さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

歴史を易で観る(上)

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安岡学研究会における講師テキストとして作成しました。

易の卦には順番があり、これが大変教訓と興味をそそるものなのです。
そしてこの易の変化と歴史の変化には共通したものがあり、以前から不思議に感じておりました。
そこで、易にも歴史にも未熟であることを省みず思い切って両者の組み合わせを試みた次第です。
一般にも公開することにしましたので、読んで戴ければ幸いです。(猶興)
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風地観

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風 地 観
 
(序卦伝)臨は大なるなり。物大にして然る後に観る可し、故に之を受くるに観を以てす。
(卦辞)観は盥して薦めず。孚有り顒若たり。
 
(大象)風、地の上を行くは観なり。先王以て方を省み民を観て教えを設く。
 
観には1に周観(高い所より遍く四方を見渡す。)2に仰観(低い所から上にあるものを仰ぎ見る。)
暦の上では旧暦の八月で陽気衰え始める。小人の勢力が増し君子の道廃れる。
 
昔の帝王は四方の諸国を巡幸してよく省察し、風俗習慣、文化の程度をよく知り、それぞれに対して適当なる政治教化を施すのである。
 
風地観は国民教化と自戒
 
上の二陽は周観を、その他は陰爻は仰観を表しどの様な観方をするかを説いている。初六の童観は幼稚な観方。六二の闚観は覗き観る。六三の生観は自分の人生体験の中から観る。
 
六四の「国の光を観る」は人物材幹が単に臣事の程度に止まらず、能く国王の幕賓として尊重せられるほどがよろし。(観光の語はこれに由るものである。)
 
九五の「我が生を観る」は統治者として能く己自身の在り方を反観する。上九の「其の生を観る」は全体の生(在り方)を観る。どちらも、君子であれば咎はない。常にこれではいけないといふだけの志がなければならぬ。
 
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 横井小楠。1809〜1869
 
動乱の先を観る「風地観」
 
横井小楠は熊本藩の藩士であるが、熊本藩では彼の卓越した才能は受け入れられない。認めたのは福井藩主・松平春嶽である。春嶽が安政の大獄で懐刀の橋本佐内を失い自身も謹慎の身となったとき、「これより先に進むの工夫もっとも肝要なり。」と藩論の分裂を防いだ。「富国」「強兵」「士道」からなる「国是三論」を唱えた。
 
幕府の勝海舟、大久保忠寛(一翁)らと時勢を論じ、「大政奉還」論を説いている。禁門の変前後は藩より4年間の謹慎処分を受け閑居の身であったとき、坂本竜馬が訪ねて来る。竜馬は「船中八策」の原案を相談している。小楠はアメリカの政治制度を高く評価した。「富国強兵」を超えた「大義」にのっとることを基本にした。
 
勝海舟は「氷川清話」のなかで「おれは、今までに天下で恐ろしいものを2人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ。」「その思想の高調子な事は、おれなどとは、とても梯子を掛けても及ばぬと思ったことがしばしばあったよ。」と語っている。常に時代の先を読んでいた。明治2年、京都にて攘夷主義者に暗殺された。
 
 
 

地沢臨

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地 沢 臨 
 
(序卦伝)蠱は事なり。事有りてし かる後に大なる可し。故に之を受くるに臨を以てす。臨は大なるなり。
 
(卦辞)臨は元に亨る。貞しきに利し。八月に至りて凶有り。
 
(大象)象に曰く、沢の上に地有るは臨なり。君子以て教へ思ふこと窮まりなく、民を容れ保んずることかぎりなし。
 
二陽がしだいに盛んになり、陰に迫っている卦である。季節でいえば春、人生では少年時代から青年時代。望み大いに通り、正しき態度を持続すれば利がある。八月は陽が衰え始める。若くして学べば壮にして為すあり。
 
 
地沢臨は対外活動
 
新しい世界、物事、人物に対すことである。各爻はその対処すべき道を説いている。特に陽爻の初九と九二は咸臨とあり、感激をもって臨むこと。初の日米修好団に随行した勝海舟が艦長を務めた「咸臨丸」はここから名付けられた。
 
全体に悪い爻はないが、六三には甘臨とあり甘い気持ちで臨むことを戒めている。六四は至臨、六五は知臨、いづれも丁寧に心から臨むので咎なく吉。
 
上六は敦臨、功成り名遂げた人は、すべて人間味が敦(あつ)くならなければならぬ。何事に臨んでも積徳が敦くして、始めて人々の風俗も敦厚になる。これを敦臨(とんりん)とする。
 
 
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高杉晋作。1839〜1867
 
新時代を臨む「地沢臨」
 
松陰門下の双璧の一人高杉晋作は久坂玄瑞とは別の狂夫となった。玄瑞は尊王攘夷に命を散らせたが、晋作は倒幕への道を開いた。幕府の使節船・千歳丸で清国・上海を見聞した。そこで中国人が英仏人により支配されている姿を見てショックを受けた。
 
今すぐにも日本は外国に負けない武力を持つべきこと。それには軍艦が必要とばかり、長崎に帰着するなり2万両のオランダ船を購入する契約をしてしまう(藩は認めず破談となる)。下関の豪商・白石正一郎をスポンサーに武士、庶民混成の「奇兵隊」を結成。
 
長崎のグラバーから軍艦・オテント丸の艦長として下関に乗りつける。今度は井上聞多(馨)が藩の重臣たちを説き伏せた。この軍艦が第2次長州戦争で幕府を退ける。晋作の行動は常に狂気的ではあったが、時代の要求にかなっていた。慶應3年4月、肺結核により27歳8カ月の生涯を閉じる。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり」歌人・野村望東尼が書き加えた。
 
 
 
 

山風蠱

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山 風 蠱
 
(序卦伝)喜びを以て人に随う者は必ず事有り。故に之を受くるに蠱を以てす。蠱とは       事なり。
(卦辞)蠱は元に亨る。大川を渉るに利し。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日。
 
(大象)山の下に風有るは蠱なり。君子以て民を振い徳を育ふ。
 
蠱の字は皿の上に虫が沢山集まっている形である。頽廃、弊害、事件を表す。
十干とは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸であり、甲より先だつこと三日とは丁であり、後るること三日は辛のことなり。
「民を振い徳を育ふ」は大学の「民を新たにする」「明徳を明らかにする」
 
山風蠱は難問題の処理
 
各爻では父母の積年の弊害を改めることを説いている。
九二では「母の蠱に幹たり。貞にす可からず。」母親の作った習慣は厳しく責めてはいけない。
九三、六四は父の蠱に対処している。九三は厳しすぎるが咎なし。六四は緩やか過ぎて吝とある。
積年の弊害を革新するには柔よりも剛が必要。長い期間をかけて徳を以て革新すること肝要。
 
 
 
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松平容保。1835〜1893
 
京都守護にみる山風蠱
 
幕府の権威失墜はもはや回復不能である。政事総裁職の松平春嶽(慶永)は薩摩にも負けぬ軍事力を有する会津藩に京都守護職を懇願する。会津藩は藩祖・保科正之以来の「敬神崇祖」幕府への忠誠が藩是であった。
 
藩の存亡を賭けて容保は京都守護職に就任した。文久3年8月18日。会津藩は薩摩藩と同盟して尊王攘夷派の長州藩と長州派公家を御所から追放することに成功する。孝明天皇は臣下に対しては異例の宸翰(しんかん・手紙)と御製(和歌)を容保に下賜。御製の一つ「武士と こころあはして いはほ(巌)をも つらぬきてまし 世々のおもひで」
 
長州の尊攘派はその後も事件を繰り返した。配下の近藤勇を隊長とする新鮮組による池田屋騒動や禁門の変では多くの流血、京都の大火災に見舞われた。厳しく京都を守護したが、時代の逆流に敬神崇祖の会津藩の運命は暗転。鳥羽伏見敗戦後は何と朝敵の汚名をも着せられるに至る。

沢雷随

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沢 雷 随
 
(序卦伝)豫めば必ず人に随う有り。故に之を受くるに随を以てす。
 
(卦辞)随は元に亨る。貞しきに利し。咎无し。
 
(大象)澤の中に雷有るは随なり。君子以て晦きに嚮ひて入りて宴息す。
 
随の卦は人に随うについての道を説くのである。上卦は少女。下卦は長男。成年の男子が乙女に随喜する象でもある。大象から言えることは、この時好い気になって共に遊び過ごしてはならぬ。時が来れば、さっさと退いて、休養せねばならぬ。
 
 
沢雷随は順応と自得
 
全体には三陽、三陰でバランスは良いが、陰陽ところを得ない爻が二つある。
六三「丈夫に係りて、小子を失ふ。随ひて求めて得ることあり。貞しきに居るに利し。」六三と九四は陰陽で関係が築き易い。しかし正しい位ではなく媚びているという疑いがある。そこを戒めねばならない。
 
九四「随ひて穫ることあり。貞しけれども凶なり。孚あり、道に在りて以て明らかなれば、何の咎あらん。」九四は剛健にして能力ある君子なり。されど九五をしのいでは正しくても凶である。君臣の道を明らかに勤めることが肝要である。
 
上六「之を拘へ係げ、乃ち従ひてこれを継ぐ。王用て西山に亨す。」拘係はしっかりと手を結んで離さないさま。文王があくまでも殷の天子に使えた姿である。
 
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久坂玄瑞。1840〜1864
 
尊王攘夷にみる沢雷随
 
高杉晋作とともに松陰門下の双璧と呼ばれる。安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、尊皇攘夷の立場から反対し、藩論の転換に尽力した。

幕府へ攘夷を督促するための勅使・三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉晋作らと御楯組を結成、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行。外国艦船砲撃事件にも加わった。しかし幕府側は八月十八日の政変によって長州勢を朝廷より一掃する。

7人の公卿たちと京都を脱出、長州へ落ち延びた。玄瑞は再び京都へ舞い戻り、攘夷倒幕運動の中心人物として東奔西走する。元治元年6月5日に起こった池田屋事変で多くの志士を失った長州藩は翌月挙兵、京都御所へ進軍。幕府軍と死闘を繰り広げる。禁門の変である。しかし長州藩はこの戦いに敗れ、玄瑞は鷹司邸内で自刃。享年25歳。
 

 
 

雷地豫

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雷 地 豫
 
(序卦伝)大有にして能く謙すれば必ず豫む。故に之を受くるに豫を以てす。
 
(卦辞)豫は候を建て師を行るに利し。
 
(大象)雷、地を出でて奪ふは豫なり。先王以て楽を作り徳を尊び、之を上帝に殷薦し、祖考を配す。
 
地上に陽気の雷動する象であり、春である。順(地)にして動く(雷)。天地、順を以て動く、故に日月誤らず、四時たがわぬ。聖人、順以て動く。則ち刑罰清くして民服する。
 
 
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岩倉具視1825〜1883 
 
王政復古にみる雷地豫
 
朝廷の権威を回復し、天皇親政によって統一国家を目指せという胎動が沸き起こる。岩倉具視は下級公家から身を興し、五摂家のひとり鷹司政通に認められ侍従の地位を得た。政通は岩倉を「眼彩人を射て、弁舌流るるが如し、まことに異常の器なり。」と評した。
 
安政5年、幕府の日米修好通商条約に反対し老中・堀田正睦への勅許を実力で阻止する(八十八卿列参事件)。安政の大獄、桜田門外の変が起こると幕府との公武合体論を進め和宮降嫁の先頭に立つ。
 
ところが、その後朝廷は尊王攘夷一色となり岩倉は「四奸二嬪」の一人として命を狙われる立場に。朝廷を追われ居所を転々とする逃亡生活を強いられる。5年間の潜伏生活の末、薩摩の大久保利通らと気脈を通じ王政復古、倒幕の中心人物となっていく。
 
雷地豫は自適の道
 
「遊び楽しむ」、「怠る」、「あらかじめ」は豫の三義である。
主爻は九四。「由豫。大いに得るあり。疑うなかれ。朋、あいあつまる。」大力量ある君子が楽しみをもたらすので人が集まる。
 
吉は六二のみ。「石に介たり。日を終へず。貞にして吉なり。」石の如く孤高を守ること。蒋介石の名はここから取ったものだろう。中正とも称した。
 
初六は「鳴豫。凶。」六三は「盱豫。悔。遅ければ悔有り。」と喜び楽しむことは常に節度が必要であることを戒めている。

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