さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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璋子の出家

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藤原忠通。1097〜1164
 
 
宮中の勢力は関白・忠通が鳥羽上皇と得子(なりこ)に近づいて来てから璋子(たまこ)と崇徳には暗雲が垂れ込める。何故、関白・忠通は璋子と崇徳を憎むのだろうか。
 
かつて璋子との縁談を断り冷や飯を食わされた恨みもあろうが、忠通には忠通の信念もある。それは崇徳が白河法皇が璋子に生ませた子だからである。忠通は鳥羽上皇にも得子にもこう言った。「天皇家は清く美しく在らねばなりません。白河法皇のされたことは、日本の天皇家にあってはならぬことです。崇徳の血は不純なものです。崇徳の血は受け継いではいけないものです。得子さまこそ天皇家に相応しい国母なのです。あの二人を遠ざけることを、決してためらってはなりません。」
 
得子に皇子が生まれ、数えの3歳になると23歳の崇徳天皇は、鳥羽上皇の強制によって譲位させられた。その後忠通は陰謀を廻らせ璋子の追放を図る。璋子が神社の半官、巫女たちに得子を呪詛させているという噂を流し、半官たちを捕えて処罰を加えた。璋子は居場所を追われるように出家することになった。宮廷しか知らない璋子の侘び暮らしはいかがだったろうか。その3年後に璋子は45年の生涯を閉じた。 
 
待賢門院璋子は悪女だったろうか。美しく生まれてきたことは罪だったのか。白河法皇が養父以上の愛を注いでしまったのはその美しさ故である。璋子は屈託がなく、素直で健康的だった。スキャンダラスな一面も持ち合わせていたが、争いは嫌いだった。入内後は夫の鳥羽上皇、皇子たち、皇女たち、世話をかける女房達、宮中の幸せと平和を望んでいた。
 
夫の鳥羽上皇も璋子を遠ざけたものの、璋子への愛は変わらなかった。その突然の死には立ち直れないほど悲しみに暮れた。一部の者に忌み嫌われた原因は白河法皇だった。白河さえ常識をわきまえてくれたら悲劇は無かった。そして白河の蒔いた種はますます狂った果実となって宮廷に降りかかってくる。
 
璋子の死後、西行は長く璋子に仕えた堀河局にこんな歌を送った。
「尋ぬとも 風のつてにも きかじかし 花と散りにし 君が行方を」
堀河の返し歌
「吹く風の 行方しらする ものならば 花とちるにも おくれざらまし」
傷心を抱いたまま西行はその後東北への旅に立つ。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明
********
******** 下卦は山
***  *** 動かないもの
***  ***
 
「火山旅」の卦。楽しい旅行ではない。流浪する。国を追われるような旅である。孤独がつきまとう。「旅は貞ならば吉」とある。正しいことが身を守る。
 
璋子は宮廷を追われて3年後に亡くなった。しかし、西行はその後の45年の生涯を璋子の思い出とともに生きてゆく。
西行の歌には花と月が多い。西行にとって花も月も全ては璋子である。
 
 
 

蛍の舞う頃。

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蛍狩り。
 
佐藤義清(のりきよ)が北面の武士として務め始めた頃には、既に白河法皇は亡く、鳥羽上皇の側には中宮・璋子(たまこ)に代わって得子(なりこ)が女御として勢力を増していた。しかし、義清には一目見た時から中宮・璋子の存在は絶対なもので、その子である崇徳天皇も絶対なものであった。
 
義清が御所に勤めて4年目の夏のことである。中宮に仕える女房である堀河から文が届いた。(堀河は宮中一の才女であり、その和歌は小倉百人一首にも選ばれている) 文を開けると「蛍の舞う頃、刀を忘れて浴衣姿で庭へ参られよ。」とあった。義清は刀を忘れてとは仕事ではなく、遊びにということ、蛍狩りの会をするのでその場で歌を作れということと理解した。
 
うす暗くなった頃を見計って、中宮の住む屋敷の庭へ来た。十数人は集まって居ようとは思ったが、誰一人来ていない。しばらく庭の隅に立っていると、縁側から中宮の声がかかった。「のりきよ、よくぞ参った。さあ、こちらへ参れ。ともに蛍でも眺めようではないか。」居るのは璋子その人だけである。「かしこまりました。」と答えて近くに寄ったが、内心では心臓の音が聞こえるのでないかと思った。
 
一介の武士が中宮の座敷に登るなどあり得ないことだが、悪戯好きで奔放な中宮の為せる行為か。それとも上皇の渡りもなくなり、晴れない中宮を慰めんと堀河が企んだことか。側で見る中宮の溶けるような色と香りに義清は平静を装うのが精いっぱい、天女と雲の上に居る様であった。
 
酒と馳走の用意もある。「さあ、お酒でもどうだ。」璋子は御手ずから酒を振る舞った。夢のような時がゆっくりと流れてゆく。言葉は少なかったが、璋子は「私はいづれ出家する身。今宵は中宮でもなければ崇徳の母でもない。そなたの女になりたい。」そんなことを口にした。義清は目の前の天女に息を合わせる。璋子が帯を解くのと義清が帯を解くのは同時だった。真夏の世の夢であり運命の一夜であった。
 
義清は璋子のためにならいつでも死ぬと覚悟していた。それが女になりたいと言われたら、例えその後何が起きようが、何を失おうが全ては本望というしかない。義清に迷いはない。これからも璋子のために生きていくだけだ。その後、義清は璋子より一足先に出家することになった。
 
***  *** 上卦は水
********
***  ***
******** 下卦は火
***  ***
********
 
「水火既済」の卦。既済(きせい)は成就、完成。陰と陽の組み合わせが全て正しく、理想の卦とも言える。しかし、易は変化を説くもの。完成は同時に崩壊の始めなのである。
 
世の中は社会的や経済的では解決できない何かが支配する。人間はその大きな力には従わざるを得ない時がある。後悔しないことである。それが自分の人生と信じることである。

璋子との出会い。

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待賢門院璋子。1101〜1145
 
璋子(たまこ)が17歳になったので白河法皇は関白の藤原忠実に息子の忠通の妻とするように申し渡した。ところが忠実は評判の悪い璋子との縁談を拒否する。この為、忠実は関白の位を追われているから余程のことである。この一件も後に悲劇を招く要因となる。
 
そこで、白河法皇は孫である2歳下の鳥羽天皇の中宮とする。鳥羽天皇と璋子の間には6人の皇子・皇女が生まれているので夫婦仲は良かった。しかし法皇と璋子との関係はしばらく続いていたので、始めに生まれた皇子(後の崇徳天皇)が法皇の子であると知ると鳥羽天皇は倒錯した恨みが膨らんでいく。
 
さらに法皇は璋子の生んだ皇子の成長が待ちきれず、5歳になると鳥羽天皇を退位させ崇徳天皇を即位させる。その6年後に法皇は亡くなった。法皇の死後、今度は上皇となった鳥羽が院政を布くことになる。鳥羽にはどうにもならなかった重石が取れた。鳥羽は白河法皇に位を追われた関白・忠通を復権させる。
 
そこに若い女が現れる。後の美副門院得子(なりこ)である。鳥羽は若い得子(なりこ)を寵愛し、璋子からの妖しい呪縛から解放されてゆく。そんな宮中の複雑な愛憎劇など若い武士たちには知る由もなかった。 
 
西行(佐藤義清)が北面の武士として鳥羽上皇の院御所に伺侯したのは19歳であり、待賢門院璋子が36歳、崇徳天皇18歳のときであった。御所の庭は満開の桜。廊下を歩く璋子を一目見たときに義清の全身に電気が走った。その匂うばかりの美しさは花の精だろうか、この世のものではない。義清は完全に打ちのめされ心を奪われた。「このお方のためならいつでも死ねる。」そう感じた。 
 
***  *** 上卦は沢
******** 若い女
********
******** 下卦は山
***  *** 若い男
***  ***
 
「沢山咸」の卦。咸は感と同意。感激、感動である。若い男性が若い女性に恋の火花を散らす。
 
感動や感激は理屈ではない。せよと言われて出来るものでもなく、するなと言われて止めらるものでもない。自然に心が感応するのである。
 
 
 
 

亢龍悔有り

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白河法皇の石標。
 
西行が出家をすることになった最大の原因は崇徳(すとく)天皇の母である待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)である。以下璋子で語るが、璋子を語るにはこの時代の最大の権力者である白河法皇から語らねばならない。
 
白河法皇(1053〜1129)は20歳で即位し天皇になる。しかし弟に譲位させようとする勢力が強かったため、8歳の実子(堀川天皇)に譲位し自らは上皇となって院政を布くことに。さらに堀川天皇が若くして亡くなったため、孫である4歳の鳥羽天皇を即位させ引き続き実権を持つ。鳥羽天皇が成人になり政治に口を出すようになると、無理やり引退させて曾孫である5歳の崇徳天皇を即位させたのである。その時、法皇71歳。
 
実に43年間にわたる白河法皇の院政が後の世を乱していく。しかも法皇の女性関係が常識を外れていた。中宮・賢子の死後、身分を問わず次々と女性と関係を作っていき、関係した女性は次々家来に与えた。平清盛の父・忠盛もその一人であったため、清盛が法皇のご落胤という話が出ている。
 
子が出来ない愛妾の祇園女御に懇願され、重臣である美男美女夫婦の藤原公実、光子夫妻から女子を貰い受け養女とする。この子が璋子(たまこ)である。璋子は玉のように美しく育つ。皇女にしては奔放な性格で、男たちは一目で恋心を抱くセクシーな一面があった。入内前に若い貴公子とも出入りの美僧とも関係を持った。
 
さらに驚くべきことに、あろうことか法皇が愛しさの余り男女関係に。ひたすら隠されたことだが、やがて宮中を乱す最大原因となる。
 
******** 上卦は天
******** 剛健、発展、陽の代表。
********
******** 下卦も天
********
********
 
「乾為天」の卦。乾は創造力、天下統御、大なるエネルギー。英雄の一生を表すが、最後の章に「亢龍悔有り」とある。登り過ぎた龍が災いをもたらすことである。君子は退くときには退かねばならない。
 
「亢龍悔有り」はいつの時代にもある。政治家にも経営者にも学者にも家庭にもいる。いつまでも元気でいることは良いことだが、若いものに任せ、従うことも大切なことだ。
 
 
 
 

北面の武士。

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西行。1118〜1190
 
「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
名僧のトップバッターは西行法師。西行と言えば僧よりも歌人として有名である。「新古今和歌集」には最多の94首が入選している。
 
西行は出家してからの名で、本名は佐藤義清(のりきよ)。義清は武士であった。鳥羽上皇に仕えた北面の武士である。北面の武士とは上皇を警護する役目で武士の中でもエリート中のエリートといえる。出自も名家であり、奥羽・平泉を根拠地として栄えた藤原三代の一族でもある。
 
幼いころより武士としての教育を受け、剣術、槍術、弓術に秀で流鏑馬(やぶさめ)の達人でもあった。流鏑馬は現在では神事とされるが、当時は馬上における実戦的弓術である。宮中では折にふれ、蹴鞠の大会が模様されたが、義清に敵う者はいなかった。蹴鞠は優雅な遊びのようだが、かなり激しい運動能力が必要なのだ。今日のサッカーのようでもある。
 
義清は学問にも秀でていたから文武両道の若武者として将来を嘱望されていた。加えて義清は美男でもあった。北面の武士になるには見栄えも採用の条件だからである。鳥羽上皇にも崇徳天皇にも評判は良かった。歳も近い崇徳天皇は和歌の友としてもよく義清を側に呼んだし、宮中の女性たちからも人気があった。
 
平家の清盛とは同年生まれ、源氏の義朝は5歳下。同じ武士仲間として語り合い、酒も酌み交わした。武芸でも歌でも義清は群を抜いていたので仲間たちの憧れでもあった。
 
ある日、宮中と武士仲間たちがびっくりする出来事がある。その義清がわずか23歳の若さで突然出家するという。妻子もあり、将来を嘱望された若きエリート武士が何故出家したのか。何が義清の運命を変えたのか。ここから西行の物語は始まるのである。次回からゆっくり話を進めていこう。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
***  *** 下卦は地
***  *** 大地
***  ***
 
「火地晋」の卦。旭日昇天。太陽が昇り始めるように真っ直ぐに進んでいく。順調に出世していく象である。しかし、万事順調には落とし穴に要注意。
 
人生には思いもしない運命が待ち受けている。本人の心がけでは計れないものがある。待っていたのは時代の動乱。朝廷内の骨肉の争いから始まった壮絶な戦い。平安が終わり武士の時代の幕開けであった。
 
 
 

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