さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

昭和からの日本

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戦後の教育では日本の近現代については曖昧なままにしてしまいました。その結果、経済だけが優先するだけで本当の日本の姿が明確になっておりません。日本は侵略国なのか、何故大戦争に突入してしまったのか?そんな疑問はしっかり勉強すれば解ることです。不勉強の身ながら、簡潔にしかし基本をはずさないようにお伝えしたいと思います。お付き合い頂ければ幸いです。(猶興)
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アメリカの大失敗

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トルーマン。1884〜1972
 
日米戦争に勝利したアメリカは、その実力からして戦後世界のトップとして君臨しただろうか。残念ながらそうはならなかった。何故か?ソ連の台頭を許した。アメリカは中国の扱いに大失敗したのである。あれ程日本を追い出し日本を叩き潰したかった訳は一に中国が欲しかったからに他ならないのに。
 
いったいどんなミスを犯したのか?戦前のところで蒋介石の妻・宋美齢の話を載せた。ルーズベルトが蒋介石の国民政府を援助して日本軍と戦わした話である。ところが戦後のどさくさに蒋介石を台湾に追いやって毛沢東が中国に共産国家を作ってしまった。これはソ連のスターリンの計画であった。日米を戦争させ、その隙に中国をそっくり共産化するのが狙いだった
 
これはルーズベルトが共産主義を甘く考え、スターリンのしたたかさを見抜けなかったからだ。終戦前にルーズベルトが急死したこともあり、後を継いだトルーマン大統領も大敵日本を倒すことだけに夢中になり過ぎていた。中国の内戦に目を向ける余裕が無かったからでもある。
 
国民政府の中にも共産党を警戒し、蒋介石を説得するものもいた。汪兆銘である。汪兆銘は重慶に逃れた蒋介石に「共産党を信じたら大変なことになる」と訴え続け、自ら南京に親日の新政府を作った。しかし日本を敵視するアメリカに背けない蒋介石は結局のところ共産党の餌食になってしまう。
 
アメリカは取り返しのつかない大失敗をした。あれ程国を挙げて支援した中国を寝取られてしまった。その後アメリカは徹底的な「赤狩り」を始めた。
漁夫の利を得たソ連は勢力を広げ、世界の半分を共産主義にするまでになり、世界は二分され東西冷戦となる。今では中国は民主化もならず軍事、経済に最も警戒する大国になってしまった。
 
******** 上卦は風。
********
***  ***
***  *** 下卦は地。
***  ***
***  ***
 
「風地観」の卦。風が地上を吹き渡る象である。あまねく天下を見渡すのである。風のように素直に従順に冷静に観察するのである。何かにこだわると観えるものも観えなくなる。要注意。
 
スターリンという男。何百万の人民を平気で粛清し、冷徹にして非情な男。まるで悪魔の化身である。しかし、恐らく人類史上群を抜く透徹した眼力の持ち主、天才的戦略家としては、他に追従を許さぬ傑物である。この男に比較すれば、米大統領もヒトラーも子供のようでしかない。

天才少女・美空ひばり

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美空ひばり。1937〜1989
 
焼野原の日本は徐々に復興しつつあった。復興と時を同じくして一人の天才歌手が世に出ようとしていた。美空ひばりである。昭和21年に始まったNHKの「素人のど自慢大会」にひばりは出場した。
 
ところが、結果は不合格。納得できない母・喜美枝は終了後、審査員の古賀政男に「どうか、もう一度娘の唄を聴いてください」と頼み込み古賀の「悲しき竹笛」を歌わせた。古賀はこう言った。「不合格になったのは上手過ぎるからです。娘さんの歌はのど自慢レベルではないんです。歌手になるならがんばりなさい」とエールを贈った。

12歳のとき、映画「悲しき口笛」に出演。シルクハットに燕尾服が大ヒット。レコードは45万枚の最高記録を樹立する。その後は次々と映画と歌が大ヒット、「天才」という声と「子供が大人の真似をして可愛くない」という声、子供ながらも大スターの地位を築く。

16歳の頃には、「お嬢」と呼ばれ、映画ではひばりと共演した男優は大スターになると言われた。中村錦之助、市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健など。NHK紅白歌合戦には17歳から出場、出場17回、10年連続のトリ、33歳の時には大トリと司会を始めて兼任した。江利チエミ、雪村いづみと3人娘と言われたのは18歳の頃からである。

アクション映画のスター・小林旭と結婚したのは25歳の時で2年後には離婚した。「芸を捨て、母を捨てることは出来ない」と語ったが、深い傷を負った。復帰後、最大のヒット曲となった「柔」は180万枚の売り上げ。そのあと、「悲しい酒」「芸道一代」「真赤な太陽」と続く。

40代になり、母・喜美枝、実弟・哲也と武彦、親友・江利チエミと相継いで死別。ひばりに残されたものは歌だけであった。49歳、「愛燦燦」がヒット。しかし、孤独の毎日に酒とタバコの量が増えて行き、少しづつ身体を蝕むことになる。50歳、公演先の福岡で倒れ入院。慢性肝炎、両側大腿骨骨頭壊死で4ヶ月の入院生活。退院後には新曲・「みだれ髪」のレコーディング。
 
51歳、新築の東京ドームにて「不死鳥コンサート」39曲の熱唱。終了後には倒れこんだ。52歳、最後のヒット曲「川の流れのように」しかし、もうひばりの肺は冒されていた。平成元年6月肺炎による呼吸不全のため、死去。
 
***  *** 上卦は沢。
********
********
******** 下卦は風。
********
***  ***
 
「沢風大過」の卦。上下以外は全て陽である。大(陽)が多すぎる象である。バランスを欠くとみる。陽は発展、開花、活躍することであり、華やかである。しかし陽に過ぎることは、内面生活では幸福にはなれない。
 
正に昭和の歌姫として戦後の歌謡界に君臨した。国民は勇気づけられた。ひばりさん、貴女には個人的にももっと幸福になって貰いたかった。
 
ひばりさん、貴女の歌は今でも日本人の心です。今でも日本人は貴女と貴女の歌が大好きです。ご冥福を祈ります。

風の男・白洲次郎

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白洲次郎。1902〜1985
 
日本中がGHQの支配下に置かれ、マッカサーには唯ひれ伏すことしか出来なかった時に、一人だけ遠慮なくものを言った男がいた。白洲次郎である。
 
白洲は芦屋に生まれている。父はハーバート大学にも留学した貿易商の白洲文平。派手に儲け、女を次々つくり、次々と新しい家を新築するのが趣味だった。そんな家庭に育った白洲は中学時代は手の付けられない乱暴者だった。
 
本人は島流しと言ったが中学を卒業するとケンブリッジ大学に留学。そこでは西洋中世史、人類学を学んだ。自動車がなにより好きで名車ブガッティやベントレーを乗り回す。伯爵のロビン・ビングとは親友として付き合い、二人でヨーロッパ一周のドライブをした。卒業後も遊んでいたが、実家の白洲商店が昭和金融恐慌の煽りで倒産したため帰国する。
 
妻となったのは後に骨董家、随筆家となる正子(伯爵・樺山愛輔次女)。正子の縁で吉田茂と昵懇となりイギリスに滞在するときは大使館を定宿にしていたという。終戦後、GHQとの交渉窓口である終戦連絡事務局の責任者になったのは吉田の指名である。ワンマン・吉田にもマッカーサーにも物怖じせず意見を述べた。
 
ある日、マッカーサーに昭和天皇からのクリスマス・プレゼントを届けた時である。職務中だったマッカーサーは「その辺に置いといてくれ。」と言った。それに対して白洲は「その辺に置けとは何事か!仮にも天皇陛下からの贈り物だぞ!」と一喝した。GHQの要人たちは白洲を「従順ならざる唯一の日本人」と言っていた。
 
英語の流暢さは定評があり、GHQの民生局長に「君の英語は一流だね。」と褒められたが、白洲は「あなたの英語も、もう少し勉強すれば一流になりますよ。」とやり返した。白洲は英国文化を吸収していたのでアメリカ文化を成金趣味と見下す癖があったようだ。
 
マッカーサーから貿易庁の初代長官に指名され、「白洲三百人力」と言われる辣腕を振るった。国のためにも働いたが、自分でもしっかり報酬を頂く。実業界に戻ると東北電力会長、大沢商会、大洋漁業、日本テレビ、軽井沢ゴルフクラブなどの会長、役員を歴任。数々の逸話を残して「風の男」は83歳でこの世を去った。遺書には 「葬式無用、戒名不要」と父親と同じ言葉があった。
 
***  *** 上卦は水。
******** 困難、悩み。
***  ***
***  *** 下卦は雷。
***  *** 行動、志、生命力。
********
 
「水雷屯」の卦。困難の多い創業期。生みの苦しみを表す象である。混乱の時代、非常時にはお行儀に良いエリートは何の役にも立たない。こんな時に活躍するのが無頼にも強いかつての暴れん坊である。
 
「われわれは戦争には負けたが、アメリカの奴隷になったのではない。」
 
颯爽と生き、颯爽と去っていった「風の男」。こんな男に会って見たいものだ。
 

廣田弘毅の悲劇

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廣田弘毅。1878〜1948
 
吉田茂と廣田弘毅は共に東京大学卒で外交官試験に同時に合格した同期である。外交官としては吉田は主に中国を担当したのに対し、廣田は主にロンドン、ワシントン、オランダ、モスクワなどの要職を担当している。
 
廣田は吉田より出世が早く、1933年(昭和8年)斉藤内閣に続き岡田内閣でも外相になっている。1936年(昭和11年)2月、2・26事件が起こる。総辞職した岡田内閣の後、指名された近衛文麿は病気を名目に組閣命令を固辞。近衛は親しい吉田に廣田へ内閣引き受けを説得してくれと要請する。
 
吉田は廣田に「このままでは軍部が台頭するばかりだ。なんとか我々文官たちで戦争への道を断ち切らねばならない。俺も精一杯力になるから、内閣を引き受けてくれんか。」と頼んだ。廣田は「とんでもない、総理など俺の器じゃない、断るよ。俺はもともと政治家ではない。出来るのは外交だけだ。」吉田は「戦争を止めるのはお前しか居ないんだ。俺が外務大臣になってお前を支えるから。」廣田は拒み切れずについに承諾した。
 
廣田は吉田の外相が頼りだった。ところが、吉田の外相には軍部からクレームがついた。結局、吉田はイギリス大使に就任したが閣外の大使では実権がない。廣田は已む無く外相を兼務し組閣した。2・26事件後の軍部の大粛清を実行したが、軍部の圧力は想像以上に強硬だった。軍部大臣現役武官制を復活させることにより、内閣は軍部の対外的要求を受け入れざるを得なくなってしまう。廣田内閣は10か月、その後も廣田は一貫して日中戦争には不拡大、日独伊の三国同盟には反対し続けた。
 
戦後の東京裁判で廣田はA級戦犯にされる。南京大虐殺というドイツのユダヤ人大虐殺同様の大事件をねつ造したGHQにとり、その責任を誰かに押し付ける必要があったためである。当時の近衛首相が自殺していたため、外相だった廣田が名指しされたのだ。
 
戦後、日本の再生に取り組んでいた吉田も廣田の裁判は気になっていた。廣田は裁判ではいっさい弁明をしなかった。死刑宣告には「雷に打たれた様なものだ。」と言った。吉田は号泣した。「俺が無理やり総理にさせたばかりにこんなことになるなんて。」GHQには服従していた国民からも数十万の減刑の署名が集められたが、廣田は逍遥として処刑場の露と消えた。
 
***  *** 上卦は水。
******** 困難、悩み、陥る。
***  ***
***  *** 下卦も水。
********
***  ***
 
「坎為水」の卦。坎は艱難に陥ることである。難の遭う卦としては、屯、蹇、困、と合わせて四つあるが、最も災難としては大きい難事である。じたばたせずに次の展開を待つしか方法はない。脱出の道もついにない場合もあるだろう。生死を超えた信念をもつことである。
 
福岡の石屋から身を起こした廣田弘毅。「物来順応」廣田が揮毫の依頼には好んで書いたという。
 
巣鴨プリズン収監中も面会した者に「すべては無に帰す。今更何も言うことはない。自然に生きて自然に死ぬ。」武士道の心だろうか。

吉田茂の言行録

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吉田茂。1878〜1967
 
敗戦からの復興を目指す日本において、吉田茂の存在は大きい。吉田は強いリーダーシップの持ち主で先見の明があった。「戦争に負けて、外交に勝った歴史もある。」と言った通り、混乱期の日本を盛り立て戦後日本の礎を築いた。その風貌と葉巻を愛した共通点から「和製チャーチル」とも呼ばれた。
 
外交官出身で岳父・牧野伸顕とともに親英米派。アメリカとの戦争には反対していた。戦後の東久邇宮、幣原、両内閣の外相に続き、1946年(昭和21年)5月よりより54年12月まで連続ではないが首相であった。
 
日本の経済復興を何よりも優先させるため、アメリカとの信頼関係を築いた。そのため防衛については米軍に駐留させる案を自分から持ち出した。日米安全保障条約には信頼する大臣をも遠ざけ一人で調印した。「孤高のサイン」と言われる。全責任を一人で負うためである。
 
現在の政治家が吉田の真似をしたなら、3日ともたないだろう。何故なら傍若無人とも言える言動である。つまらない閣議なら平気ですっぽかすし、気に入らない新聞記者にはステッキを振り上げたりする。会いたくない客人が来ると居留守を使う。あるとき、その客人が入ってきた時に「本人が居ないと言っているんだから、居ないのだ。」
 
終戦直後、マッカーサーに「食料を450万トン緊急輸入しないと餓死者が出る。」と訴えた。ところが70万トンしか輸入出来なかった。それでも餓死者は出なかった。マッカーサーは「日本の統計はいい加減で困る。」と難癖をつけてきた。吉田は「日本の統計がいい加減だから戦争に負けたのだ。統計通りだったら、日本は勝っていた。」と返したので、大笑いになった。
 
宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯は暖かいだろうね。」と声をかけると、「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます。」と答えて場を和ませた。皇太子が結婚する前に記者に追いかけられて困っていると話すと、「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい。」と返答した。皇太子は「吉田さんのようにはいきませんよ。」と苦笑した。
 
米寿を過ぎてもかくしゃくとしている吉田に、ある財界人が「何か特別のものを召し上がっているのでしょう。」と言うと、「それは君、ワシは人を食っているからね。」と答えた。快晴の富士山を一日中眺めた翌日、逝去した。
享年89歳。戦後唯一の国葬が日本武道館にて執り行われた。
 
******** 上卦は風。
******** 巽順。へりくだる。入る。
***  ***
******** 下卦も風。
********
***  ***
 
「巽為風」の卦。巽は風を象徴する。風はどんなところへも入り込んでいく。柔軟な適応力を表し、決して争うことをしない。賢者は時に相手の懐に入るほどにへりくだるものである。
 
リーダー不在の時代と言われるが、国民も自分が選んだ人には任せるという姿勢も大切ではないだろうか。ちょっとした失言をとらえては「大臣、失格だ!」と騒ぎ過ぎはしないか。そんな環境からは良きリーダーは出現しない。
 
 

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