さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

[ リスト | 詳細 ]

10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
記事検索
検索

日蓮の求めたもの

イメージ 1
不動明王
 
今回で日蓮の最終とします。日蓮が法華経の行者として、その名に恥じない生き方をしたことを認めない者はいないであろう。では法華経の行者は何故他の仏教を排斥しなければいけないのか。その為に日蓮は何度も迫害に遭い、九死に一生を得ている。 
 
詳細を論じられても解らないので、紀野一義先生の「名僧列伝」の中から解る部分だけ抜粋してみると。「法然の唱えた念仏の徒はその方向を未来に指向し、自己の安住の場を死後の生、つまり『後生』に見出した。それは、世が末法であり、この娑婆世界は自己の安住の場ではあり得ないと考えたからである。」ここに日蓮が念仏宗を排斥しようとした理由があるようだ。
 
「しかるに、日蓮は、この娑婆世界を措いてどこに自己の安住の場があろうかと考えた。しかし、そこは末法の世である。とても安住できないではないか。ただ一つ安住できる道がある。それは『法華経』を信ずることだ。『法華経』はこういう末法の世を生きる人々のために説かれた経である。これを信ずることによってこの苦しみに満ちた世界が浄土になるのだ。」とある。
 
日蓮の生きた時代は「末法思想」というものが支配的であった。事実、世の乱れは目を覆うばかりに凄まじかった。そんな中に生きた人々は仏教に救いを求めたのだ。法然や親鸞はそんな人々を救うために「他力本願」という誰にでも出来る信仰を奨励した。「自分の力で何とかしようとするな。全て仏にすがれ。慈悲深い仏さまは決して見捨てはしないから。」
 
そんな教えに対して、日蓮は怒った。「それでは現実逃避でしかない。そんな間違った教えがますます世を乱すのだ。どんな逆境もそれが現実ならば、その現実に向き合え。現実を良くしないで未来があるか。安住の地とはしっかりと現実を受け止めた時に生じるのだ。だから現実から逃げてはいかん。懸命に耐えろ、懸命に戦え。いつか必ず報われる時が来る。」日蓮は常に「法華経」を心の支えにして、「逃げるな!戦え!」と言ったのではないか。
 
 
******** 上卦は山
***  *** 篤実、動かざるもの
***  ***
******** 下卦は天
******** 剛強、陽の代表
********
 
「山天大畜」の卦。天の気を大いに蓄えて草木を養い育てる山を表している象。人間社会では偉大な君子が剛強なる集団を治めている象とも言える。強い野球チームの集団にはしっかりとした監督がいるようなものだ。日蓮は武士の世にそれを見守る不動明王になろうとした。
 
現代の我々はスポーツや音楽を楽しみ、昔とは比較にならない文化的な生活を享受している。しかし一寸先は闇である。世の無常は変わらない。いつ何が起こるか解らない。国家の先も解らない。経済や外交、超高齢者問題もある。しかし、怯む必要はない。日蓮を思えば解決しない困難はない。「逃げるな!戦え!」である。

身延山へ

イメージ 1
身延山・久遠寺
 
日蓮が身延山を最後の地と決心した訳を考えて見たい。そのとき日蓮は53歳。人生50年の時代である。厳しい境遇の佐渡流罪は、日蓮の身心を衰弱させていた。しかも最後の望みであった幕府との話し合いも無残な失望に終った。「わがこと終れり。」そう思ったに違いない。第一線を退く時が来たのだ。常識的にはここで郷里に帰り、ゆっくり余生を過ごすのだろう。
 
日蓮の流罪は2回。1度目の伊豆流罪の後は郷里に帰った。小松原の襲撃にも遭ったが、その後房総から常陸にかけて「法華経」を布教している。その間に弟子も出来たし、大勢の信者も増えていた。日蓮の郷里には高齢の恩師・道善房もいる。帰りを待ち望む人たちも多く居た筈である。「龍ノ口法難」にも死ななかった日蓮は郷里の英雄で凱旋将軍のように喜んで迎えてくれたであろう。
 
それでも日蓮は帰らなかった。何故だろうか。日蓮が生きた時代は平和な今日からは想像も出来ない程の、激動の時代であった。生まれる前の年が「承久の乱」で朝廷と幕府が戦争をした。その後幕府の中でも内乱が度々あった。自然災害は頻繁。飢饉に晒され、疫病は蔓延した。その上に蒙古軍の襲来である。「法華経の行者」を自認する日蓮は「立正安国論」を幕府に提出し、世の乱れを鎮めようとしたのだ。仏に代わって日本を護ろうとしたのだ。
 
日蓮生涯の目的は果たせなかったが、護国の精神は持ち続けた。次に生まれて来るだろう「法華経の行者」に後を託そうと考えたのではないか。最後の最後まで「法華経の行者」として生きるだけだ。安穏な生活など自分には要らない。そう決心して身延山へ入ったのだろう。その為に郷里には帰らなかったのだろう。
 
身延山の暮らしは困難を極めた。続けて飢饉が起き、波木井実長の外護も行き届かない。台風に草庵も壊れた。寒さに耐えかねて、集まった門弟も四散する。そんな身延山から日蓮は8年間も下山しなかった。おびただしい量の手紙を書いている。長い流人生活で流石の日蓮も腸を蝕まれ、慢性の下痢のため痩せ衰えた。入山9年目、弟子のすすめで温泉療養のため山を下りる。途中池上の弟子の邸にて病床に着き、そのまま入滅する。1282年、10月。61歳だった。
 
******** 上卦は山
***  *** 堅い、動かざるもの
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 小人、陰の代表
***  ***
 
「山地剥」の卦。剥とは剥ぎ落す。下から陰が蔓延り、陽の力は崩壊寸前となる象。衰運の象でもあるが、最後の砦として君子が独りで頑張っている象でもある。君子が最後の最後まで頑張ればこそ、次の一陽来復に繋がるのが易の順番である。
 
時代も波瀾万丈だったが、日蓮の一生も波瀾万丈だった。日蓮の生涯を考えると、今日の経済問題や外交問題もたいした問題ではないと思えてくる。日本人ならどんな障害も乗り越えられないことはないと思えてくる。

幕府との和解

イメージ 1
北条時宗。1251〜1284
 
その頃、鎌倉幕府では大蒙古軍との戦争の危機が現実のものとなりつつあった。執権・北条時宗はあくまで従属を拒否して一戦を交える覚悟ではあったが、確かな情報による万全の備えを固める必要があった。
 
24歳の時宗は「立正安国論」で外国の侵略を予言した日蓮に関しても再度考えなおしていた。「自分たちの取った処遇は果たして正しかったか。もしやとんでもない間違いを犯していたのではないか。」6年前の日蓮の書状を何度も読み返し、日蓮に対する考えを改める。側近の平頼綱を呼ぶと「今すぐ、日蓮を釈放せよ。即刻、鎌倉に呼びよせよ。」と告げた。
 
3度目の冬を超えた1274年3月、日蓮のもとに赦免状が届いた。阿仏房夫妻や日蓮を慕う島民たちと別れて日蓮主従は鎌倉に帰った。幕府で日蓮を迎えたのは龍ノ口にて処刑を行おうとした平頼綱その人である。しかし、頼綱の態度は一変して鄭重そのものである。「この度はお疲れ様でございます。その節は大変ご無礼を申し上げました。本日はよくぞ起こし頂きました。執権が直々にお目にかかります。さあ、こちらへ。」
 
執権・時宗からは「今後、貴僧と法華経を幕府としてお護りさせて頂きたい。貴僧も是非幕府及び日本国を一緒に護って頂きたい。」という言葉があった。そして「蒙古軍は何時日本に攻めてくるだろうか。」と尋ねる。日蓮は即座に「今年中には来るでしょう。」と答えた。(事実、その年の10月に蒙古軍は対馬、壱岐、博多を侵す「文永の役」があった。)頼綱からは日蓮に愛染堂(聖徳太子が開いた霊場)の別当職(学校長)への推挙と良田一千町歩を寄進するとの提案があった。
 
日蓮は幕府が会いたいと言ってきた時に、自分のこれまでの建言を採用するのだろうと予想していた。それは法華経を真実の教えとして国家の宗教とすることだった。念仏と同列に扱われるのは日蓮の主張ではない。幕府はあくまで信仰の自由を守り、法華経以外の信心を止めさすという日蓮の求めに応ずることは無かった。日蓮は今度こそ失望した。幕府からの提案も全て拒絶する。20年に及んだ日蓮の戦いは終わった。
 
日蓮が幕府に求めたものは地位でも名誉でも富貴でもない。真正の仏教により乱世を治めることである。そのために何度も命を賭けて、誠心誠意訴えた。三度申し入れ、三度断られた。もう二度と鎌倉に入る気はない。5月、日蓮一行は甲州の豪族・波来井(はきり)実長の招きに応じて、鎌倉を去り身延山に向かった。日蓮53歳。
 
***  *** 上卦は雷
***  *** 行動、志
********
***  *** 下卦は水
******** 艱難、問題、悩み
***  ***
 
「雷水解」の卦。解は解決、解消、解けるである。堅い氷がようやく解ける。長く苦しんだ難問がようやく解決に向かうことである。解放されることを意味するが、ここで気を緩めると次なる落とし穴が待っていることもある。
 
日蓮は幕府を相手に、独りで20年間戦ったのである。結果は失望に終わったが、日本人の偉大さを後世に残した。現在とは論争の内容は違うが、これほどまでの信念を貫くものがいるだろうか。

佐渡流罪

イメージ 1
佐渡島
 
幕府は日蓮の処刑を中止したものの、その後の処遇に困った。留置していた20日間に鎌倉市中に放火、殺人が横行した。日蓮の弟子たちによるものと言いふらされたが、日蓮を憎む念仏者たちの陰謀と思われる。幕府は日蓮の弟子たち260人を検挙し、厄介者・日蓮を佐渡島へ流罪にする。
 
1271年の10月、50歳の日蓮は流罪人として佐渡の松ヶ崎海岸に着いた。配所は塚原という山野の中にある一間四面の荒れ果てたお堂。間もなく冬の雪に包まれた。弟子に宛てた手紙には「洛陽の蓮台野(墓場)のように死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間あらず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かかる所に敷皮打ちしき、蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹(ひょう)・雷電ひまなし。昼は日の光も射させ給はず。心細かるべき住まいなり。」と書いている。
 
佐渡へ流罪になるものは、当時権力者から厄介者扱いされた身分の高い者が多い。日蓮から50年前には「承久の乱」により順徳上皇が配流され亡くなっている。後には能の世阿弥も流された。日蓮の場合は幕府の厄介者そして日本中の念仏者の敵であったので処遇はひどかった。厳しい寒さの中、食事すら満足に与えられない。弟子の日興とともに試練の日々であった。
 
土地の者たちも念仏者が大半であるので、日蓮は敵のように扱われたが、そんな境遇にも希望は捨てない。「松葉ヶ谷の焼討」「伊豆流罪」「小松原襲撃」「龍ノ口処刑」と次第に重大となる災難も「日蓮こそ真の法華経の行者」という確信があったからである。東北地方から念仏僧たちが、日蓮に論戦を挑んでくることもあった。そんな時も日蓮は懇切丁寧に法華経の真意を説いた。
 
ある日、島に住む熱心な念仏者で順徳上皇の墓守をしていた老僧・阿仏房が来た。阿仏房は元は北面の武士であり、日蓮を始末しようしていた。「何故、そなたは念仏を拒否するのか?」阿仏房の最後の問いに日蓮は穏やかに諄々と話した。すると憎くて堪らなかったこの僧が不思議に怒りを鎮め、心に安らぎを与えてくれることに気付かされる。以来、阿仏房とその妻・千日尼は日蓮の信奉者となった。時には監視に隠れて食料を運んでくれた。
 
「まもなく鎌倉で戦争が起こる。」という日蓮の予言が的中すると人々は驚いた。(二月騒動といわれる北条一門の間での内紛)次第に日蓮に対する憎悪の念は尊敬の念に変わっていく。「日蓮こそ特別の僧ではないか。」日蓮に教えを乞い、救いを求める島人も増えてきた。流罪生活もいつしか2年が過ぎた。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 暗闇、陰の代表
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 行動、志
********
 
「地雷復」の卦。一陽来復である。真っ暗な世界に始めて光が射す。真冬からようやく春の兆しが現れる。未だ陽気は心もとないが、あせらず、慎重に行けばやがては伸び栄えるであろう。
 
最悪の環境から希望の火を灯すことは誰にでも出来ることではない。幕末、アメリカ密航に失敗し、野山獄に囚われの身になった吉田松陰がいた。しかし、松陰は諦めることなく、その野山獄を囚人仲間と学ぶ野山学校にしてしまった。日蓮の佐渡流罪に共通する話ではないか。 
 
 

預言者・日蓮

イメージ 1
龍の口刑場跡
 
日蓮は43歳から47歳までの3年間、房総から常陸にかけて布教活動に精を出していた。そこに、1268年正月、日本中を震撼させる大変な事態が起きる。日蓮が「立正安国論」で予言していた外国からの侵略が現実のものになった。蒙古の使者がフビライの国書を携えてやってきたのだ。アジアを席巻した元の大軍がいよいよ日本をも併呑しようとしていた。
 
日蓮は再び鎌倉に戻る。幕府の目を覚まさせ、日本の独立を堅持させるためである。幕府の執権は北条時宗。日蓮の伊豆流罪を解いた時頼の嫡男、未だ17歳だった。小さな草庵に住む一介の僧に過ぎない日蓮ではあるが、幕府の頂点に立つ時宗に対し誠心誠意国を思う書状を送った。
 
「今、日本国、既に蒙古国に奪われんとす。豈嘆かざらんや。豈驚かざらんや。日蓮が申すこと御用い無くんば、定めて後悔これ有るべし。日蓮は法華経の御使い也。敢えて日蓮が私曲に非ず。只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず、神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上せしむる也。恐々謹言。」
 
3年間に渡り幕府の要人と指導的立場にある住職たち計11人に書状を送り、宗教の改革を訴えた。最後に幕府で最も強権を振るい日蓮を直ぐに処刑せよと主張する平頼綱に送った。すると平頼綱は書状が届くや、手勢を引き連れ草庵に乱入、日蓮を逮捕した。そのまま「龍ノ口」の刑場に連れて行く。
 
夜中に護送の行列が若宮大路に出たところで、日蓮は天に向かい大音声をあげて叫んだ。「八幡大菩薩よ!『法華経』の行者をどうして疎略にするのか!いそぎいそぎ御計らいあるべし!」幕府の守護神である八幡大菩薩を叱責する日蓮に武士たちは恐怖を覚える。夜明け前に「龍ノ口」の刑場に据えられた日蓮だが、堂々とした態度は変わらない。恐れる武士たちに日蓮は呼ばわる。「いかに、いかに、頸を切るなら急ぎ切るべし!」
 
この時、南東の江の島方角から北西の空に光の玉が現われ、暗闇が月夜のように明るくなる。太刀取りの越智三郎は眼が眩んで倒れ伏した。手を合わせ座っている日蓮から発する法力に圧倒され、誰も近づこうとするものはいない。夜が明ける頃、鎌倉から急使が駆けつけ、処刑の中止を告げる。「龍ノ口法難」である。
 
******** 上卦は山
***  *** 堅い、動かざるもの
***  ***
******** 下卦も山
***  ***
***  ***
 
「艮為山」の卦。艮為山(ごんいさん)は動かざる山々を表す。変化するべきか、動かざるべきか、迷う時もある。この卦は軽挙妄動を戒め、泰然として動かない徳を好とする。
 
蒙古の使いに対し、鎌倉幕府は毅然として従属を拒否した。その結果、1274年に「文永の役」、1281年に「弘安の役」、2度の来襲を受ける。執権・北条時宗は二度目の来襲を退けた3年後に34歳の若さで死んでいる。この国にとって正念場を迎えたのがこの時代である。

.
kan*u*uuk*u
kan*u*uuk*u
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

幕末の歴史。

ファン登録

標準グループ

ブログ作成

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事