さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

幕末の外国人

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幕末から明治維新への大変革は外圧なくしては有り得ませんでした。
はるばる日本まで来た外国人たち、彼らはどんな目的があり、何をしていったのでしょう。
そして彼らはどんな人物だったのでしょう。日本の何を見て、何に驚き、何を学んで、何を残していったのでしょう。
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日本を愛し、日本に散った青年通訳・ヘンリー・ヒュースケン(1832〜1860)

ヒュースケンはオランダ・アムテルダムで商人の子として生まれた。少年時代に父親が
亡くなり母とともにニューヨークに渡ってきた。

なかなか幸運に恵まれずどん底生活が続いたが、日本に赴任するハリスがオランダ語の出来る
通訳を募集している情報を得て、すぐさま応募して採用された。25歳の時である。

ハリスは日本からは全く歓迎されず、日本側から与えられた宿舎は伊豆・下田の玉泉寺である。
ハリスはこの時、53歳。親子ほどの差があるが、ヒュースケンはその穏健な人柄と忍耐強い
信念に心から尊敬の念を抱いた。

一年以上、下田に足止めを食らうが、ニューヨーク時代の下積みを思えば我慢の出来ないこと
はない。陽気な性格は誰からも愛された。毎日、日本語の勉強に明け暮れる毎日であった。

ハリスの粘り強い要請で翌年江戸にむかうが、道中の日記によると、「沿道の人々、子供たち、
反感や怒り、冷淡さをあらわす者はいない。庶民は外国人を喜んで向かへ容れようとしている」
「交易に道を閉ざしている唯一の理由は保守派の大名たちの頑迷さによるものと思われる。」

こんなことも書いている。「私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩は本当に進歩
なのか。この文明は本当にお前たちのための文明なのか。」「子供たちの愉しい笑い声を聞き
どこにも悲惨なものを見出すことの出来ない私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや
終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように
思われてならないのである。」なんというするどい感性であることか。

ハリスの不屈の努力が実り、安政5年6月、日米修好条約の調印に成功した。アメリカに続き
蘭、露、英が条約に調印することが出来た。ハリスは他の国にも条約の協力を惜しまず、通訳
のヒュースケンは労をいとわず東奔西走した。

万延元年(1860)12月、プロシャの使節宿舎からの帰宅途中、騎馬のヒュースケンは攘夷
派の集団に襲撃された。両脇腹を刺されたまま疾走したものの未明に絶命した。享年28歳。

ヒュースケンにはつるという女性との間に愛児がいた。その消息は分からない。(上の写真)
翌年3月には井伊大老が桜田門外で暗殺され、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる時代となる。

陽気なヒュースケンは誰からも愛された。「兌為沢」の卦。兌(だ)はりっしん偏をつけると悦であり、悦ぶを意味する。「兌は亨る。貞しきに利し」天地が悦んでいるときは、万物が生長発展する。人の心が悦んでいるときは、すべて事がうまく伸び栄えるのである。

ヒュースケンを評してハリスは「食べること、飲むこと、寝ることは忘れないが、

その他のことはあまり気にしない」と言っている。

「豪放磊落」ヒュースケンの持ち味だったようだ。

(外国人5)ハリス

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孤独と胃病に苦しんだアメリカ領事・タウンゼント・ハリス(1804〜1878)

ペリーが艦隊を率いて日米和親条約を結び、相次いで露、英、仏、蘭が和親条約を結んだもの
のこれでは本当の開国とは言えない。互いに通商条約を結ばないと交易が出来ないからだ。

和親条約から3年後の安政3年、通訳のヒュースケンを伴い軍艦・サン・ジャシント号にて、
その通商条約締結の重責を荷って日本に派遣されたのが、52歳のハリスだったのである。

ハリスは軍人でも政治家でもなかった。ハリスの家族は陶磁器を扱う商家であり、学問好きの
ハリスは家業のかたわら語学の勉強をした。
大学に行けなかったハリスはそのコンプレックスから教育に熱心になり、努力して学費無料の
フリー・アカデミーの創立に貢献した。ニューヨーク市立大学の前身である。

40代半ばに、フィリッピン、中国、インドなどを訪れた経験があったので、ペリーの日本
開国には強い興味を持った。強く志願すると東洋事情に詳しいことが認められ日本総領事に
任命された。

しかし、やっと日本に到着したもののハリスは幕府の上陸拒否に遭遇しなければならなかった。
ハリスは粘り強く和親条約の内容を説明してようやく下田・柿崎村の玉泉寺を宿舎にすること
が出来た。

その後も幕府は直接交渉をさけ、下田奉行に対応を任せた。ハリスを追い返したかったので
ある。しかしハリスは負けなかった。諄々と世界情勢を説き、日本が列強の前にいかに危険
にさらされているかを誠意を込めて語った。

江戸に上る許可が出るまで1年間かかったが、その間は本国からの連絡もなく、持病である
胃病が悪化して吐血を繰り返す毎日が続いた。 時折、外国船が沖を通るがその度に「もし
や他国に先を越させやしないか」と想像すると、孤独と焦燥感はいっそう募り身体の衰弱に
も拍車をかけた。ハリスにとっては針のムシロに座るような最悪の日々であった。

安政4年12月、やっと将軍・家定に謁見するが、通商に関しては依然として先に進まない。
安政5年7月に、アメリカ汽船・ミシシピ号がインドと清国を制圧した英、仏が次に日本を
ターゲットにするだろうというニュースをもたらした。この時を逃したら永久にチャンスは
ないと確信したハリスは幕府を一挙に追いたて、ついに調印にこぎつけた。

その後、麻布の公使館にて初代公使として4年とどまり、病気を理由に帰国を希望した時は
幕閣たちは日本にとどまるよう、アメリカ政府に懇願したという。人徳者であった。

ハリスは常に「謙譲」と「思いやり」を忘れなかった。「地山謙」の卦。「謙」は尊きものが行えばいよいよ光り輝くものである。「謙は亨る。君子、終有り。」謙の心あるもの、いかなる場合でも大いに伸び盛んになるべきである。君子は必ず終わりを全うすることが出来る。

ハリスの後ろ盾は強国・アメリカであったがハリスは一度も高圧的な言動を使うことは無かったという。

帰国後も自分の功績を世間に自慢することもなく、生涯独身を貫き75歳でひっそりと亡くなった。

(外国人4)グラバー

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政商として倒幕、明治維新に貢献したトーマス・グラバー(1838〜1911)

グラバーはイギリス・北スコットランド生まれ、父親は海軍軍人、退官後は造船業を経営し
ていた。東洋に憧れ、上海の商社で貿易を学び、21歳で開国まもない長崎にやって来る。

長崎・大浦に「グラバー商会」をかまえ、日本茶、木綿、毛織物の貿易からスタートする。
「生麦事件」をきっかけに、薩摩から大砲百門の大注文が舞い込んだ。薩英戦争のためだが、
これには本国からの許可がおりなかった。

しかし、これ以降グラバーは武器商人として、動乱の日本を動かす陰のフィクサー的役割を
担うのである。

当時、幕府に加担していたフランスに対しイギリスは反幕運動の二大勢力である薩摩と長州
に加担し両国は日本を間にしのぎをけずっていた。

グラバーは自分と同年代の薩摩、長州の若者たちとは親交を結び、長州の井上馨、伊藤博文
たち、薩摩の五代才助、寺島宗則たちをイギリスに送り見聞させる。

日本最初の株式会社「亀山社中」を設立した坂本龍馬とは特に気が合い、薩摩と長州を同盟
させることには大賛成で、その手段として長州が喉から手が出るほど欲しかった武器の購入
を後払いで実行する。

グラバーの支持を得て薩長同盟が成立した瞬間に明治維新が成立したとも言える。

明治に入り、長崎港外の高島炭鉱、のちの三菱長崎造船所の建設、大阪造幣局設立、キリン
ビールの創業にも力を注ぎ、黎明期の日本近代文化の基礎つくりに大きく貢献した。

しかし、旧薩摩藩、長州藩からの債権を回収できず、グラバー商会は破産してしまうが、
岩崎弥太郎の計らいで三菱の顧問となり、生活は破産せずに済んだ。
明治政府から外国人としては異例の勲二等の表彰を受けている。

日本が好きになったグラバーは日本のために生涯をささげようとした。これは陰徳に徹した生涯である。陰徳は「坤為地」の卦。樹木に例えれば根の働き。あくまで主を立て、裏方に徹する、「乾」を助けて無限に物を包容して、生成化育を遂げていく道である。

グラバーは政府からの派遣ではなく、彼自身の望みで日本にやってきた。

そして望み通り73歳で日本の土になった。忘れてはいけない人である。

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海洋技術を指導したオランダ海軍軍人・カッテンディーケ(1816〜1866)

ペリーにより開国の時代を迎えた幕府は唯一関係の深いオランダに頼ることになる。老中
阿部正広は早速、日蘭和親条約を結ぶとともに長崎の商館長・クルチウスに相談して海軍
創建のためオランダから専門家を招き、長崎に海軍伝習所を作ることにした。

伝習生は幕臣のほか薩摩、長州、肥前、肥後など各藩からも参加した。勝海舟や榎本武揚
もいた。授業は航法、造船、砲術、船具、測量、蒸気機関、銃砲訓練などの学科と蒸気船
を駆使して操作、運転の実地訓練が行われた。

カッテンディーケが教官として蒸気船ヤーバン号(のちの咸臨丸)に乗って来日したのは
安政4年(1857)初代の教官ライケンの後任としてである。

カッテンディーケは手を焼いた。先ず、伝習生は14,5歳の若者が良いと言った筈なの
に門閥を基準に選ばれた年長者が多かったこと、次に日本人が何でもないことに数ヶ月も
審議に費やすこと。自分の藩ばかりを心配して、一丸となって国を守ろうという意識が低
いことに愕然とした。

「もしも外国の海軍艦長が1名の士官と50名の陸戦隊を率いて上陸すれば、恐らく一発
の砲弾も放つことなくして、海岸に面した町々は苦労なしに占領できるであろう」とおそ
るべき観察をしている。

実施訓練で薩摩を訪れた時、藩主・島津斉彬に会っている。斉彬の開明的考え方と鹿児島
の繁栄ぶりには驚いた。また、鹿児島には砲台、製鉄所、蒸気船が既にそろっていた。

約2ヵ月後に再訪した時、斉彬に提言したばかりの水上保塁がすでに着工されていたこと
に感嘆した。反応の遅さに辟易していた幕府の命運が尽きようとしていること、新しい勢
力が生まれつつあることを敏感に感じとった。

カッテンディーケはやる気の有る者にはトコトン教えたが、やる気のない者は無私した。
2年半の滞在ではあったが、日本海軍の誕生の礎を築いた恩人と言える。

先進国より見れば、日本は未開発国であった。蒙を開くのは「山水蒙」の卦。この中に「我より童蒙に求むるにあらず、童蒙より我に求むとは、志応ずるなり」とある。やる気のある者しか相手にしなかったカッテンディーケは名教官であった。

薩摩ではカッテンディーケは招かれた夕食後に、ヴァイオリンを弾いた。

感動して固い握手をかわした藩主・島津斉彬は二ヶ月後には急死する。

安政の大獄が始まり、いよいよ激動の時代に突入する。

(外国人2)ペリー

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鎖国日本を開国させたアメリカ提督・マシュー・カルブレイス・ぺりー。

幕末にペリーの黒船が最初に来航したと、思われる人も多いが、実はその50年も前に
ロシアは開国を求めている。イギリスもフランスも作戦を練っていた。

かねてより日本と親交の深いオランダ政府は、日本がみすみす列強の餌食になるのを、
放っておく訳にはいかない。1844年には国王ウィルヘルム二世の国書を持って幕府
に開国をすすめるとともに、海軍の新設を促している。

しかし、幕府は一向に危機感がなく、せっかくのオランダの好意をとり上げない。

シーボルトの著書・「日本」により、鎖国はしているが高い文化、武士を中心に秩序正
しい政治体制、礼儀正しく教養ある国民、豊富に採掘される金銀、美しい自然、西洋人
にとって日本は東洋の神秘の国だ。

東インド派遣艦隊の司令官に任じられたぺりーにとっては、夢にまで見た日本を開国さ
せることは待ちに待った一世一代の大仕事であった。

ペリーは事前に日本のことを調査し尽くす。イギリスが清国を攻略したようにはいかな
いだろう。ただの威嚇だけでは逆効果だろう。そうかと言ってオランダ政府のやり方で
はダメだ。考えに考え抜いた。

そこでペリーがとった方法はヒット&バック。一度大きなショックを与え、直ぐに立ち
退く。考える時間を与えて再度説得に来るという方法だった。

1853年(嘉永6年)6月3日、ペリーは浦賀沖に四隻の艦隊で投錨する。三百名の
軍楽隊を上陸させて、アメリカ大統領の国書の授与式を仰々しく執り行う。その内容は
艦隊の航海中の緊急避難と燃料補給をもとめたものに過ぎない。

翌年春にふたたび来訪すると宣告すると、星条旗を翻して太平洋のかなたに去った。

効果はペリーの予想を超えるほどの大成功であった。そして翌年、3月3日、日米和親
条約が締結される。長い間、眠りについていた日本はここに開国という新たな時代を迎
える。

ヴェートーベンの交響曲第5番の始まりは運命が扉を叩く音だという。今まさに、生命が誕生しようとする。「水雷屯(ちゅん)」の卦。雷雨のエネルギーが天地の間にみち、やがて地上の万物を潤すのである。若々しい生命力で苦難に耐えてこそ、新しい発展があるのだ。

日本ではペリーと言えばマシュー、黒船で有名であるが、アメリカではペリーと言えば、
兄のオリヴァー・H・ぺりーのことである。

オリヴァーはエリー湖でイギリス海軍を破った英雄で、今もペンシルバニア州に
ペリー郡という地名がついている程である。
詳しく知りたい方はhttp://blogs.yahoo.co.jp/marlboro_tiger/9453273.html

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