さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

昭和からの日本

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戦後の教育では日本の近現代については曖昧なままにしてしまいました。その結果、経済だけが優先するだけで本当の日本の姿が明確になっておりません。日本は侵略国なのか、何故大戦争に突入してしまったのか?そんな疑問はしっかり勉強すれば解ることです。不勉強の身ながら、簡潔にしかし基本をはずさないようにお伝えしたいと思います。お付き合い頂ければ幸いです。(猶興)
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天皇のご巡幸

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昭和天皇のご巡幸
 
1945年(昭和20年)10月、天皇は宮内官たちに語った。「この戦争によって国民の多くが家族の生命を失い、大変災厄を受けた。この際、私は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、復興のために勇気を与えることが自分の責任と思う。」宮内官たちは驚いた。歴代の皇室において例のないことであり、なにしろ日本中焼野原である。国民も善意の国民ばかりではない。身の危険もあり、交通手段も宿泊設備すら確保出来そうにない。それにGHQが何というか。
 
GHQの高官たちは「すぐに中止するに決まっている。」「天皇が神様ではなく、人間だと知らせる良い機会じゃないか。」「眼鏡をかけた、猫背の小男を見れば国民は失望するだろう。」そんな思惑もあり、巡幸を許可した。
 
年が明けた昭和21年2月、天皇は背広にソフト帽という軽装で占領色の強い神奈川県から巡幸を始めた。天皇が庶民と話をするのは始めてである。庶民もびっくりして固まってしまう。それでも回を重ねるごとにぎこちなさはなくなり、気軽な言葉が出て微笑ましい光景も見られるようになった。工場や市場、何処へでも行った。
 
炎天下の東北巡幸では常磐炭鉱の地下450Mの坑内まで入った。気温40度の中、半裸で働く坑夫たちは感激し「万歳」を繰り返す。
御製「あつさつよき 磐城の里の炭山に はたらくひとを ををしとぞ見る」
 
満州からの帰国者が入植した浅間山麓は未だ道路もなく、道を急造したが、車は通れない。天皇は2キロの山道を歩いた。開拓団の人たちは皆泣いていた。天皇は開拓者に「随分苦しかっただろうが、よく帰ってくれたね。」と声をかけ、子供たちには「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください。」と声をかけた。
 
広島では7万人の市民が集まった。始めて奉迎場が設けられ天皇はお言葉を述べた。「広島市の受けた災禍に対しては同情に耐えない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。」広島市民の「天皇陛下万歳!」は会場を圧した。
 
九州巡幸は23日間という長丁場、お立ち寄り先は190か所、超強行スケジュール。四国巡幸でも強行スケジュール。同行記者やカメラマンが根を上げた。四国では流石の天皇も微熱を発し、日程を一日延期した。しかし、陛下は一日の休養で回復され、予定をすべてこなされた。天皇は宿に着いても地域の状況を学び、さらに東京からの書類に目を通す。
 
佐賀ではこんなことがあった。二つの位牌を胸に抱いた女の子がいたので、陛下は「お父さん、お母さんは?」と声をかけると、「父はソ満国境で戦死しました。母は引き上げの途中で亡くなりました。」「寂しいでしょう?」すると「私は御仏の子供です。父母に会いたいときは御仏さまの前に座ります。そしてお父さん、お母さんの名前を呼びます。そうすると、お父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、そっと私を抱いてくれます。私は寂しいことはありません。」と答えた。陛下は涙され、その涙が畳の上に落ちると、周りの記者たちも皆もらい泣きした。
御製「みほとけの 教へまもりて すくすくと 生ひ育つべき 子らに幸あれ」
 
なかには反対を叫ぶものもいた。例えば京都大学では「天皇を歓迎せず。」と書いたプラカードを持つ学生がデモを張った。宿泊できる施設がないところもあり、列車のソファーを寝台にしたこともあり、学校の教室にゴザを敷いてお休みになったこともあった。終戦の詔勅「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を天皇自ら実践した。
 
昭和26年11月、巡幸の全日程を終えた。総日数165日、全行程3万3千キロに及ぶ壮絶な巡幸だった。このご巡幸が皇室と国民との絆を堅くし、奇跡的と言われた戦後の復興に、どれ程力になったかは計り知れない。
 
******** 上卦は風。
******** 巽順。へりくだる。入る。
***  ***
***  *** 下卦は地。
***  *** 陰の代表。国民。
***  ***
 
「風地観」の卦。観には二つの意味がある。上から見渡す周観、下から仰ぎ観る仰観である。指導的地位にあるものはあまねく観察し適切な政治をせねばならない。臣民はものごとの真実を見なければいけない。観光という言葉はこの卦が出どころである。
 
いったい、世界の何処にこんな国王や皇帝が存在しただろうか。20世紀の近代史では、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア等、敗戦国の王朝はことごとく亡びた。唯一、日本の皇室だけが例外となった。やはり、日本の天皇は特別である。日本国民にとって皇室との関係は切っても切れない絆で結ばれている。

東京裁判とパール判事

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パール判事。1886〜1967
 
東京裁判はGHQが日本を二度と立ち上がることがないように、日本人に罪の意識を植え付けるために行ったものなのだ。今でも日本が悪いことをしたと思っている日本人が多く存在することは、GHQの目的が大成功を収めたことに他ならない。
 
東京裁判は不公平極まりないものであった。判事と検察官は英米をはじめ、中国、ソ連、カナダ、インドなど連合国側だけで構成され中立国は参加していない。日本側が提出した資料はことごとく無視された。ドイツのユダヤ人大虐殺に匹敵する残虐な行為が無くては日本人を徹底的に貶めることができないと南京大虐殺という大事件までねつ造された。反論はいっさい許されなかった。
 
しかしこの裁判にもごく少数だがGHQの圧力に屈せず、正義を貫いてくれた人がいた。アメリカのブレークニー弁護士とインドのパール判事である。ただし、彼らの同時通訳は打ち切られ、新聞報道も許されなかった。ブレークニー弁護士は原子爆弾の投下はアメリカの戦争犯罪だったと発言した。
 
パール判事はこの裁判が「日本を侵略国と決めつけ、日本人を心理的に支配するものである」と断定した。そしてこれは「勝者が敗者に対して行うリンチにほかならない」と言った。侵略ということに関しては「欧米諸国がこれまでアジアの諸国に対して行ってきた行為こそが侵略ではないか。」「ここには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣しかない。この失われた『法の真理』を奪い返さねばならない。」そして被告人全員を無罪と主張した。
 
パール判事は裁判の後もたびたび日本を訪れた。アメリカから与えられた憲法の許で、アメリカに依存し、歪められた自虐史観やアメリカナイズされた日本人を見て、「日本人よ、日本に帰れ!」と訴え続けた。
 
***  *** 上卦は雷。
***  *** 活動、長男。
********
******** 下卦は山。
***  *** 動かないもの、少男、国民。
***  ***
 
「雷山小過」の卦。小過とは小なるものが多すぎること。小とは陰を意味する。陰の世界に覆われている。お通夜の雰囲気である。ここでは消極的過ぎるほど低姿勢でいなければいけない。
 
パール判事の言葉を聞いて処刑を控えた東條英樹はこんな歌を遺した。「百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る。」
 
安倍晋三元首相は退任する直前にインド訪問をした。パール判事の遺族に会い、慰霊に花を手向け手を合わせた。日本人が感謝をささげなければならない偉人である。
 
 
 

GHQの占領政策

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連合国軍最高司令官総司令部
 
占領軍にとって、日本をいかに統治するかは大変な難問であった。資源の少ないハンディを克服する開発能力、統制の行き届いた軍隊、天皇への忠誠心、優秀で強力な精神力、団結心の強い国民性。世界でも抜群に秀でた国家であることは大戦を通して証明されたからである。終戦後の統治については戦争中から真剣に研究されていた。
 
研究の結果、3R,5D,3Sという政策がつくられた。3Rとは基本原則で1、Revenge(復讐)2、Reform(改組)3、Revive(復活)である。つまりは徹底的に痛めつけて、その後に改革したうえで復活させてやろうというものだ。
 
5Dは重点的施策で1、Disarmanent(武装解除)2、Demilitalization(軍国主義の排除)3、Disindustrialization(工業生産力の破壊)4、Decentralization(中心勢力の解体)5、Democratization(民主化)である。つまりは軍国主義を支えた産業力を打ち壊し、中心的官僚の内務省や財閥を解体し、弱体化させる。そのうえで日本の歴史、思想を曖昧にし、天皇を元首から排除、神道、教育勅語も廃止にし新憲法のもとにアメリカ的民主化を実現させる。
 
3Sは補助政策で1、Sex(セックス)。2、Screen(スクリーン)。3、Sports(スポーツ)である。3R,5Dを円滑に実行させるためには国民のエネルギーを別のものに転化させる必要がある。すなわちセックスの解放、映画、テレビの普及、スポーツの奨励である。
 
日本人の精神性を弱めることを重点に研究されたこの「日本人骨抜き政策」は実行に移され、大成功をおさめる。日本人は喜んで迎合してきた。良い面も多々あったが、この政策に乗じてとんでもない野心家が輩出した。それが日教組などの悪質な労働組合である。
 
民族の誇りを亡くした彼らは自分の勢力拡大のために政界、教育界など日本の根幹ともいうべき位置に居座り、日本人の堕落、弱体化に力を注いだ。謝罪外交や教育の平等主義、自虐的歴史観などはここから始まっている。
 
***  *** 上卦は雷。
***  *** 活動、野心、計画。
********
***  *** 下卦は地。
***  *** 国民、従順、随う。
***  ***
 
「雷地予」の卦。予には楽しむ、怠る、予めの三つの意味がある。活動するものが上にあり、国民が随っていくという象である。リーダーの志がどこにあるかが最も重要である。
 
アメリカの日本に対する戦後処理は戦争以上に大成功だった。以後アメリカはベトナムでもアフガンでもイラクでも同じようにやろうとしたが失敗する。何故なら成功したのは日本人の国民力が卓越していたからである。
 
 
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マッカーサー。1880〜1964
 
敗戦した日本はアメリカを中心とする連合国により占領された。占領国の絶対的統治権をもって日本に来たのがダグラス・マッカーサーである。当時ワシントンではドイツのおけるヒトラーと同様に日本の戦争責任を厳しく責め、2度と立ち直れないように処分する構えだった。そのため最高責任者として天皇は死刑にすべきという意見が強かった。
 
1945年(昭和20年)9月27日、昭和天皇はマッカーサーと会見するためにアメリカ大使公邸に向かった。天皇は通訳と2人だけでマッカーサーの待つ迎賓室に通される。天皇とマッカーサーは握手をし、挨拶を交わす。マッカーサーは天皇が戦争犯罪者として起訴されないように、自分の立場を訴えるのではないかと思っていた。
 
しかし天皇の口から出た言葉は意外なものだった。天皇はこう言った。「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものです。私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねます。」続けて「責任は全て私にある。文武百官は私の任命するところだから彼らには責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」
 
マッカーサーは衝撃を受けた。感動した。同時に(これは大変なことになった。)と思った。天皇から全責任を負うという重大発言を聞かされたからだ。このままワシントンに報告したなら間違いなく死刑になる。自ら責任があるというなら、責任を取らせるべきだと裁決されるだろう。
 
マッカーサーは天皇の崇高な態度に心から敬服した。(流石はサムライの国のエンペラーだ。このエンペラーを戦犯になどにしたら、国民の怒りは計り知れない。そうなれば占領統治は不可能だろう。)そして答えた。「陛下、今のお言葉はここだけの話にして下さい。私もいっさい口外しません。日本国民への最大の援助はお約束いたします。」迎える時は玄関にも出なかったマッカーサーだが、帰る時は車の側まで丁重に見送った。
 
******** 上卦は天
******** 陽の代表。大きな権力。
********
***  *** 下卦は沢。
******** 内剛外柔。喜んで随う。
********
 
「天沢履」の卦。履とは虎の尾を踏む。危険を恐れず一歩を踏み出すこと。その志正しければ、勇気は報われるだろう。
 
この二人の会話は二人の秘密の筈であったが、後にマッカーサーが回想録の中で語ったので一般にも知られることになった。
 
この会見から奇跡的復興と言われる戦後の日本がスタートする。

ヤルタ会談。

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ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズベルト、スターリン
 
戦争の勝敗は目に見えてはいるものの、日本の抵抗はもの凄く、また何が飛び出すか解らない。日本の強さに恐れをなしていたルーズベルトはチャーチルに相談する。「それじゃあ、あのワルに手伝って貰うか。」チャーチルを交えてソ連のヤルタに於いてルーズベルトはスターリンと会談した。「日本との中立条約なんか反故にして援護して貰えないか。」
 
狡猾なスターリンは「あの日本にも仁義があるからな。」一旦は断る。そして「引き受ける条件として満州、南カラフト、千島列島を貰えるか。」ルーズベルト「よし、解った。ドイツが降伏したら、なるべく早く参戦してくれ。遅くとも3か月以内には。」スターリン「よし、解った。日本を裏切る。」1945年2月、マフィアのボスたちも驚くような密談で秘密協定が出来た。
 
日本とソ連が日ソ中立条約を結んだのは、1941年4月のことである。相互の不可侵条約もある。この条約の有効期限は5年間と定められていたから後1年はある。その間、ドイツ軍とソ連軍が「大祖国戦争」を起した。もしも、日本が三国同盟を盾に中立条約を守らず背後から攻撃したならソ連は一たまりもなかったのだ。
 
まさか不可侵条約をソ連が破るなどとは疑いもしない日本はヤルタ会談が行われている頃、何とか講和の仲介をソ連に頼もうとしていた。実現しない筈だ。相手は裏切ろうとしていたからだ。それでもドイツが降伏してもソ連は直ぐには攻めて来なかった。日本が恐かったからである。広島に原爆が投下され日本の敗北が決定的になった8月8日、満身創痍の日本にいきなり宣戦布告し襲いかかってきた。
 
満州、樺太、千島列島を一網打尽にする。居住している272万6千人のうち軍民約107万人が囚われる。シベリアやソ連各地に送られ家畜同然の扱いで強制労働を強いられた。34万人が死亡又は行方不明である。ソ連の条約違反は国際法に照らしても許されざる暴挙であり犯罪である。40年前の日露戦争の報復としか言いようがない。
 
******** 上卦は天。
******** 陽の代表、大、強、支配者。
********
***  *** 下卦は地。
***  *** 陰の代表、小、弱、国民。
***  ***
 
「天地否」の卦。天は上を向き、地は下を向いて、上下和合しない象。強いものが弱いものを踏みつけている。意思の疎通が全くなく、閉塞状態。小人の道が横行し、君子の道は亡びる。
 
日露戦争後の講和は米・ポーツマスにおいて17回の話し合いの末、正式に成立した。
 
ヤルタ会談は相手の当事国なしの密談である。北方四島の領土問題はここに端を発する。

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