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岸信介。1896〜1987
国民の生活にも明るさが見え始めた昭和30年代だが、すんなりと高度成長軌道に乗った訳ではない。政治の世界は55年体制で、自民党と社会党が真っ向から対立していた。反戦反米を掲げる社会党を中心とする左翼主義者はマスコミ、学者、学生に根強く、政権を奪取し、社会党政権をつくろうと虎視眈々と機会を狙っていた。最大のチャンスは目前に迫った日米安保条約を阻止することである。
一方、自民党政権の首相である岸信介はこの日米安保条約を改定し批准することに政治生命をかけていた。岸は吉田茂が結んだアメリカ主導の条約を改定、経済面での相互協力、有事の際のアメリカ軍の支援、日米地位協定の見直しで、より平等な改定交渉に取り組んでいた。
1960年(昭和35年)1月、岸は全権団を率いて訪米、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印で合意した。大統領の来日を実現させ、国会で可決することだ。ところが、左翼系は一斉に反発、新条約は日本を再び戦争に導くものだと反対運動を展開する。
学者、文化人、マスコミ、学生、反対の輪は広がる一方で岸退陣を求めるデモ隊は数万人規模で国会周辺を埋め尽くした。警察だけではデモ隊を制し出来ず、右翼団体、暴力団、テキヤ団体まで借り出す騒ぎの中、自民党は社会党議員を会議場に入れずに強行採決。批准承認、自然成立を目指す。
アイゼンハワーの来日は中止、自然成立の期限が迫った6月15日、デモ隊の一人、東大生の樺美智子さんが死亡する。対立はさらに激化、デモ隊の気勢は最高潮に達した。戦後の政治史上これほどの闘争劇は類を見ないが、結局新安保条約は自然成立となる。これを見届けて岸は退陣する。
岸が命をかけた安保闘争は自民党と社会党の天下を分けた関ヶ原の戦いだった。岸の後を受けて池田内閣が成立、所得倍増、高度成長時代がやってくる。あれほど激しかった闘争も嘘のように収まっていく。
岸は東大法学部では法律学者として大学に残れと言われるほど勉強。同時に北一輝にも傾倒。農商務省に入ると満州を担当、抜群の能力で45歳で商工大臣。戦後はA級戦犯として逮捕、公職追放を体験。筋金入りの愛国者である。
*** *** 上卦は雷
*** *** 進む。行動。
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*** *** 下卦も雷
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「震為雷」の卦。雷鳴が轟き渡る象。百里を震撼させる雷であっても、狼狽してはいけない。こんな場面でも慎重、冷静であることが王の王たる由縁である。
当時の社会党委員長・浅沼稲次郎の人気は圧倒的に岸を上回っていた。演説会では常に拍手喝さいを浴びていた。四面楚歌の中で岸は「安保改定は50年後に正しく評価される。」と言って信念を貫いた。国民の人気や拍手喝采ほど無責任なものはない。 |

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