さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の俊秀

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歴史は時代が創る。そして危機は人物を創る。
幕末という未曾有の時代に直面した若者たち。
彼らは真剣に時代に立ち向かい、命を懸けて時代を切り開こうとした。
彼らの足跡を知り、その思いを学んでみよう。(猶興)
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幕末はここからとも言われる「乱」を起した大塩平八郎(1793〜1837)

文化、文政の時代は比較的平穏で、町人は町人らしく百姓は百姓らしく生きることが
出来たが、天保年間(1830〜43)に入ると暗雲が立ち込める。

飢饉に対する幕府の失政が原因で、各地に起った百姓一揆は353件と歴史上最悪の事態を招いた。
その代表的なものが大塩平八郎の乱である。

平八郎は大阪奉行所与力を務める役人であったが、24歳、吟味役(裁判官)の時、奉行所の中に
犯罪組織のボスがいることに驚く。しかも幕府の高級官僚が加わっていることを知る。

不正を許せぬ平八郎の身に「よけいなことに口を出すな」「大人しくしていろ」様々な弾圧が迫る。
身の危険を覚悟の上で巨悪と対決する決心をした。

平八郎の仕事振りは常に誠実で庶民を思いやったので名与力と声望を集めていた。しかし、37歳
の時、一大スキャンダルは揉み消された末、平八郎を支持した上司は辞任させられる。平八郎も
連座するかたちで13歳の与力見習いから25年勤めて役所を去ることにする。

平八郎は32歳で陽明学を講ずる塾「洗心洞」を開いていた。門弟は役人、医師、富農達である。
規律は厳しく朝の2時に講義が始まり真冬でも戸は開け放つ、それでも門弟は増える一方だった。
陽明学とは孔子の教えを理論だけではなく、正義を実践してこそ真の学問というのである。

3年凶作が続いた後に1836年(天保7年)全国的な大凶作による天保の大飢饉。
外には餓死する者がいる時に、上部の役人共が商人と結託して、米の大量買占めをしているのを
見て、平八郎は役所に進言した。「辞めた者が意見を言うとは無礼だ」と愚弄される始末である。
腐ってはいるが役人の組織は絶対的で何とも打つ手がない。

三井や鴻池らの豪商にもかけあったが無視された。日に日に餓死者が増えるのに役所は手を打と
うとしない。「陽明学は知行合一、このまま何もしなくて良いはずはない。」

天保8年、ついに腐敗した役人と悪徳商人に天誅を下し、貧民を救済するための義挙を決意。
決起の連判状には門弟たち50人が名を連ねた。平八郎は学者には命の蔵書5万冊を売り払い、
武器を買い、庶民を率いて立ち上がったのである。豪商の米蔵を襲い、町に火を放った。

結果は、実ることはなく鎮圧され平八郎は自害することになったが、民衆の怒りは幕府の屋台骨
を揺るがした。その後、各地で一揆が続発したからだ。

この時代のように上にある者が下を顧みない状況は易学でいう「天地否」の卦。 天が上にあり、地が下にあるので一見自然の様であるが、易学では上(為政者)が上を向き、下(民衆)が下を向き、交わることの無い状態を意味する。

平八郎の決起は空しく散ったが、平八郎の熱い思いは現代にも残る。

せめて、平八郎の墓前に花を手向けて、手を合わせてやりたくなる。

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新生日本をつくった指導者に多大な影響を与えた儒学者・佐藤一斎(1772〜1859)

幕末維新に活躍した人物を辿っていくと、現代の政治家とは比較にならない強い精神力、決断力、
器量の大きさ、大儀のためには命も投げ出す純真さを感じざるを得ない。

他のアジアの国々が軒並みに欧米列強の支配下になった19世紀に、何故日本だけが維新を成し
遂げ堂々列強にも肩を並べる程の強国に成り得たのだろうか。

どうして幕末の日本には多くの人物、俊秀が排出したのであろうか。

これは徳川時代の教育体制の充実を抜きにしては考えられないと思う。 日本の隅々に至るまで
各藩には藩校が整い、寺子屋という制度もよく機能していた。

又、文武両道として学問と同時に剣術の道場が各地に発達していたことも見逃せない。

幕府は今の東京大学のような昌平坂学問所をつくり、全国から俊秀を集めて教育した。幕府が
国学としたのは「朱子学」である。(孔子以来の儒教を宋の時代に朱子が集大成したものだ。)

この昌平坂にて永く教授を務め、ペリー来航後「日米和親条約」の外交文書作成に尽力したのが、
佐藤一斎である。門下生は6千人を超えると言われ、その中には佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山、
横井小南を始め、幕末から明治にかけて活躍した多くの指導者がいる。

今日にも評価が高いのは「言志録」だ。一斎が42歳から82歳まで思いつくまま書き留めた箴言
・所信であり四部作になっているので「言志四録」とよばれる。

西郷隆盛が「言志四録」より百一か条を抄出して座右の誡としていたことは有名である。
易学の解説の代わりに「言志四録」より代表的な箴言を紹介する。

少く(若く)して学べば すなわち 壮にして為すこと有り
壮にして学べば すなわち 老いて衰えず
老いて学べば すなわち 死して朽ちず

春風をもって 人に接し
秋霜をもって 自らつつしむべし

一燈をさげて 暗夜を行く
暗夜を憂うることなかれ
只、一燈を頼め

太上は天を師とし
其の次は人を師とし
其の次は経を師とす
最近、一斎ファンを喜ばしたのは、小泉元首相が度々公の席で一斎の話をしたので、

「言志録」や「重臣心得箇条」など一斎の本が売れているということだ。

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