さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

明治からの日本

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私はこれまで歴史と言えば、幕末にしか興味がありませんでした。
しかし最近になって、明治、大正、昭和の近現代史に興味が沸いてきました。
自分の不勉強もさることながら、戦後の教育にはこの肝腎な明治時代以後の
歴史教育が欠如したままではないでしょうか。
現在の政治も経済も国際問題も、この近代の歴史を知らずして語れるものは何も無いでしょう。
今更迂遠な話ではありますが、明治以後の人物と向き合いながら、
現在の日本のあるべき姿を考えて見たいと考えた次第です。
もし良かったら一緒に考えて頂けましたら幸いです。(猶興)
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坂の上の雲。

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正岡子規。1867〜1902
 
明治維新を描いた司馬遼太郎の小説である。NHKが大河ドラマを越える制作費を投じて3年に渡る番組にした。ご覧になった方も多いと思いますが、私も明治の空気をよく表現しているので、感動もし勉強にもなった。
 
ドラマは四国松山出身の秋山好古、真之の兄弟と、正岡子規の3人を主人公にした青春群像小説である。
 
秋山好古は苦学して陸軍士官学校に学ぶ。フランス留学中に騎兵術を学びやがて日露戦争では世界一と言われたコサック騎兵隊を破った。日本騎兵の父と言われる。
 
真之は、兄の好古を頼り上京し帝国大学進学を目指す。共立学校(後の開成中、高校)にて正岡子規とともに校長である高橋是清に学ぶ。友人として夏目漱石が登場する。
 
やがて真之は子規とは道を異にし、海軍兵学校に進む。日清戦争を経験した後、アメリカに留学。海軍戦術を研究し、日本海海戦では作戦参謀として世界最強と言われたバルチック艦隊を破った。
 
ドラマの主題は日清、日露の戦争であるが、私は正岡子規の生き様が忘れられない。病弱だった子規が最初に喀血したのは、明治21年21歳である。肺結核と診断される。当時結核は不治の病であり、余命も長くないと悟ったであろう。しかし新聞記者として就職した子規は28歳の時、日清戦争の従軍記者を志願する。許可された子規は病を忘れて狂喜している。
 
子規が喜ぶ様子に当時の若者の本音の姿を見る思いがした。結局、帰国途上の船中で大喀血して重態となってしまう。その後、当時松山中学校に赴任していた親友・夏目漱石の下宿で静養したり、再上京もするが結核菌が脊椎を冒す脊椎カリエスとなり、歩くことも困難になる。
 
やがて子規は寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながらも、俳句・短歌・随筆を「病床六尺」として書き続ける。また自宅の「根岸短歌会」を訪れた高浜虚子、伊藤左千夫ら後進の指導をし続け、明治35年、35歳の若さで燃え尽きるように他界する。
 
***  *** 上卦は地。
***  ***
***  ***
******** 下卦は火。
***  *** 文明、文化を表す。
********
 
「地火明夷」の卦。太陽が地中に隠れる象である。輝きを放った文化が消えてしまう。しかし、本物はやがて時代が掘り起こしてくれるものだ。
 
正岡子規は学生時代に野球に夢中になったことがある。打者、四球、走者など野球用語を翻訳もしている。功績を称え2002年野球殿堂入りした。
 
国を愛し、自然を愛し、文学を愛し、仲間を愛した魅力ある男が明治の日本にいた。

「鹿鳴館時代」。

 
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陸奥亮子。1856〜1900
 
明治政府にとって、当面の課題は不平等条約の一つである治外法権の撤廃であった。日本の腹切りを聞き、打ち首を目にした外国人は日本人を残酷な国民として治外法権撤廃には反対していた。
 
政府はなんとか日本が文明国であるという印象を持って貰う必要に迫られていた。そこで外務大臣・井上馨の提案により、外国人をもてなす目的で夜会や舞踏会をも開催出来る迎賓館を造ることになった。
 
お雇い外国人のジョサイヤ・コンドルの設計により1883年(明治16年)煉瓦造り2階建てバーやビリヤードの設備ももつ立派な鹿鳴館は完成。
 
西洋人の目には滑稽と称されながらも、政府高官やその夫人たちはダンスやマナー、エチケットに戸惑いながら、真剣に西洋文明を取り入れよう頑張った。健気な日本人を見る思いがする。
 
しかし、勝海舟や憂国の情を抱く国粋主義者たちは「亡国の兆し」として大反対をした。明治20年、井上馨の辞任とともに、燦然と光を放った鹿鳴館外交は幕を下ろすことになる。
 
それでも日本に社交界が出来たのであり、岩倉具視の娘である戸田極子、大山巌の妻・大山捨松、陸奥宗光の妻・亮子たちは「鹿鳴館の華」と言われた。
 
中でも陸奥亮子は駐米大使になった宗光とともに渡米。その優雅な美貌、洗練された話術により「鹿鳴館の華」から「ワシントン社交界の華」とまで言われたものだ。
 
******** 上卦は山。
***  *** 古くからある社会を表す。
***  ***
******** 下卦は火。
***  *** 文明、文化を表す。
********
 
「山火賁」の卦。賁(ひ)は飾り、装飾である。文化を取り入れ、社会を美しくするのは良い。しかし、外面ばかり飾っても内面的深みを失っては退廃美となってしまう。
 
龍馬の海援隊出身の陸奥宗光が、没落した旗本出身で芸妓の亮子と結婚。波乱万丈の夫婦の物語はNHKの大河ドラマにしたら面白いと思っている。
 
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与謝野晶子。1878〜1942
あゝ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしえしや
人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや
 
与謝野晶子と言えば、「みだれ髪」で有名であるが、27歳の時雑誌「明星」に発表したこの詩は日露戦争中の当時、大論争を巻き起こした。
 
晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。
 
批判に対して晶子は、「桂月様、たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義の批判を一蹴した。
 
戦時下ではあるが、天皇を絶対としていた時勢に「すめらみこと」(天皇)への直訴という手段ともとれる作品は大胆不敵とも言える。
 
しかし、すでに社会主義、キリスト教、キリスト教的社会主義の三つの立場からの非戦論はあった。富国強兵のために邁進していた日本人にも厭戦の思いは根強く、「歌はまことの心を歌うもの」という昌子の勇気ある作品は喝采を浴びた。
 
******** 上卦は天。
******** おおきな社会を表す。
********
******** 下卦は火。
***  *** 文化、文明を表す。
********
 
「天火同人」の卦。大きな社会の下に新しい文化が現れること。その新文化に同志が集まる。初志を貫徹することが肝要である。
 
明治の大衆にも自由と権利が叫ばれるようになってきた。
 
文化国家となるためには、個人個人に文化がなければならない。

日本を愛した外国人。

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ベルツ。1849〜1913
 
富国強兵を目指す日本にとって、なにより急務であるのは日本人のエリートを育てることである。そこで明治政府は高官並みの待遇で各方面に優秀な外国人を招請した。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれたが、中には日本という国をこよなく愛してくれた先生たちがいた。
 
「少年よ大志を抱け」で有名な札幌農学校のクラーク博士。小泉八雲として日本に永住したラフカディオ・カーン。建築家のジョサイヤ・コンドル。北海道で畜産を広めたエドウィン・ダン。美術研究家のアーネスト・フェノロサたちである。
 
明治元年から22年までに2000人を超える「お雇い外国人」がいる。ここに登場するのは、ドイツ帝国から招かれたエルヴィン・フォン・ベルツである。
 
27歳のベルツは明治9年に医学の教師として現在の東京大学医学部に招かれた。以来27年にわたって日本の医学会の発展に尽くしてくれた。日本人と結婚し、日本人及び日本の自然や美術、武道をこよなく愛した。多大の貢献に感謝して、皇室はドイツに帰国するベルツに旭日大綬章を贈った。
 
彼の編集した「ベルツの日記」は当時の西洋人から見た日本と日本人が実によく描写されていて感銘を深くする。その一部を読むと。
 
「日本人はたった10年前までヨーロッパの中世騎士時代の文化状態にあったのに、一気に500年の時間を飛び越えて全ての成果を自分のものにしようとしている。」
 
「不思議なことに今の日本人は自分たちの過去について知ろうとしない。それどころか、教養人たちは自分たちの過去を恥じている。」
 
「彼らは『自分たちに歴史はありません。』『なにもかも野蛮でした。』『われわれの歴史はこれから始まるのです。』というのだ。これは大変不快なものだ。」
 
「大日本帝国憲法制定の時には、民衆はお祭り騒ぎだが誰も憲法の内容を知らない。」
 
「日本では科学がもたらす成果や実質的利益にばかり主眼が置かれていて、自然を究めて謎を解くという本来の目標や根本にある精神を究めることをしない。」などと、愛情に溢れた言葉の中に厳しい批判も忘れていない。
 
******** 上卦は風。
******** 風はあまねく吹き渡る。
***  ***
***  *** 下卦は地。
***  *** 自然そのものである。
***  ***
 
「風地観」の卦。ものごとを良く観察すること。指導的地位にあるものは、静止して現象の奥まで見抜かなくてはいけない。
 
ベルツは草津の温泉を愛し有名にした。あかぎれに悩む女中さんのために特効薬を考案した。「ベルツ水」として今も販売されている。
 
ベルツの言葉は今の日本人にも当てはまる。日本人が日本の歴史も日本の素晴らしさも解っていない。
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福沢諭吉。1835〜1901
 
司馬遼太郎の「坂の上の雲」にはこんな場面がある。主人公の一人である秋山好古(よしふる)が貧乏中学生の頃、銭湯の風呂焚きをしている。そこへ腕白弟の真之が来る。兄は弟に「お前には未だ解らないだろうが、これは僕が最も尊敬する福沢諭吉という先生が書いた『学問のすすめ』という本だ。この中に『一身独立して、一国独立する。』とある。お前もしっかり勉強して志を立てるんだ。」
 
兄の秋山好古は陸軍に進み、日露戦争では騎兵隊長として世界最強と言われたロシアのコサック騎兵隊を破った。弟の真之は海軍に進んで、日本海海戦では連合艦隊の作戦を指揮し、奇跡的な勝利でバルチック艦隊を全滅させた。
 
福沢諭吉は坂本龍馬とほぼ同年代である。共通点は勝海舟と縁が深いことだ。龍馬は海舟の弟子となり船と海軍を学んだ。英語を学んだ諭吉は海舟と咸臨丸に乗ってアメリカに渡り、西洋文明を体験した。
 
その2年後には、遣欧使節団の通訳としてヨーロッパ各国、ロシアのペテルブルグを歴訪。その後再び渡米しているので、明治を迎えた日本においては最高の外国通となっていた。
 
竜馬が暗殺された慶応3年には外国文化を日本に広めるため、洋学塾を始める。諭吉は日本人を啓蒙することを自分の仕事にした。これが「慶応義塾」の基になった。
 
「学問のすすめ」は明治4年に郷里・中津(大分県)に出来た学校を祝うつもりで「中津の旧友に贈る」と題して書いた論文が評判になり、明治5年に諭吉が書き改め発売された。
 
明治の若者たちは「学問のすすめ」により、大きな志を立てたものである。
やがて「学問のすすめ」は全国津々浦々にまで広がり発売8年後までに70万部の大ベストセラーとなる。大正、昭和を超えて、現在までの累計は340万部であり、日本のベストセラーとしても今でも19位の座を保っている。
 
******** 上卦は山。
***  ***
***  ***
***  *** 下卦は水。
********
***  ***
 
「山水蒙」の卦。無知蒙昧な幼児を啓蒙すること。教育には良き指導者がなにより重要である。素直な心と良き指導者があれば、子供は無限に可能性を伸ばすことが出来る。
 
新政府からの求めを断わり民間での教育者であり続けた福沢諭吉。
 
政府高官より、遥かに大きく日本の発展に貢献したか計り知れない。
 
 

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