さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の俊秀

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歴史は時代が創る。そして危機は人物を創る。
幕末という未曾有の時代に直面した若者たち。
彼らは真剣に時代に立ち向かい、命を懸けて時代を切り開こうとした。
彼らの足跡を知り、その思いを学んでみよう。(猶興)
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教育と種痘普及に寄与した蘭医学者・緒方洪庵(1810〜1863)

明治維新の立役者を多く排出した教育家としては「松下村塾」の吉田松陰の名は誰でも
知っているが、松下村塾に引けをとらぬ程の俊傑を世に送ったのが洪庵の「適塾」である。

洪庵は備中・足守藩士として生を受けたが、早くから学問に頭角を顕した。
16歳で中天遊について蘭学をおさめ、22歳で江戸に出、坪井信道、宇田川玄真に
入門し蘭医学を学んだ。

さらに長崎で蘭学にみがきをかけて、29歳の時の大阪・瓦町で医者を開業した。

医師としての功績は当時おそろしい病気であった天然痘の予防に種痘を普及させたこと
である。非科学的な慣習の時代に蘭方医学はなかなか評価されず、接種者を集めるので
さえ苦労した。

協力者たちが次々脱落するなかを採算のとれないボランティア活動を10年間続け
ようやくその効果が表われ世間にも役所にも認められたのは偉大な業績である。

洪庵の業績でさらに驚くのが、医師として働く傍ら、多くの弟子を育てたことである。

「適塾」と名づけられた塾には医師に限らず、蘭学に興味をもつあらゆる階級から
好学の若者が集まって、猛烈な勉強をして各方面に巣立って行った。

門弟3千人と言われたが、その中には福井藩士として活躍し安政の大獄で若い命を
散らせた橋本佐内、長州藩士として討幕軍の参謀を務めた大村益次郎。

幕臣となり函館で官軍に降伏した後新政府で活躍した大鳥圭介、学者一族として有名な
箕作秋坪、咸臨丸でアメリカを見聞し慶応義塾を創立した福沢諭吉などがいる。

上下、遠近の別なく同志が集まるのは「天火同人」の卦。同人誌はここが語源である。人々を組織してゆくには、けっして旧来の私縁を頼りにしてはならない。あくまでも公的な人間関係を創り出すことが大切である。

緒方洪庵の人間的魅力はどんなところにあったのだろうか。

福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、「塾生だった時、病気したことがある。その時、

忙しい先生が何度も看病してくれたことが忘れられない。」と言っている。

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開国と和魂洋才を唱えた先覚者・佐久間象山(1811〜1864)

人材の発掘とは時代を問わず上に立つものの重要な使命である。

徳川時代の藩主もいかに優秀な逸材を発掘すべく心を砕いた。「寛政の改革」で知られる
松平定信の次男である松代藩主・真田幸貫は開明的で優秀な人物であった。

殿様である幸貫はある日、道端で近所の子供たちに講義している14歳の侍の子を見て、
その天稟を見抜いた。名も無い下級武士の子である佐久間象山である。

幸貫のバックアップもあり象山は江戸に出て、佐藤一斉に学ぶと成績抜群により一斉の言志録
の添削を任された。尚歯会という勉強会にも参加して蘭学や西洋事情のも興味を持った。

その後、韮山の代官・江川英龍の弟子入りし西洋砲術を学び、日本の行く道をはっきりと、
唱えはじめる。西洋式火器の大量生産、海軍の設置を説いた「海防八策」は日本の針路を
はっきり示したものである。

彼の主張は、「東洋の道徳、西洋の芸術」である。
つまり日本は精神的思想は儒教を中心として、西洋の先進国から技術である航海術、砲術、
医術、等を学び、富国強兵の国を作り、アジアのリーダーに成れということである。

象山のもとには、次々と弟子達が押しかけた。その中には、勝海舟と吉田松陰もいる。

海舟の惚れ込みようは並ではなく、「海舟」の名も象山の書斎名から頂戴した。象山の後妻に
自分の妹の順子を嫁がせている。坂本龍馬を塾頭にした海軍操練所も象山の発案である。

松陰は象山の教えを実行に移そうと、アメリカへ密航を企てた。密航は失敗に終わり野山獄
行きとなったが、その思想はその後松下村塾となって、幾多の精鋭を世に送ることになった。

松蔭の密航事件で象山も藩内に蟄居とされて10年。ようやく解禁となると、幕府の要請で
京都へ行くことになった。その開国論を朝廷へ説得するためである。

しかし、開国の江戸に対し、尊王攘夷の渦中である京都は、過激派集団が目を光らせていた。
象山は「人斬り」と呼ばれた肥後の河上彦斎(げんさい)に襲われた。享年54歳。

易に精通していた象山は京都へ出発する前に、自ら筮竹を執り占ったところ、「沢天夬」の上六と出た。「助けを求めても無駄。余命幾ばくもない。凶。」明らかな凶辞。弟子たちは引き止めたが、象山は「気をつけるしかない。」と言って出発したという。死を覚悟の京都入りであった。

象山を襲った河上彦斎は犯行後に斬った象山の偉大さを知った。

無知は罪と後悔した彦斎は2度と刀を抜くことは無かった。

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当代一の教養人、剣豪、領民には「世直し大明神」と言われた江川英龍(1801〜1855)

鎌倉時代以来の家柄にして小さな大名以上の領地を治めた伊豆・韮山の代官である。
当時の最高の教育を受けた。学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩を大窪詩仏、絵を大国士豊、
剣術を岡田十松に習った。

とくに剣術は岡田の「撃剣館」の四天王の一人であり、江戸の三剣客である斎藤弥九郎は兄弟子
であり、生涯の友人である。共に関東一円を荒らす無宿者との闘争に白刃の下に身を潜らせ心胆
を練っている。

代官としても天保の大飢饉では領地をくまなく歩き、領民を助けた。又、種痘の技術をいち早く
取り入れ領民への接種を行った。現在でも地元・韮山では尊敬と愛着を持たれているという。

英龍が大きな関心と危機感を持ったものは日本近海にしばしば現れてきた外国船である。江戸の
渡辺崋山や高野長英らの属する「尚歯会」を知り、蘭学と西洋事情を目の当りにした。

海防の重要性に目を開かせた先覚者である崋山と長英が幕府の目付・鳥居耀蔵により捕縛される
ことになる。「蛮社の獄」である。しかし、仲間の意志を受け継ぐためにも手をこまねいている
時ではなかった。

「誰かが一歩を踏み出さなくてはならない」模索した英龍は長崎にオランダの洋式砲術を学んだ
高島秋帆の存在を知ると長崎へ赴いて弟子入り。

秋帆からは近代砲術を学ぶと共に幕府にも働きかけ江戸で演習を行った。英龍はさらに改良を
加え西洋砲術の普及に努めると、全国の諸藩士300人以上の門下生が集まって来る。

その中には佐久間象山、大島圭介、橋本佐内、桂小五郎、大山巌などがいる。老中・阿部正弘
は英龍を評価し、意見を取り入れ江戸湾岸にお台場を築いた。韮山には反射炉も築き銃砲製作も
行った。(現在も反射炉跡は残っている)   

文人であり科学者であり民生家として英龍が後世にまいた種は日本の近代化に偉大な一歩を踏み
出したがペリー艦隊が来航した2年後に過労のため世を去った。55歳の生涯である。

一歩を踏み出す決心をする。これほど勇気のいることはない。「天沢履(り)」の卦。虎の尾を踏むような危険の中で一歩を踏み出すことは猪突猛進ではいけない。慎重と柔順さ先人の経験と教訓を取り入れた上で勇気を奮って進んでいくこと。必ず目的を達することが出来るであろう。

鎖国体制からの脱皮は先覚者にとっては命がけのことであった。

人脈も政治力も経済力もあり、頭脳と度胸もありの英龍にして始めて一歩を踏み出せたのだ。

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渡辺崋山とともに「蛮社の獄」の犠牲になった高野長英(1804〜1850)

長英は陸奥水沢藩の藩医出身。幼い頃から新しい学問に興味を示したという。
17歳、江戸の蘭医・吉田長淑に師事。才能を認められ「長英」の名前を師から頂く。

その後、長崎のシーボルトの「鳴滝塾」に入門。医学、蘭学を学んで抜きん出た学力から塾頭に
抜擢され「ドクトル」の称号を得た。 しかし、シーボルト事件が起き塾は解散。幸いに熊本に
旅行中であったので難を逃れた。

37歳、江戸に戻り町医者と蘭学塾を開業。ここで「尚歯会」という今でいう異業種交流の勉強会
に参加した。もともと天保の飢饉対策を論じるのが目的で始まったとされるが、場所を提供したのが
田原藩の隠居した殿様・三宅友信であり、この殿様は蘭書の収集が趣味である。

そこに蘭学のオーソリティ・長英が参加したことから、蘭学や西洋事情を勉強する会に発展した。
次第に時代を代表する精鋭達が顔を揃えることになる。

天保8年、「モリソン号事件」が起こる。浦賀に寄港しようとしたアメリカの商船を拒んで追い
返した事件だが、モリソン号には漂流して助けられた日本人漁民7人が乗っていたのだ。

「こんなことでは日本は列強国の植民地になってしまう」長英の憂国の情は日に日に深刻になった。
長英は危険を承知の上で幕府の「外国船打ち払い令」に反対する「戊戌夢物語」を著わす。

大塩平八郎の乱で神経を尖らせていた幕府の目付・鳥居耀蔵はかねてより尚歯会を野蛮な国を慕う
ものの集まりと見なし「蛮社」として敵愾心を抱いていた。

また鳥居は尚歯会の江川英龍と江戸湾岸の測量を巡って争った時、圧倒的な測量術の前に敗れ老中・
水野忠邦に叱責された恨みを募らせていた。

長英たち尚歯会会員6人が逮捕される事件「蛮社の獄」は鳥居の私憤によるものと言える。

崋山を含め5人は亡くなったが、長英は5年後に牢の火災に乗じて脱獄した。その後、各地を転々
とした挙句、薬品で顔を焼き人相を変えて江戸に戻って潜伏していたが、町奉行に踏み込まれ乱闘
の末自ら首を切り壮絶な最期を遂げた。

時代の扉は容易には開かない。夜明け前の一番厳しい時である。「水雷屯(ちゅん)」の卦。」生みの苦しみを表している。この苦しい時代の次に新しい光が射すのである。

長英の国許では婚約者もあり、長英の帰国を待ち望んでいた。

長英の憂国の情は家族にとっても大きな犠牲を強いることになった。

シーボルト事件については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/23989200.html

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幕末の外患を露呈した事件「蛮社の獄」で犠牲になった渡辺崋山(1793〜1841)


崋山は田原藩という小藩の下役人の子として生まれたが、幼少から聡明で画才があった。
父親の留守中に来た客の似顔絵を描くと誰だか解ったという。

貧困ではあったが、父は崋山の才能を信じて崋山を画と儒学の先生につけた。期待に応えて崋山は
よく学び、16歳で田原藩の近習に採用され、絵の腕も20歳では画料を貰える様になる。

画家としては、国宝の「鷹見泉石像」を残し、弟子にも椿椿山(つばきちんざん)等が育った。

芸術に才の有る者はとかく政治経済には疎いものだが、崋山は藩士としても有能で家老にまで出世
している。天保7、8年の大飢饉でも一人の餓死者を出さず、幕府から表彰もされた。

江戸巣鴨の下屋敷で隠居した殿様の三宅友信の御用係りしていた時に、友信が収集した蘭学の書が
崋山の人生を決定づける。

この下屋敷には蘭書を求めて、島津斉彬(薩摩藩主)、江川英龍(海防学者)、高野長英(町医)、
佐久間象山(松代藩士)、藤田東湖(水戸藩士)など、当時の最先端を行く識者達が集まって来て
は、連日世界情勢や日本の将来を語り合っていた。

この「尚歯会」という会合で崋山は始めは世話係りであったが、たちまち深入りし、やがて
高野長英、小関三英(医師)らと「鴃舌或問」(げきぜつわくもん)という外国の情勢や風俗
を書いた本を作った。

その後、高野長英が「戊戌夢物語」そして崋山が「慎機論」を書き、アジアを侵略しようとする
西洋諸国と憂国の思いを世間に発表したのである。

しかし、かねてより蘭学に嫌悪感を抱いていた幕府の目付・鳥居耀蔵(ようぞう)は、平和を乱す
者として尚歯会の6名を逮捕した。小関三英は自殺。崋山と高野長英は投獄された。これが蛮社の
獄である。

重罪が予想されていたが、嘗ての儒学の師である松崎慊堂(こうどう)が赦免建白書を提出し、
ようやく「在所において永蟄居」という判決となった。しかし、1年8ヶ月後に崋山は迷惑が藩主
に及ぶのを懼れて自刃して果てた。
 

新しい時代を見つめた憂国の士を弾圧しようとする体制こそ末期的体制というものだろう。このような行き詰った状態にあることを易学的には「水山蹇」(すいざんけん)の卦。行く先に険阻艱難が立ちふさがり進むことが困難なる象と見る。


大塩平八郎の乱といい、蛮社の獄といい、日本のため庶民のために、
 
純粋だった人ほど犯罪者にされたところに幕末の悲劇は在ったのです。

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