さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

明治からの日本

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私はこれまで歴史と言えば、幕末にしか興味がありませんでした。
しかし最近になって、明治、大正、昭和の近現代史に興味が沸いてきました。
自分の不勉強もさることながら、戦後の教育にはこの肝腎な明治時代以後の
歴史教育が欠如したままではないでしょうか。
現在の政治も経済も国際問題も、この近代の歴史を知らずして語れるものは何も無いでしょう。
今更迂遠な話ではありますが、明治以後の人物と向き合いながら、
現在の日本のあるべき姿を考えて見たいと考えた次第です。
もし良かったら一緒に考えて頂けましたら幸いです。(猶興)
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山川捨松。1860〜1919
 
捨松は1860年(安政7年)会津の家老・山川家に生まれた。「さき」が本名である。
8歳のときに運命は変わる。会津戦争である。官軍に抵抗した会津藩は完膚無きまでに砲弾を打ち込まれ壊滅した。
 
1871年(明治4年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、アメリカ人女性が男性と肩を並べて活躍する姿に感銘を受け日本女性を留学させたいと強く希望した。
 
その計画がやがて政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなり、岩倉使節団に随行して渡米することが決った。うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどは、とても考えられない時代だったのである。
 
山川家では兄・健二郎(後の帝大総長)と共に満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。さきを含めて女子はたったの五人。全員が旧幕臣や賊軍の娘で、全員が合格となった。母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つのみ」という思いから「捨松」と改名させた。
 
五人の女子留学生のうち年長の二人は帰国してしまったが、年少の捨松、永井しげ、津田うめの三人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この三人は後々までも親友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。
 
捨松はコネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、ベーコン家の娘同様に過ごし、地元の高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進んだ
 
捨松の成績はいたって優秀だった。卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行ったが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だった。アメリカの大学を卒業した日本人初の女性は、この捨松である。
 
卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に一年近く通い、上級看護婦の免許を取得した。捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていたのである。
 
捨松が再び日本の地を踏んだのは1882年(明治15年)暮れ、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと意気揚々と帰国した捨松だった。
 
しかし、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。
日本には捨松の望む職はなく、23歳の婚期をのがした外国娘には縁談もなかった。

***  *** 上卦は地。
***  ***
***  ***
***  *** 下卦は沢。
********
********
 
「地沢臨」の卦。水辺より陸を臨む象である。「咸臨」という言葉が好い。感激をもってことに臨むことである。勝海舟が日本人として始めてアメリカまで航海した艦船が「咸臨丸」である。この卦から名づけられた。

娘を送り出した山川家の家族の心情をつい考えてしまう。 時代を切り開いた人たちの勇気があればこそ今日があるのだ。

自由民権運動。

              
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板垣退助。1837〜1919
 
板垣退助の生まれは土佐藩士としては中の上クラス。後藤象二郎とは幼馴染であり、「やす」、「いのす」と呼び合う仲であり、ともに出世して新政府でも共に参議となり、征韓論論争を共に戦い、共に敗れて共に下野した。
 
征韓論の中心人物・西郷隆盛とも肝胆相照らす関係でもあり、明治6年共に下野する時に退助は言った。「これからの政治は民主主義です。武力による革命は国民が支持しません。共に自由民権運動を興しませんか」
 
西郷は答えた。「貴方の考えには賛成だ。しかし、行動は別にしよう」西郷は退助の進言を断わった。武力以外に革命など有り得ないと信じていた。
 
退助は戊辰戦争では難攻不落の会津城を陥落させた軍事のスペシャリストではあったが今後の政治は武力ではなく言論であると信じた。
 
土佐に帰ると翌年には民選議院の設立運動を始め「立志社」を設立した。後の「自由党」の前身である。全国遊説をし、次第に同志を結集していった。
 
しかし、同志であり共に下野した佐賀の江藤新平は三千の旧士族に担がれ新政府に反旗を翻した。「佐賀の乱」である。決起軍は忽ち鎮圧され新平は薩摩の西郷、次に土佐の退助に助けを求めたが、無駄だった。捕えられ、斬首された。
 
そして西郷も明治10年、ついに武力決起、「西南戦争」である。退助は西郷を非難した。「わずかに自己の私憤を発漏せんとするなり。為に人を損じ財を費やし、しかして、逆賊の臭名を万戴に流すとは如何なる心ぞや。最も大丈夫の執らざる所なり。」
 
「板垣死すとも自由は死なず」の名文句は有名である。明治15年、岐阜にて退助が遊説中凶漢に襲われた時、ある自由党幹部がPRのために報道したのが真相のようだ。

本当は「痛くてたまらねぇ、早く医者を呼んでくれぇ」と叫んだそうだ。この時、退助が非業の死を遂げていれば竜馬に並ぶ英雄になっていたかも知れない。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 地下、地方を表す。
***  ***
***  *** 下卦は雷。
***  *** 活動、志を表す。
********
 
「地雷復」の卦。復活である。 捲土重来は復活劇である。雷・地中にあり、まだ陽気大いに発するに至らず。故に万事慎重を要す。あせっては事を仕損ずる。

一度政治生命を絶たれた者が復活することは容易ではない。
しかし、西郷が10歳年下の退助の進言を聞いて呉れていたら。代案を持った退助の西郷批判には説得力がある。
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明治10年、西郷軍は決起し、各地から集まった援軍合わせて4万の兵が鹿児島を出発。しかし熊本城の攻略に手こずり、苦戦、九州各地を転戦した上、鹿児島・城山へもどり、「晋どん、もうここらで良か」と言って別府晋介に首を打たせた。
 
これが西南戦争であったが、この西郷の決起については、その目的、計画、戦略について多くの謎がある。歴史家によって様々な意見があるので私なりの私見を述べさせて戴く。
 
西郷は明治政府の方針について最も不満であったのことは「脱亜入欧」だろう。欧米先進国を機械文明の先進国とは見ても道義的文明国とは見ていなかった。

「彼らは道ならずして弱国を奪うではないか。真の文明国とは外には道義をもって立ち、内には道義の行われる国をいうのだ」と言っている。
 
徳川300年の儒教を中心とした精神文化は維新後も守るべき貴重な教育の柱である。日本の文化を否定し全てを外国に習おうとする政府の方針は許せない。
 
防衛の基本はロシアと欧米の進出を防ぐことにあり、その意味でも清国、朝鮮国との亜細亜三国同盟が必要不可欠である。
 
西郷は征韓論に破れ、野に下ったというが、「三国同盟は必要である」の思いは諦めてはいなかったと思う。生涯最後の仕事として自ら中央へ進出して政権を取り戻して三国同盟を成立させ、道義国家実現を目指そうと考えたのではないだろうか。
 
中央まで行けなかった原因は参謀がいなかったことに尽きる。西郷は常に親分であった。親分には良き参謀が必要である。それまでの西郷には薩長同盟にしても、江戸城無血開城にしても常にお膳立てをしてくれた大久保という名参謀がいた。
 
ところが今回はその大久保が敵である。戦略を知らない桐野利秋や篠原国幹らの武骨者しかいないでは到底勝ち目は無かった。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 中央に比べると地方を表す。
***  ***
***  *** 下卦は水。
******** 困難、悩みを表す。
***  *** 
 
 「地水師」の卦。軍隊の象でもある。野に下った西郷のもとには若者が大勢集まって集団を形成した。そんな状態を表す。「師は貞。大人なれば吉。咎なし。」戦争には正義の戦いであるべきことと、大将に適任者を得べきことを説いている。
 
鹿児島出身で西郷贔屓の海音寺潮五郎によると「西郷は最も異色の英雄であった。英雄とは功業の人、彼は英雄でありながら功名、富貴を見ること浮雲の如し、その志向するところは尭、舜、文王、周公、孔子等の東洋的聖人であった。江戸時代300年の儒教教育がこんな英雄を生んだ。日本では唯一人の人物である。」
西郷の本質は「敬天愛人」。やはり、「西洋」よりは「東洋」であろう。
                 
 
西洋諸国での見聞からこれからの日本の青写真を胸に岩倉一行より一足早く、明治6年5月に帰朝した大久保に待ったをかける大きな壁が立ち塞がっていた。
 
西郷らの留守舞台政府により朝鮮への特使派遣が決定していたのだ。閣議では西郷の特使派遣は決まっていたが、議長の太政大臣・三条実美は重大事なので、岩倉が帰ってから裁決しようと、岩倉の帰朝を待っていた。
 
大久保は驚き、時間稼ぎの為、欧米出張期間中として身を隠すことにした。岩倉たちが帰るまで箱根、富士、近江、大和、紀伊を旅行し秘策を練った。
 
ここまで進んだ政府案に異を唱えることは竹馬の友・西郷を敵に回すことになる。西郷を敵に回すことは薩摩をはじめ旧士族全体を敵に回すことである。すなわち故郷・薩摩を捨てると共に、西郷一派に殺されることを意味する。
 
9月、帰朝した岩倉も驚き、大久保を呼んで対策を練る。大久保は公家出身の岩倉、三条の二人に「絶対に変節しない」との一書を書かせて参議を引き受け閣議に望む。
 
(大久保は死を覚悟した。家族にもその決意をかたり、米国留学中の次男・伸顕にも遺書めいた手紙を送っている。)
10月12日、特使派遣の具体案を練るための閣議が開かれると、大久保は満身に闘志をみなぎらせて出席した。岩倉が「内治先決、特使反対」を主張すると、西郷は「既に閣議にて決定していること」と抗弁した。
 
そこで立ち上がった大久保は「国家の基礎も固まっていないとき、外戦など起せば不慮の事態が起こるであろう。今でさえ赤字財政なのに、莫大な戦費を費やせば国民は塗炭の苦に陥り、ようやく進みつつある富国強兵の事業も半途にして廃絶するであろう。さらにまた、輸出産業の沈滞が外債を増し、逆に軍需品の輸入増で財政はたちまち崩壊する。こうなれば、大債権国であるイギリスの内政干渉がはじまり漁夫の利を求めるロシアがどう動くか解らない。まさに、民族独立の危機ではないか」火を吹くような演説だった。
 
西郷は一歩も退かない。「何を言う。俺は戦争をするとは言っとらんぞ。一兵も連れずに特使にいくのだぞ」
会議は連日つづいた。議長の三条は疲労困憊し、精神錯乱して倒れた。明治天皇は岩倉に太政大臣代理を命じると岩倉は使節団反対を奏上し、天皇はこれを裁下した。
 
大久保の工作が成功した。西郷、板垣退助以下5人の参議は辞表を提出、桐野利秋以下多数の西郷系近衛将校が後を追って辞職した。

******** 上卦は天。
******** 常に上にあるものを表す。 
********
***  *** 下卦は水。
******** 問題、悩みを表す。
***  ***
 
 「天水訟」の卦。天は上に在り、水は下へ落ちる。人と人、国と国が争う象である。すべての争いは未だ起こらない前に争いの起こるべき原因がある。天下を治むるものは未だ乱れざるに治むとする。

司馬遼太郎は次のように語っている。
「征韓・内治両派の巨魁はそれぞれの意見を通すために死を賭していた。しかし、私利や私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほどに双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、彼らは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。」
 
 
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西郷好きで、大久保嫌いの福沢諭吉の「丁丑(ていちゅう)論」によると、「西郷が留守を預かった2年間は国民は悦服して不平がましいこともなく、知識人らは言論の自由を享受して最も楽しい期間であった。」とある。
 
そこに起こったのが、朝鮮問題である。もともと朝鮮と日本は鎖国の時代も親交があった。明治政府になり、「日本は幕府を廃して天皇親政に切り替えたが従来どうりお付き合い願いたい。」と何度も国書を送った。
 
朝鮮はこれを5年に渡り拒否した。理由は日本が欧米と国交を結んだからである。国王・高宗の実父・大院君が徹底した攘夷主義者で大の西洋嫌いであった。「日本人は西洋人と交わって、もはや禽獣と変わらない。」という訳だ。
 
征韓論は明治3年頃からあった。最も熱心だったのは木戸孝允である。明治6年6月の閣議で板倉退助が「もはや朝鮮国の暴慢無礼は許し難い。この上は一戦交えることも考えるべきだ。」と言い出した。
 
西郷は「先に軍事行動に出るのは良くない。まず、特命大使を送り意を尽くして話し合うべきだ。」そして「自分がその大使になる。」と言った。
 
西郷には遠大な防衛構想があったのだ。西郷は「最も警戒すべきはロシアであり、欧米諸国である。朝鮮とは仲良くせねばならない。そして清国とも手を結び、三国同盟を築いて、ロシアの南下に備えねばならない。」というものだ。
 
万一、同盟がならず、戦争になれば、維新後の不満を抱く士族に誇りを与え、腐敗始めた高官たちを入れ替えるチャンスであり、第2の維新が興ると読んでいた。
 
西郷の最も得意とすることは外交であり、三国同盟への自信があった。西郷は倒幕以来の自分にしか出来ない、一世一代の大仕事に政治生命を賭けた。

***  *** 上卦は地。
***  *** 下にあるべきものを表す。
***  ***
******** 上卦は天。
******** 上にあるべきものを表す。
********
 
「地天泰」の卦。上に地があり下に天がある象。一見反対のように思えるが、天と地との気、陽と陰との気が相交わり、相通じ、相和合することを表す。福沢諭吉の言った言論の自由の行われる社会は正に地天泰である。

征韓論というと西郷が不平士族のために戦争を望んだというイメージがあるが、
西郷は征韓とは一度も言った事が無く、あくまでも大使派遣問題であった。
 
 

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