望んでいた。
長英の憂国の情は家族にとっても大きな犠牲を強いることになった。 シーボルト事件については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/23989200.html |



