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昭和天皇のご巡幸
1945年(昭和20年)10月、天皇は宮内官たちに語った。「この戦争によって国民の多くが家族の生命を失い、大変災厄を受けた。この際、私は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、復興のために勇気を与えることが自分の責任と思う。」宮内官たちは驚いた。歴代の皇室において例のないことであり、なにしろ日本中焼野原である。国民も善意の国民ばかりではない。身の危険もあり、交通手段も宿泊設備すら確保出来そうにない。それにGHQが何というか。
GHQの高官たちは「すぐに中止するに決まっている。」「天皇が神様ではなく、人間だと知らせる良い機会じゃないか。」「眼鏡をかけた、猫背の小男を見れば国民は失望するだろう。」そんな思惑もあり、巡幸を許可した。
年が明けた昭和21年2月、天皇は背広にソフト帽という軽装で占領色の強い神奈川県から巡幸を始めた。天皇が庶民と話をするのは始めてである。庶民もびっくりして固まってしまう。それでも回を重ねるごとにぎこちなさはなくなり、気軽な言葉が出て微笑ましい光景も見られるようになった。工場や市場、何処へでも行った。
炎天下の東北巡幸では常磐炭鉱の地下450Mの坑内まで入った。気温40度の中、半裸で働く坑夫たちは感激し「万歳」を繰り返す。
御製「あつさつよき 磐城の里の炭山に はたらくひとを ををしとぞ見る」
満州からの帰国者が入植した浅間山麓は未だ道路もなく、道を急造したが、車は通れない。天皇は2キロの山道を歩いた。開拓団の人たちは皆泣いていた。天皇は開拓者に「随分苦しかっただろうが、よく帰ってくれたね。」と声をかけ、子供たちには「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください。」と声をかけた。
広島では7万人の市民が集まった。始めて奉迎場が設けられ天皇はお言葉を述べた。「広島市の受けた災禍に対しては同情に耐えない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。」広島市民の「天皇陛下万歳!」は会場を圧した。
九州巡幸は23日間という長丁場、お立ち寄り先は190か所、超強行スケジュール。四国巡幸でも強行スケジュール。同行記者やカメラマンが根を上げた。四国では流石の天皇も微熱を発し、日程を一日延期した。しかし、陛下は一日の休養で回復され、予定をすべてこなされた。天皇は宿に着いても地域の状況を学び、さらに東京からの書類に目を通す。
佐賀ではこんなことがあった。二つの位牌を胸に抱いた女の子がいたので、陛下は「お父さん、お母さんは?」と声をかけると、「父はソ満国境で戦死しました。母は引き上げの途中で亡くなりました。」「寂しいでしょう?」すると「私は御仏の子供です。父母に会いたいときは御仏さまの前に座ります。そしてお父さん、お母さんの名前を呼びます。そうすると、お父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、そっと私を抱いてくれます。私は寂しいことはありません。」と答えた。陛下は涙され、その涙が畳の上に落ちると、周りの記者たちも皆もらい泣きした。
御製「みほとけの 教へまもりて すくすくと 生ひ育つべき 子らに幸あれ」
なかには反対を叫ぶものもいた。例えば京都大学では「天皇を歓迎せず。」と書いたプラカードを持つ学生がデモを張った。宿泊できる施設がないところもあり、列車のソファーを寝台にしたこともあり、学校の教室にゴザを敷いてお休みになったこともあった。終戦の詔勅「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を天皇自ら実践した。
昭和26年11月、巡幸の全日程を終えた。総日数165日、全行程3万3千キロに及ぶ壮絶な巡幸だった。このご巡幸が皇室と国民との絆を堅くし、奇跡的と言われた戦後の復興に、どれ程力になったかは計り知れない。
******** 上卦は風。
******** 巽順。へりくだる。入る。
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*** *** 下卦は地。
*** *** 陰の代表。国民。
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「風地観」の卦。観には二つの意味がある。上から見渡す周観、下から仰ぎ観る仰観である。指導的地位にあるものはあまねく観察し適切な政治をせねばならない。臣民はものごとの真実を見なければいけない。観光という言葉はこの卦が出どころである。
いったい、世界の何処にこんな国王や皇帝が存在しただろうか。20世紀の近代史では、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア等、敗戦国の王朝はことごとく亡びた。唯一、日本の皇室だけが例外となった。やはり、日本の天皇は特別である。日本国民にとって皇室との関係は切っても切れない絆で結ばれている。
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