さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

明治からの日本

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私はこれまで歴史と言えば、幕末にしか興味がありませんでした。
しかし最近になって、明治、大正、昭和の近現代史に興味が沸いてきました。
自分の不勉強もさることながら、戦後の教育にはこの肝腎な明治時代以後の
歴史教育が欠如したままではないでしょうか。
現在の政治も経済も国際問題も、この近代の歴史を知らずして語れるものは何も無いでしょう。
今更迂遠な話ではありますが、明治以後の人物と向き合いながら、
現在の日本のあるべき姿を考えて見たいと考えた次第です。
もし良かったら一緒に考えて頂けましたら幸いです。(猶興)
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上田寅吉。1823〜1890
 
日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った日本海軍。その軍艦が造られた陰にはこんなドラマがあったのだ。
 
1854年(安政元年)ペリーに続いて国交を求めてやってきたのは、ロシア使節団のプチャーチン提督である。ところが下田湾にて大地震にともなう大津波に遭遇する。
 
下田の町も打撃を受けたがプチャーチンの船・ディアナ号も座礁した。日本の全権・川路聖謨(としあきら)は西伊豆の戸田(へだ)にて修理させようとした。ところが途中、今度は台風に遭遇して船は沈没してしまった。
 
帰国すら出来なくなったプチャーチン一行。しかし、幸いディアナ号から船の設計図が見つかった。韮山代官・江川太郎左衛門はその設計図を基に船大工を集めて船を造ることにする。
 
通訳を交えオランダ語、ロシア語、日本語の3ヶ国語の会話を駆使して半年がかりの末、約100トンの西洋式帆船が完成した。プチャーチン一行は日本人に厚く感謝しつつ「ヘダ号」と名づけた船で帰国することが出来た。
 
幕府はその「ヘダ号」を見本に6隻の洋式船を造らせた。これが日本の洋式船の基になり各地に伝わった。
 
その船大工の中に上田寅吉がいた。寅吉は幕府に認められ長崎の海軍伝習所1期生となる。勝海舟を艦長とした「咸臨丸」に乗り日本人として始めて太平洋を渡った。
 
その後、榎本武揚らとオランダに留学。幕府が発注した「開陽丸」で帰国すると戊辰戦争である。榎本とともに五稜郭の戦いに敗れ捕虜となるが、明治3年釈放される。
 
そして横須賀の海軍工廠(こうしょう)の初代工場長として数々の軍艦製造にかかわる。バルチック艦隊と戦い圧倒的勝利を収めた連合艦隊の日本製軍艦は全て寅吉の設計に寄るものである。
 
******** 上卦は山。
***  *** 動かないものを表す。
***  ***
***  *** 下卦は雷。
***  *** 動く、活動を表す。
********
 
「山雷頤」の卦。頤(い)はあごのこと。人はあごから食物を取り入れる。頤は養うである。身体を養う。精神を養う。何を養うかが重要である。
 
幕末から明治にかけての日本人を考える時、新文明に対する貪欲なまでの吸収力に驚嘆する。
この吸収力こそが世界的奇跡と言える、明治維新を成功させたのだろう。
                   
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井上勝(まさる)。1843〜1914 
 
明治維新以後の日本の近代化は正に驚くほどである。その一つが矢継ぎ早に完成していった鉄道建設に見ることが出来る。
 
その最初の功労者は「鉄道の父」と言われた井上勝である。井上は伊藤博文や井上馨らと長州からイギリスに密航した「長州ファイブ」の一人だ。
 
井上は5年間ロンドン大学で鉄道と鉱山を学び、明治元年に帰国する。鉄道庁にて鉄道建設を指揮し、鉄道一筋に生涯を捧げる。1872年(明治5年)、工事責任者として日本初の鉄道「新橋〜横浜間」を誕生させた。
 
機関車も線路も技術も外国の力を借りたが、京都、大津間に日本人だけで逢坂山トンネルを完成させる。1889年(明治22年)には新橋〜神戸の東海道線を開通させる。
 
各地の有力実業家が鉄道経営に参加、鉄道は全国に開通していく。神戸〜京都は明治10年。函館〜札幌は明治13年。上野〜青森は明治24年。門司〜熊本は明治24年。神戸〜広島は明治27年。正に近代文明は鉄道の汽笛とともに全国に広がった。
 
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最初の新橋、横浜間では高島嘉右衛門(かえもん)(1832〜1914)が人肌脱いでいる。高島は当時海であった現在の横浜駅周辺を大規模な埋め立て工事を完成させた。
 
***  *** 上卦は雷。
***  *** 活動を表す。
********
******** 下卦は天。
******** 陽のエネルギーを表す。
********
 
「雷天大壮」の卦。大いなる陽気が壮んであること。日本中がエネルギーに満ち溢れる様を想像させる。
 
高島嘉右衛門は日本で始めてのガス灯を横浜に設置し、その後銀座にも設置した。実業家としても活躍したが、最も知られているのは「高島易断」であろう。その占例集は明治の人物たちが実名で登場し、貴重な歴史資料でもある。
 
 
 
 
 
 
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渋沢栄一。1840〜1931
 
農業中心であった幕末までの日本。西洋に追いつくための富国強兵。その富国を実現するには工業国家へと変身しなければならない。
 
日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一は武蔵(埼玉県)の豪商の出身。若い頃は尊王攘夷の志士であった。ある縁があり、一ツ橋家に就職する。将軍・慶喜の弟である徳川昭武がパリの万国博覧会に行くのに随行した。
 
ヨーロッパ文明に触れた栄一は攘夷思想の無意味を知り、明治元年に帰国すると実業家の道をひたむきに突き進む。
 
銀行、保険、電気、ガス、鉄道、海運、紡績、石油、セメント、ほとんど全ての産業にかかわり、生涯に500社に及ぶ会社を設立した。
 
大阪株式取引所を設立し、関西の経済界のリーダーであった五代友厚は薩摩藩出身。長崎海軍伝習所に学び、高杉晋作と上海に密航。その後イギリスに渡り西洋文明を吸収した。
 
士農工商の身分制度を覆し卑い立場から財閥を興した創業者もある。極貧の地下浪人から三菱グループを創業した岩崎弥太郎、露天の両替商から安田財閥を創業した安田善次郎、農家から山陽鉄道や銀行を設立した松本重太郎などだ。
 
旧商家を今日に続く財閥にした創業者もいる。丁稚奉公から住友別子銅山を立て直し住友の基礎を築いた広瀬宰平、三井家の番頭から銀行や三井物産を創設した三野利左衛門などである。
 
明治の創業者に共通しているのは、スケールの大きさであり、家業の発展だけでなく国の繁栄まで視野に入れた志と強靭なチャレンジ精神である。
 
******** 上卦は火。
***  *** 文明、文化を表す。
********
***  *** 下卦は地。
***  ***
***  ***
 
「火地晋」の卦。地平線から太陽が昇る象。太陽は新しい文化とも言えるだろう。働けば働くほど報われる時代でもある。
 
渋沢栄一は民間外交にも尽力した。例えば日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形を交換する運動は良く知られている。世界にもその名は知られ民間外交の先駆者として、1926年と1927年、ノーベル平和賞の候補にもなっている。

ある老紳士の回想。

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榎本武揚。1836〜1908
 
明治の最大の出来事であった日露戦争を経験した日本。富国強兵と近代化、すっかり様相の変わった東京。一人の老紳士が向島百花園で茶碗酒を手に、波乱にみちた自身の過ぎこし方を回想していた。
 
この老紳士こそ幕末、明治をスペシャリストとして生き抜いた榎本武揚(たけあき)である。
 
(私の父は旗本であり、伊能忠敬の地図作りを手伝った学者でもあった。私も子供の時から学問が好きで国学、儒学、蘭学、英語を学んだ。親が当時の最高の先生につけてくれたものだった。そして幕府が海軍伝習所を長崎に造ると私も行った。造船、測量、航法、機関、色んなことを学んだ。)
 
(27歳の時には幕府の留学生としてオランダに渡った。西洋文明には驚くことばかりだった。機械、化学、冶金、地質、夢中で勉強した。吾が青春は勉強一筋だった。32歳で軍艦・開陽丸で帰国したら、直ぐに鳥羽伏見の戦いだ。急いで開陽丸で大阪へ向かうと何と将軍・慶喜が敵前逃亡して船に乗り込んできた。)
 
(江戸城を明け渡すと聞いて、とんでもないことだと思った。それなら旧幕臣だけで北海道に新しい共和国を創ろうと計画した。大鳥圭介や土方歳三らと函館の五稜郭に陣をしき、官軍と戦争をした。)
 
(結局はうまくはいかなかったが、官軍の大将だった黒田清隆に私は助けられた。2年半牢に入ったが、その後政府の役人として働いた。ロシア公使、清国公使、逓信、農務、文部、外務の大臣を歴任した。)
 
(福沢諭吉が旧幕臣でありながら、高官の職につくとはけしからんと私を非難した。しかし、私は言い訳はしなかった。唯ひたすら仕事をした。それが幕府の恩にも報いることだと信じたからだ。)
 
武揚は若いときに学んだ西洋の知識を、新政府の為に全て注ぎ込んだ。もの静かで、姿勢が美しく、容貌も立派であり、明治天皇にも愛され、宮中の女官たちにも人気があった。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 陰徳を表す。
***  ***
******** 下卦は山。
***  *** 毅然とした姿を表す。
***  ***
 
「地山謙」の卦。高い山が低い地の下にある象。勝れた才能、美しい容貌は謙虚であることにより、一層輝きを増すものである。
 
武揚が死刑にならなかったのは、その能力を惜しまれたからである。
 
人材を活用した明治政府の見識の高さが垣間見えるではないか。
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S・ルーズベルト。1858〜1919
 
1905年(明治38年)8月、アメリカ・ニューハンプシャー州のポーツマスに於いて日露講和会議が行われた。日本全権は小村寿太郎、ロシア全権はセルゲイ・ウィッテ。仲介の労を取ったのは大統領セオドア・ルーズベルトである。(大統領はこの講和成立を評価されてノーベル平和賞を受賞。)
 
日本もロシアも死力を尽くした上のことであり、双方戦力も戦費も使い果たしこれ以上戦うことは出来なかった。日英同盟を成立させた名外交官の誇りにかけ、小村は賠償金を取得し10万人の犠牲者にも、後世にも恥じない講和を目指していた。
 
しかし、ウィッテの外交はしたたかであった。「まだまだ、ロシアは負けたとは考えていない。なんなら戦争を続けても良い。」と言い張った。強気の外交で知られた小村も粘りに粘る。しかし戦争はこれ以上続ける訳にはいかない。
 
2ヶ月に及ぶ交渉の末、大国としてのプライドもあり駆け引きはウィッテが上回った。結局、韓国と満州の利権、南カラフトの割譲は得たものの、戦争賠償金は全く取得するとが出来なかった。
 
軍事費として投じた国家予算の4倍にあたる20億円を回収することが出来ない。戦時中、増税に継ぐ増税により耐乏生活を強いられた国民にとっては莫大な借金が残された。
 
日本を出発するときは、日の丸の旗で見送られた小村は「賠償金も取れない弱気外交。」と罵られ、帰国したときは命を狙われる状況であった。
 
出来たばかりの日比谷公園では「ポーツマス講和条約反対国民大会」が開かれ、集まった群衆が暴動を起こした。東京市内の7割の交番が焼かれ死者も出る騒ぎに明治政府は始めての戒厳令をしいた。
 
この日比谷焼討事件は国民が政府に対する抵抗運動としては、後の「大正デモクラシー」の始まりとも言われている。
 
***  *** 上卦は雷。
***  *** 活動、始まりを表す。
********
***  *** 下卦は水。
******** 険難、問題を表す。
***  ***
 
「雷水解」の卦。解決、解消の解である。難問題が解決すること。厳冬の季節がようやく終わり春の兆しが見えることでもある。しかし、気をゆるめてしまうと失敗を招きかねない。
 
実際のところはロシアも戦争を続ける余力は残っていなかった。
その証拠にはロシア国内では戦争中に、戦争に反対する「血の日曜日事件」という暴動が起きていた。
 
 
 
 
 
 
 

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