さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

昭和からの日本

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戦後の教育では日本の近現代については曖昧なままにしてしまいました。その結果、経済だけが優先するだけで本当の日本の姿が明確になっておりません。日本は侵略国なのか、何故大戦争に突入してしまったのか?そんな疑問はしっかり勉強すれば解ることです。不勉強の身ながら、簡潔にしかし基本をはずさないようにお伝えしたいと思います。お付き合い頂ければ幸いです。(猶興)
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君の名は

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岸恵子。1932〜
 
戦前にも男女のすれ違いをテーマにしたメロドラマ映画「愛染かつら」が大ヒットしたことがあるが、戦後のメロドラマはラジオから始まった。昭和28年4月からNHKのラジオドラマとして放送された「君の名は」である。
 
ハラハラドキドキのすれ違い恋愛ドラマは女性の心をつかみ、放送時間の夕方には銭湯の女湯ががら空きになったという。(当時一般の家庭には内風呂がなく銭湯を利用した。)
 
話は空襲下の東京銀座の数寄屋橋で、春樹と真知子が出会う。緊迫した状況下であったので、お互いの名前も知らずに1年後に再会の約束をして別れる。1年後に再会したときには、真知子は意に沿わぬ結婚をしていた。しかし、真知子は夫や姑との不仲に苦しみ抜いていた。頑として離婚に応じないエリート官僚の夫、春樹に助けを求める真知子。
 
舞台は真知子の故郷・佐渡、伊勢、北海道、九州と復興が進む日本各地。美しい観光地や大都会東京であり、当然のごとく映画化された。春樹を演じたのは二枚目スター・佐田啓二、真知子を演じたのは新人女優の岸恵子である。真知子のショールの巻き方は「真知子巻き」として女性たちの間に流行した。
 
映画も大ヒット、続編が作られ、さらに完結編も作られた。映画観覧者数はこの映画のお蔭で29年には8億人を超えたという。戦後の荒廃から復興するため女性たちもよく働いた。美男美女のドラマはそんな働く女性たちを癒してくれたのだろう。この3部作は現在でも隠れたファンがあるという。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 大地、従順、受け入れる。
***  ***
******** 下卦は風。
******** 樹木、謙譲。
***  ***
 
「地風升」の卦。地の下の若木の芽がすくすく伸びていく象である。進むという卦は他に「晋」があるが、「晋」は勢いが強く危険な一面があるが、「升」の伸び方は確実である。若木の芽は、自身の生命力と春の季節と豊かな養分の三つが揃わないと成長しない。
 
こうしたドラマがヒットするのは、庶民に活力と自由と平和が訪れたことを物語っている。まだまだ豊かさは遠くの彼方だが、どん底から這い上がった日本人は世界を目指して再び昇り始めた。
 
 
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本田宗一郎。1906〜1991
 
戦後に生まれた企業としてソニーとともに世界に躍進した企業は他にもたくさんある。ホンダもその一つだ。ホンダを創設したのは言わずと知れた本田宗一郎。名参謀・藤沢武夫とともに世界のホンダに成長させた。
 
宗一郎は静岡県磐田郡出身、勉強は大嫌いだったが、機械いじりが大好きだった。自動車修理工場の丁稚からのスタートだが、卓越した技術能力でたちまち社員50人を抱えるリーダーになる。若いときは仕事が終われば芸者を挙げてのドンチャン騒ぎ。酔っ払い運転で芸者ともども天竜川に落ちたこともあるという。
 
鋳物の基礎知識を学ぶため、浜松高等工業機械科の聴講生になった。しかし、必要な授業しか受けず、試験も受けない。学校から「試験を受けない者には免状はやれない。」と言われ、「免状なんかいらん。免状では飯は食えない。」と言ったので校長が激怒したという。
 
戦後、浜松市に本田技研工業(株)を設立。オートバイ生産に着手、1955年(昭和30年)には2輪車生産台数日本一を達成。1961年のマン島レースで1〜5位を独占した。翌年、自動車産業に進出、軽自動車からのスタートだが、低公害のCVCCエンジンなどを開発、時代のニーズを掴み世界のホンダに躍進していく。
 
宗一郎の言行として有名なのは。
 
「人間、生まれたからにはどうせ死ぬのだ。やりたいことをやって、ざっくばらんに生き、そして諸々の欲に執着せずに枯れ、死んでいけばいいのだ。」
 
「人間というものは、面白いものであり、不思議なものであり、必要のない人間というのはいないのである。」
 
本社ビルを建設するときに、「地震が起こったとき、割れたガラスが歩行者に当たらないようにしろ。」そこで、本社ビルの全フロアにバルコニーがつけられた。
 
勲一等瑞宝章の授賞式に出席しようとしたとき、「技術者の正装は真っ白なツナギだ。俺はツナギを着ていく。」と言って譲らなかったが、周囲に説得されしぶしぶ礼服を着て出かけた。
 
社長を退くときに社員に語ったことは、「俺はいい加減な社長だった。しかし、今度の社長は俺よりもっといい加減な社長なんだ。だから、皆で新社長を助けてやってくれ。頼んだぞ。」
 
******** 上卦は風。
******** 従順、順応。
***  ***
***  *** 下卦は雷。
***  *** 決断、実行。
********
 
「風雷益」の卦。疾風迅雷の象。雷が轟きわたり、風が吹き渡るように、好機を得て積極的に突き進む。盛んな行動力と柔軟な順応力があれば、遮るものはなにもない。
 
閉塞感に身動きがとれない現在の日本に求められるのはこんなリーダーだろう。
 
今、天国から本田宗一郎が叫んでいる。「常識を打ち破れ!」「日本人の底力を見せてやれ!」 
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井深大(まさる)1908〜1997
 
日本の敗戦直後、1945年(昭和20年)10月、井深大は東京日本橋に「東京通信研究所」を立ち上げる。後のソニーである。戦時中に知り合った盛田昭夫が加わる。
 
「人のやらないことをやる。」これが二人の合言葉である。独自の技術で新商品を開発し、次々と世に送った。トランジスタラジオを始め、日本初、世界初、の革新的な商品は瞬く間に世界に広がっていく。戦後日本の奇跡的経済成長を象徴する世界的大企業に成長した。
 
井深は常に10年先、20年先を見つめていた。相棒の盛田が海外出張から帰ると、必ず「10年先を見てきましたか?」と聞いた。ノーベル賞をもらった江崎玲於奈は井深について「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考えることで、明日を知る人だった。」
 
余命わずかになったとき、ある人が「今、何をしたい?」と聞いたところ、「そうだね、小さな会社をつくってみたいな。」と答えたという。
 
一方で井深は1969年に幼児開発協会を設立、幼児教育に熱心に取り組んでいる。その功績により'92年に文化勲章を受章している。著書に「幼稚園では遅すぎる」「井深 大の心の教育」「胎児から」などがある。井深の主張は子供の教育は母親しだいという。
 
「母親こそ子供をどんな人間にも育てることができるのです。母親こそは偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。そして何よりすぐれた教育者であってほしいものです。」
 
******** 上卦は火。
***  *** 文明、文化、才能。
********
***  *** 下卦は地。
***  *** 大地、従順、母。
***  *** 
 
「火地晋」の卦。大地から太陽が昇る象。晋は進。旭日昇天を表す。働けば働くほど成果があり、世の中にも認められる。万事順調に運ぶのであせる必要はない。
 
ゼロから出発した日本であるが、行く手には遮るものは何もない。明治維新以来の日本の底力が試される時がきた。国民は一斉に働き出した。

戦後日本の出発

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南原繁。1889〜1974
 
戦後の日本は奇跡的と言われる経済発展を遂げる。その出発点と言えるのがサンフランシスコ平和条約締結である。1952年(昭和27年)4月28日である。
 
朝鮮戦争でアメリカはアジアの於ける西側陣営の最有力国として日本の存在を再認識していた。大統領特使のダレスは日本の再軍備を勧め、一刻も早くソ連からの攻撃に備える必要を説いた。終戦時に軍隊を解体させた筈なのに、180度の方向転換である。
 
しかし国内世論としては「2度と戦争はしたくない。」が大勢である。そこで、吉田茂は1、日本はアメリカ軍に基地を提供する。1、駐留費用は日本が持つ。1、アメリカ軍人の裁判権はアメリカとする。を基本とする日米安全保障条約を別に締結することで、アメリカと単独講和することにした。
 
しかし学者たちの大半は単独講和に反対し、「ソ連、中国を含めた全面講和するべし、東西どちらの陣営にも属さず中立独立で行くべし。」と主張する。野党の社会党も真っ二つに分裂するほどだった。しかし、首相の吉田は東大総長・南原繁を「現場を知らない曲学阿世の徒!学者の空理空論だ!」と非難、「西にも東にもつかずの中立など、国際政治にはあり得ない。」ときっぱりとメリカ主導の多数講和に踏み切った。
 
条約は共産圏諸国は反発して調印しなかったが、アメリカを始め交戦国すべてが賠償を放棄する。(日本が賠償したのは非独立国なのに戦場になったフィリピンとインドネシアのみである。)日本は台湾、朝鮮、南樺太など全ての植民地を放棄する。(北方四島はもともと日本領土なので放棄していない。)この条約締結により日本は約7年に及んだ占領から晴れて独立回復を果たした。
 
講和と同時に締結した安全保障条約には講和条約と異なり吉田は一人で調印式に臨んだ。これは日米地位協定をはじめ後で問題になることを承知していた吉田が責任を一人で背負ったのだ。吉田は戦後の日本は防衛をアメリカに任せても経済の発展が第一と考えたのである。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 未知の世界。
***  ***
***  *** 下卦は沢。
******** 喜び、親睦。
********
 
「地沢臨」の卦。陽気が充実し春を迎える象である。咸臨丸の名はこの卦から名づけられた。「いよいよこれからだ」という気分である。
 
アメリカを主、日本を従とした安全保障条約には異論もある。しかし当時の日本にとってはそれがベストの選択であったことはその後の経済発展が証明している。「戦争に負けても外交で勝った。」と言えるのではないか。
 
 
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キム・イルソン。1912〜1994
 
東西の冷戦は朝鮮半島において熱戦となる。朝鮮戦争である。日本が戦争に負けた後、朝鮮半島は北緯38度線を境に北はソ連軍、南はアメリカ軍の占領地域となっていた。アメリカは日本の統治にばかり集中していたので朝鮮に気を抜いていた。ここでもソ連を信じていたので、5年後には軍隊の撤退を始めている。
 
これを好機と見たスターリンは北の金正成(キム・イルソン)に一気に出撃し朝鮮を統一せよと命じた。韓国軍は一時総崩れ、全滅寸前までいった。侵略行為とみたアメリカ軍は反撃に転じ逆に北を中国国境まで追い詰める。するとスターリンは空軍を援軍に出し、毛沢東にも援軍を要請した。戦争は猛攻を極め、死者130万人以上と伝えられる大戦争になった。
 
アメリカの司令官はマッカーサーが兼任したが、中国に原爆を投下すべきとの主張を退けられ解任される。戦争はもとの38度線で休戦することになった。しかし、この戦争を通してマッカーサーはかつての日本の立場を知ることになる。日本が明治以後いかにソ連の脅威から、国を守るため骨を砕いてきたか、日清、日露の戦争は何であったかということを。
 
1951年5月、マッカーサーはアメリカ上院の軍事外交委員会で証言する。「日本人の労働力は他のどの国よりも優秀なものです。しかも労働の尊厳を知り勤勉な国民です。しかし、日本は絹以外に固有の産物はほとんど何もないのです。綿がない、羊毛、石油、鉄鋼、ゴム、これらの原料がないのです。これらの原料を断ち切られたら1千万から2千万の失業者が発生することを彼らは恐れました。彼らが戦争に飛び込んだ動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
 
ようやくアメリカの要人の中から日本人性悪説から脱却する発想を唱える人が生まれた。画期的な出来事である。一度思い込みから目覚めると日本人はいかにも素晴らしい国民であることに気が付いた。
 
***  *** 上卦は雷。
***  *** 活動、志、発想。
********
***  *** 下卦は水。
******** 問題、悩み。
***  ***
 
「雷水解」の卦。解は解決する、解けるである。堅い氷がようやく解け始める。ようやく春がきたのである。しかし解放感にひたり過ぎてはいけない。
 
もともと日米は親密な友好国であった。日露戦争後、アメリカが必要以上に日本を脅威と感じ、敵愾心を抱くことになったのである。すべては誤解から生じている。個人で言えば親しかった友達がある時からライバルになり、殴り合いの喧嘩の末にようやく仲直りし、元の親友に戻ったようなものだ。
 
 
 
 
 

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