さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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良寛の死

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解良家に残る良寛の書(心月輪)
 
晩年の良寛は木村家の他にも阿部家、解良(けら)家にも寝泊りしている。良寛が73歳で亡くなったときに20歳だった解良栄重(よししげ)は子供の頃からの良寛の逸話を「良寛禅師奇話」としてまとめている。こんな記述がある。
 
「師、余が家に信宿日を重ぬ。上下自ら和睦し、和気家に充ち、帰去ると云ども、数日の内、人自ら和す。師と語ること一夕すれば、胸襟清きことを覚ゆ。師、更に内外の経文を説き、善を勧むるにもあらず。或は厨下につきて火を焚き、或は正堂に座禅す。其話、詩文にわたらず、道義に及ばず、優游として名状すべきことなし。只道徳の人を化するのみ。」
 
良寛の人柄が偲ばれる一文である。晩年の良寛は誰からも慕われ尊敬されていた。その良寛も70代になると寒中の独り暮らしが原因だろうひどい下痢に悩まされた。それでも阿部定珍や貞心との歌のやりとりが何よりの楽しみだった。とくに貞心から歌が届くと小躍りして喜んだ。
天が下に みつる玉より黄金より 春のはじめの 君がおとづれ
秋萩の 花咲くころは 来て見ませ 命またくば 共にかざさむ
 
夏のある日、貞心が良寛の庵を誘うと庵は留守だった。ふと見ると花がめに蓮の花が活けてあった。
来て見れば 人こそ見えね いほもり(庵守)て にほふ蓮の 花の尊き
貞心にとって良寛は蓮の花だった。良寛の死後、貞心は「はちすの露」という歌集を編んだがこの歌が基ではないだろうか。良寛にとっても貞心は天が贈ってくれた一輪の花だった。
 
1830年の暮れ、73歳の良寛は急に重体に陥った。貞心は人の知らせでかけつける。良寛は貞心を待ちわびていた。
いついつと 待ちにし人は きたりけり 今はあひ見て なにかおもはむ
貞心は片時も離れず看病した。(以前は医師の妻、心得はあった。)
生き死にの 堺はなれて 住む身にも 去らぬ別れの あるぞかなしき
歌を良寛に見せると、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」最後の返し歌である。正月6日、貞心や弟・由之に見守られ静かに息をひきとった。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 大地、陰の代表
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 勤勉、動かざるもの
***  ***
 
「地山謙」の卦。謙は謙遜、謙虚の謙である。高い山が地の下に隠れている象を表している。「稔るほど頭をたるる稲穂かな」 教養もあり、心の豊かな人が、己を虚しくして人にへりくだるとき、その香気は一層光輝くものである。
 
名主の身分を捨て、心の豊かさだけを追求して生きた良寛。財産という財産は何も所有しなかった良寛。何も持たなかった良寛こそ最も豊かな人生を生きたのではないだろうか。経済至上主義の現代人に良寛は何を語るのか。
 

良寛の恋

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貞心尼。1798〜1872
 
60代の良寛は五合庵を出て、乙子神社の草庵に移り、さらに69歳からは三島郡島崎の能登屋・木村家の邸内に作られた庵に移り住んだ。地元の豪農たちが病気がちの良寛を案じたからである。
 
70歳の秋のことである。出かけていた良寛が庵に帰ってくると、一通の手紙が小さな手毬と共に置いてあった。そこには「これぞこの ほとけのみちに あそびつつ つきやつきせぬ みのりなるらむ」と一首の歌が添えてある。歌を教えて欲しいということである。伸びやかな素直さを感じさせる美しい字に良寛の心は動かされた。
 
すぐに良寛は筆を手にした。「つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとをさめて またはじまるを」歌の修行も、仏道の修行も始めて見ないかと記した。手紙の主は30歳の貞心尼。やがてその人は喜び感激してやってきた。色白で黒衣が似合う、清楚だが凛とした聡明さを秘めた美しい女性だった。良寛は歌を見た時以上に少年の様なときめきを覚えた。
 
貞心は初めて会った良寛を見て
君にかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ
お返しに良寛は
夢の世に かつまどろみて 夢をまた かたるも夢も それがまにまに
話し込むうちに時を忘れて、月が中天高く昇っていく
むかひゐて 千代も八千代も 見てしがな 空ゆく月の こととはずとも
貞心が詠めば良寛も返す
心さえ かはらざりせば はふたつの たえずむかはむ 千代も八千代も
いよいよ別れて帰るというとき
たちかへり またもとひこむ たまほこの 道の柴草 たどりたどりに
貞心が詠めば良寛は返す
またもこよ 柴のいほりを いとはずば すすき尾花の 露をわけわけ
 
貞心は長岡藩士の子として生まれ、18歳で医師に嫁いだが5年後に夫と死別。親の反対を押し切り柏崎の尼僧・眠龍、心龍の姉妹に師事して尼僧の修行に入る。苦しい修行の末、27歳ころ長岡市福島の閻魔堂に住む。修行時代は美人尼と噂がたち、托鉢に出ると絶えず監視の目に遭う。必ず後ろに婆さんが2,3人ついて来てお布施を取り上げられたという。良寛との歌のやりとりは「はちすの露」として貞心がまとめた。貞心にとっても最も充実した女の盛りでもあった。
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜ぶ、はじける、若い女
********
******** 下卦は山
***  *** 勤勉、動かない、若い男
***  ***
 
「沢山咸」の卦。咸は感動、感激の感と同意。心のふれあいである。心のふれあいがあるから人間が人間でいられる。社会の成り立ちも心の触れ合いを大切にしなくては成り立たない。
 
良寛が人生の最後に貞心尼と巡り合う。ここに人生の最大のドラマがある。名も利も捨てた何も持たない良寛が最後に得たものは、この世で最も美しいもの、最も尊いもの、それは素敵な恋人だった。
 
 
 

良寛の学識

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亀田鵬斎。1752〜1826
 
50代の良寛は越後では群を抜いた学識を身につけていた。漢詩、和歌、書において当代一流の教養人と言って過言ではない。良寛の学識の高さを証明する逸話がある。
 
江戸で千人を擁する塾を開いていた儒学者・亀田鵬斎がいた。老中・松平定信が行った寛政異学の禁(朱子学以外は認めないとする)により、塾を閉鎖することになる。豪放磊落で知られる鵬斎は酒を友に東北へ2年間の旅に出る。越後に滞在したとき、良寛を五合庵を訪ねる。59歳の鵬斎と53歳の良寛は意気投合した。街に出て大いに酒を飲んだ。
 
そのとき良寛は鵬斎を詠じて
鵬斎は倜儻(てきとう)の士/何に由ってか此の地に来る/昨日、閙市(どうし)の裡(うち)/手を携へて笑、咍々(かいかい)
一方、鵬斎も良寛を詠じて
爾(なんじ)を羨む能く超脱/僧と雖も僧に類せず/酒盃、千万鈞(きん)/談笑、一龕灯(がんとう)/去住、心に着くる無く/人天に事へて憑(よ)るべし/我を伴うて五獄に終り/彼岸且(しばら)く登ること遅し
 
その後江戸に帰った鵬斎は良寛のことを喜撰(きせん)法師以来の傑僧だと周囲に語っている。(喜撰法師は平安初期の僧で六歌仙の一人。「わが庵はみやこのたつみ鹿ぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」百人一首)
 
五合庵の良寛は座禅もしたが、勉強も半端ではない。詩は唐の寒山、書は唐の懐素(かいそ)、歌は万葉集を手本にした。全て書は人に借りたが、貸してくれる知人は何人もいた。最も世話になったのは前回登場した阿部定珍(さだよし)である。例えば当時出たばかりの20巻の万葉集を定珍が買ったと聞くと、早速後半の10巻を借りてむさぼるように読んだ。良寛は恐るべき記憶力の持ち主だったとみえ、歌を殆ど暗記してしまう。そして早く前半の10巻を貸してくれと手紙を書いている。「正月には」と言われ、こんな歌がある。
なんとなくこころさわぎて いねられず あしたははるのはじめとおもへば
 
******** 上卦は天
******** 広い社会
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
 
「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする人。同人雑誌などに用いる。ある文化に集まる同人たちが、高い天に向かってはばたくことでもある。君子はいかに良い同人を集めるかが大事なところである。
 
良寛は涙を流して「正法眼蔵」を読んでいる。祖師・道元に心から随っているが、道元は「修行者は詩や歌に心を奪われてはいかん」と言ってる筈だ。そこだけは考えが違っていたようだが、だからこそ良寛の魅力は輝きを放つのではないか。

良寛の交友

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五合庵のある国上山
 
良寛は黒衣をまとう僧ではあったが、寺の住職でもなく、人前で経を読むこともせず、葬式もしない。それでも次第に土地の人に愛されていた訳は何故だろうか。それは自己にはきびしい修行者であったが、他者には損得抜きの純粋無垢な愛情を注いでいたからに他ならない。
 
とかく孤独な印象を与えるが、良寛は人と共に生きた。親しい友達もいて、その家族ごと愛情を注いでいる。昔からの学友である医師の原田鵲斎(じゃくさい)との交友ではいかに良寛の情が深かったかを物語る。原田家で二人の幼子が亡くなったときに送った手紙にこんな歌が残っている。
人の子の 遊ぶを見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも
 
5歳年下の学友であった三輪左一とも深い交友を窺わせる。三輪左一は与板の豪商・回船問屋大阪屋三輪家の人であるが、純粋に良寛を尊敬して師事していた。禅僧仲間では20歳年上の円通庵の住職である有願(うがん)がいる。有願は詩、歌、書、画に優れてお互いに庵を訪ねては酒を酌み交わした。デブの有願と痩身の良寛が仲よく一緒に歩く姿は滑稽に見えたという。
 
良寛、51歳の時、長く付き合っていた二人が相次いで亡くなる。とくに自分より若い弟子・佐一の死はショックだった。寂寥に耐えきれずホトトギスの鳴く山の中を「佐一、佐一」と泣きながら歩き回った挙句、病に倒れてしまった。
佐一我をすてて何処にかゆける/有願相次いで黄泉に帰す/空牀ただ一枕を余してあり/遍界寥々知音まれなり

庄屋で酒造業を営む20歳年下の阿部定珍(さだよし)とも親しく交わっている。定珍は教養ある文化人であり良寛とは歌のやりとりが楽しみで、酒を携えては五合庵を訪ねている。こうして良寛は相手の身分などお構いなく、気を許した相手とは喜んでお付き合いをしている。
 
又、托鉢先で知り合った子供たちとも遊び、貧しい農家の年寄りとも、縁側で喜んで酒を酌み交わしてもいる。人の見ない所で修行と勉強は怠ることはなかったが、誰とでも気軽に交わった。ただ、仏教や修行の話をせず、人に説教をすることは無かった。そこが良寛の良寛たるところである。
 
******** 上卦は風
******** 従順、謙虚、へりくだる
***  ***
******** 下卦も風
******** 
***  ***
 
「巽為風」の卦。巽(そん)は巽徳という言葉があり、謙遜、へりくだる、譲るという徳である。巽は入るという意味もあり、どんな隙間でも入ることである。君子は信念を持ちながらも常に謙虚に事を行うのである。
 
良寛は祖師・道元のように生死を超越出来る境地には生涯達することはなかった。親しい人を失ったときは、人一倍涙を流した。葬儀をしない僧ではあったが、それ以上に涙で死者を弔った。派手な葬儀より、良寛の涙の方が逝くものにとっては、どんなにか有難かったことだろう。
 
 

良寛が求めたもの

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良寛記念館からの夕日
 
今よりは ふる里人の 音もなし 峰にも尾にも 雪のつもれば
柴の戸の 冬のゆふべの さびしさは うき世の人の いかで知るべき
 
良寛の五合庵の生活はいかがであったろうか。一軒一軒托鉢して歩く良寛はどんな思いであったろうか。雨の日も風の日も国上山の急坂を下って人里へ行き、燕、島崎、出雲崎のどこかを毎日歩いた。東北の農民は見知らぬよそ者を簡単に受け入れない。始めの内は相手にもされなかったであろう。それでも飽きることなく歩くうちに、その謙虚な姿に次第に親しみを持ってくれたようである。
 
良寛があくまで托鉢僧として寺を持とうとしなかったのは、当時の仏教界に対する痛烈な抗議の思いがあったのだ。江戸時代は僧侶が幕府によって保護された時代であった。反面、僧侶が最も堕落した時代でもあった。僧たちは競って名利を求め、檀家の施しを受けて贅沢に暮らすものもいた。良寛は出家して僧になりながらも修行心を捨てた僧が許せなかった。
 
良寛は世の中の動きを見るにつけ、時代とともに移り行く世間の常識にも冷ややかな目で見ている。
 
昨日の是とするところ/今日また非/今日の是とするところ/いづくんぞ昨非に非ざるを知らんや/是非に定まれる端なし/得失あらかじめ期し難し/愚者はその柱(じ)を膠(こう)す/何の参差(しんし)ならざることをあらん/知あるものはその源に達(いた)り/逍遥、しばらく時を過ごす/知愚ふたつながら取らず/始めて有動の児と称せん
 
「柱(じ)を膠(こう)す/何の参差(しんし)〜」の意味は柱(じ)は琴柱(ことじ)のことで、琴の弦に立ててそれを移動して音の高低を調節する為の具のこと。膠(こう)すとは膠(にかわ)で塗り固める意味で「柱(じ)を膠(こう)す」とは音程を変化させることが出来ない。参差(しんし)は食い違い。つまりは、愚者は考えを変化出来ずに食い違いに気づかないという意味である。
 
良寛は昨日と今日で変わる世間の常識に流される生き方に警鐘を鳴らした。もっと本源的な処に心の拠り所を置けと言っている。良寛は道元禅師の教えに従い短い人生を最も尊いものだけを求めて生きようとしたのだ。それは名でも利でもない心の豊かさである。何も持たない良寛こそが実は最も豊かな人だったのではないか。
 
******** 上卦は風
******** 従順、何処にでも入る。
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 動かざるもの
***  ***
 
「風山漸」の卦。漸はゆっくりと着実に進むこと。樹木が目には見えない速度で着実に伸びていく象である。大きな希望を実現させようとするときは、急いではいけない。着実に一歩一歩進んでいくことが重要である。
 
良寛は最も大切なものを向きになって求めた。始めは理解する人もいなかっただろう。しかし、徐々にではあるが理解者が増えてきた。やはり諦めてはいけない。「継続は力なり」良寛に学ぶところは大きい。

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