さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

[ リスト | 詳細 ]

10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
記事検索
検索

日蓮の法難

イメージ 1
小松原の鏡忍寺
 
日蓮の進む道には次から次と災難が待ち受ける。「日蓮の四大法難」といわれている。一つ目が前回の「松葉ケ谷の法難」である。九死に一生を得た日蓮であるが、そんなことに怖気づいたり逃げたりはしない。翌年(1261年)には再び鎌倉に戻って辻説法をしている。死んだと思っていた念仏者たちはびっくりした。
 
直ちに幕府に訴えると幕府は流罪にして鎌倉から永久追放しようとする。厄介者には裁判もなにもない。日蓮を捕え、由比が浜から船で護送し、伊豆の海岸から離れた「まな板岩」に打ち捨る。「伊豆流罪」である。幸い漁師に救われ、かくまわれる。流罪であるからそこからは動けない。じっと我慢の日々を送る。
 
幕府の北条時頼には日蓮の流罪は本意ではなかった。道元の禅を信奉する熱心な仏教徒である時頼は信仰は自由にすべきが持論であった。2年後には赦免とするが、幕府の執権を始め流罪に関係した主だった者たちは相次いで病死している。日蓮の法力だろうか。時頼も赦免後に37歳の若さで死んだ。
 
その後、日蓮は故郷の小湊に帰った。母を訪ね、父の墓参りもした。しかし日蓮の命を狙う者は故郷にもいた。日蓮の信者である領主の工藤吉隆から招きを受けて、10人ほどの共を連れて小松原を通行した時である。松林の中から雨のように矢を射かけられ、武装した男たちが刀を揮って襲いかかってきた。武士であり熱心な念仏信者である東条景信の一団であった。弟子の鏡忍房は殺され二人が重傷を負った。急を聞いて駆け付けた工藤隆吉と下僕二人も死んだ。日蓮は頭を切られ左腕を骨折する重症を負ったが辛うじて逃れることが出来た。「小松原法難」である。
 
「法華経」の中には「法華経を信じ行ずる者は悪口罵詈され、刀杖瓦石が加えられる。」と説かれている。歴史上「法華経」の行者でそのような迫害にあわされた者は日蓮ただ一人である。死と背中合わせの迫害にも日蓮は負けないどころか、さらに自信を持って前へ進んでいく。「日蓮こそは日本第一の『法華経』の行者なり!」「日蓮こそ『法華経』の化身なり!」すさまじいばかりの気概である。
 
***  *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
***  *** 下卦も水
********
***  ***
 
「坎為水」の卦。坎為水(かんいすい)は次々と災難にあうこと。一難去ってまた一難である。こんな時に人間の真価が決まる。「自ら反みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾れ往かん。」この気概が必要である。たじろがず進んでいけば道は開ける。
 
一介の漁師の子が日本の名僧として名を連ねているのは、この気概があればこそである。聖書にも「キリストに従うものは迫害にあうだろう。」という一節がある。無教会派のクリスチャン・内村鑑三が日蓮を愛した理由もここにある。正義を貫くのは時として命がけのこともある。 

立正安国論

イメージ 1
鎌倉・松葉ケ谷
 
1253年の5月、32歳の日蓮は鎌倉の松葉ケ谷(やつ)に草庵を結ぶ。布教とともに鶴岡八幡宮の経蔵にての勉強も怠らなかった。日蓮を慕う弟子も出来、信者も増えてきた。支配階級の人たちは浄土宗、臨済宗、真言宗を信じていたので、日蓮には中流以下の人々たちが集まった。
 
鎌倉に入って7年経った。当時、天変地異、飢饉、疫病は長期に及び、庶民の暮らしはどん底状態。徹底した経典第一主義の日蓮はこの原因を経文の中に見出そうと、経蔵に籠り続ける。そして経典の中に三災七難の起こる原因を見出した。その文証に基づいて「立正安国論」を書き上げる。幕府に突き付ける「政治建白書」である。
 
「立正安国論」は一人の旅人がある和尚と世相を論議する形式になった名文である。「旅客、来たって嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変地妖飢饉疫癘(えきれい)、遍く天下に満ち広く地上にはびこる。牛馬、巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半を超え、之を悲しまざるの族(やから)敢えて一人も無し。」という悲惨な世の有り様から筆を興し、この世情の最大の原因は国全体が悪鬼に犯されているのだと説く。
 
日蓮はその原因を法然の「選択本願念仏集」にあると断じた。世の乱れは念仏とともに始まった。法然の念仏を信じることは世を乱す原因そのものであると主張した。幕府高官たち、その夫人たちが多く浄土宗の信者であることを承知の上である。この建白書を幕府のトップである北条時頼に上程した。まさに死を覚悟の自爆的行為である。
 
時頼は握りつぶそうとしたが、話はあっという間に高官たちや浄土宗の僧たちに広まった。「とんでもない僧だ!直ちに抹殺すべし!」上程から42日目、周到に計画された夜討が行われる。夜討には豪勇の武士でも手もなく殺されている。鎌倉時代に夜討を受けて助かった者は他に無いだろう。日蓮はこの何百人による計画的襲撃にもかかわらず、殺されなかった。無事に下総(千葉県北部)に脱出している。神がかりと思わせる日蓮の最初の奇跡である。まさに日蓮は天からの使いであるとしか思えない。
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、中女
********
 
「沢火革」の卦。革は革新、革命の革。あらためることである。少女と中女とが対立激突する象でもある。革はその時機を得ることが大切であり、時期を得ない時はどんなに良いことでも成功はない。
 
日蓮はたった一人で真っ暗な世を明るい世にしようとした。乱れた社会を個人の力で変えようとした。そんなことが出来るはずがない。誰しも思うことを、日蓮は本気でやろうとした。それが日蓮なのだ。

日蓮の出発

イメージ 1
横川・四季講堂
 
17歳まで5年間清澄寺で天台の教えを学んだ日蓮であるが、新しく法然の唱えた念仏の教えを知りたくなる。師の道善房の許しを得て武者修行に出る。目指すは鎌倉。鎌倉では幕府高官たちも農民も皆念仏に傾倒していた。鎌倉の佐介ケ谷(さすけがやつ)に蓮華寺(れんげじ)があった。そこでは法然の弟子である然阿良忠(ねんありょうちゅう)が浄土宗を教えていた。
 
蓮華寺で4年間学んだ日蓮だが、何か物足りなかった。他力本願の念仏には何か本物と違うと感じた。やはり本物は天台しかないのか。一旦清澄寺に戻った21歳の日蓮に師の道善房は比叡山へ行けと命ずる。天台宗の基礎を築いたのは伝教大師・最澄。最澄の教えを脈々と伝えるのが、比叡山・横川(よかわ)である。横川には良源上人が始めた「四季講堂」での真剣勝負の道場があった。
 
天台の俊英たちが互いに講師となって春は「華厳経」、夏は「涅槃経」、秋は「法華経」、冬は「大集経」と「大品経」を講じていた。源信、法然、栄西、親鸞、道元たちも皆ここで修行した。(親鸞は何と20年間もここにいた。)本物の学を身に着けようとした日蓮はただひたすら学問の毎日。ついに32歳の年まで無名な修行僧として横川で学んだ。ある日生まれ変わったような心境に達したとき、天台の正当の教えは最澄以来の「法華経」であると確信した。
 
乱世の世に苦しむ民を見るにつけ、居ても立っても居られない日蓮だったが、乱世の原因は人々が正しい教えから離れ邪宗に支配され始めたことに端を発することに気付いた。邪宗とは念仏であり、禅である。これらは全て正宗とは似て非なるもの。これを止めさせ元に戻さねばますます世は乱れるばかりである。安房を出たときとは全く違う、逞しい壮年僧となって日蓮は清澄寺に帰って来た。
 
師の道善房は喜んで愛弟子を迎えた。そしてこれから再び飛び立ち、日本の仏教界に必ずや革命を起こすだろう大器の為に、虚空蔵菩薩に本願成就を祈念するのだった。行く手には百万の敵がいる。荒海に漕ぎ出す漁師のように。「南無妙法蓮華経」日蓮は再び故郷を跡にして鎌倉に向う。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰の代表、未知なる世界
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦
********
 
「地沢臨」の卦。臨は臨(のぞ)むである。準備を整え、いざ本番に臨む。幕末の日本人が始めて太平洋横断を慣行したのが「咸臨丸」。咸臨とはこの卦が出どころである。若者が社会に羽ばたく姿とも言える。
 
改革を胸に秘めた不退転の決意。日蓮が鎌倉を目指す姿は、龍馬が脱藩して長州を目指した姿に重なる。世の中が混乱するとき、座して見ていることが出来なかったのだろう。天から与えられた使命を感じたのだろう。

日蓮の生まれた時代

イメージ 1
後鳥羽上皇。1180〜1239
 
日蓮の生まれた1222年という時代を考えて見たい。その前年に承久(じょうきゅう)の乱が起こっている。その頃の鎌倉幕府は内部抗争が続き安定してはいなかった。権力奪還のチャンスと見た治天の君・後鳥羽上皇は息子の順徳上皇とともに幕府に対して反旗をかかげる。上皇の挙兵に幕府は動揺したが、北条政子の「頼朝の恩を忘れたか!」の涙の訴えにより結集した。幕府軍は19万の軍勢により、東海、東山、北陸の三道から一気に京に攻め上り、朝廷軍を壊滅させた。
 
この承久の乱により、後鳥羽上皇は隠岐の島に配流。順徳上皇は佐渡島に配流となる。戦に反対していた順徳上皇の兄である土御門上皇は自ら土佐に配流した。(道元は土御門上皇の叔父にあたる) この結果、朝廷の力は完全に衰退し名実ともに武士の世の中になる。後鳥羽上皇も順徳上皇も20年後には配流先で亡くなっている。
 
このような暗黒の時代である。日本中が秩序も安心もなく庶民生活は不安と貧困の時代であったことが想像される。世の中が暗くなると明るい光を求めるのだろうか。そんな時に新しい宗教が興る。平安末期から鎌倉、室町にかけて、仏教界には法然、親鸞、明恵、道元、日蓮、一遍、一休、蓮如といった錚々たる人物が出現している。

日蓮が生まれた頃、法然は亡くなり、親鸞は関東各地を布教活動をしており、道元は宋に出発している。地方である安房(千葉県)小湊の漁師の家に日蓮は生まれた。果たして少年は海を眺めて何を感じ、何を考え、何を志したのだろうか。12歳の年に地元の天台宗・清澄寺に入り16歳で出家している。この寺の本尊は「虚空蔵菩薩」である。日蓮は天台の哲学と密教を学び、「虚空蔵菩薩」に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈った。
これまでに照会した名僧たち、西行、親鸞、道元に共通するのは、何れも貴族の出身である。ところが日蓮は全くの庶民、漁師の子である。そこが先ず違う。僧の世界も身分がものを言う時代であったので、漁師の子が世に出るなどおよそあり得ないことだった。それだけ日蓮の教義が抜きん出ていたことを物語るし、それだけの行動したことを物語る。 

***  *** 上卦は地
***  *** 大地、陰の代表
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、太陽
********
 
「地火明夷」の卦。明夷(めいい)とは明が夷(やぶ)れる。太陽が地下に没し、暗黒の世界が支配することである。混迷、苦難の時代をいかに生き抜くかが問われる。「艱難汝を玉にす」の言葉もある。
 
抗争を繰り返す武士の時代に庶民の平和はあったのだろうか。安定した徳川幕府まで四百年もかかった。庶民の唯一の救いは仏様にすがることであったのか。
 
 
 
 

日蓮はスーパーマン

イメージ 1
日蓮。1222〜1282
 
日蓮が他の名僧たちと違うのはその強烈な個性である。私の日蓮に対するイメージはスーパーマン。時の権力者である鎌倉幕府に対して、真っ向から批判をぶつける。その為に何度も殺されかかったにも関わらず信念を曲げない。武力による襲撃から何度もすり抜ける。処刑しようとしても殺せない。まるで超能力者のようなパワーを秘めている。

明治時代に無教会主義のクリスチャンである内村鑑三は「代表的日本人」を著し、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹そして日蓮を挙げている。内村鑑三の後継者的クリスチャンであり、戦後東京大学総長になった矢内原忠雄は「余の尊敬する人物」を著し、エレミヤ、リンカーン、新渡戸稲造と日蓮の四人を挙げている。クリスチャンの目では日蓮はかくも魅力的に見えるのは何故だろうか。
 
大正の三大美人の一人である歌人の柳原白蓮(びゃくれん)は最も魅力ある人物である日蓮の日にノを加えて白蓮という歌人名にしたという。名門の華族であった白蓮は九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と政略結婚をさせられる。その後、7歳年下の東大生・宮崎龍介と真実の恋に落ちる。龍介の子を宿した時、夫も実家も世間も全てを敵に回しながらも恋を貫く。白蓮の心の支えは日蓮だったに違いない。

戦前に69連勝の大記録をたてた横綱・双葉山も法華経の信者である。脚気で悩んだ双葉山は日蓮を信仰するようになってから、脚気が治りめきめき強くなったという。昭和の歌姫・美空ひばりも熱心な法華経の信者であった。家庭的には恵まれず次々身内を亡くした頃、ひばりは頼りにする住職に悩みを打ち明けた。「あなたより不幸な人たちはもっといる。その人たちは貴女の歌に慰められている。」住職の言葉に、ひばりは「解りました。私は歌います。」52歳で燃え尽きるまで、ひばりは歌い続けた。
 
日蓮を心の支えにした人たちは多い。いったい日蓮の魅力は何処にあったのだろうか。日蓮は乱世をいかに感じ、いかに考え、いかに生きたのだろうか。これから10回にわたり日蓮の足跡を辿りながらその実像に近づいて見たいと思っている。 
 
***  *** 上卦は水
******** 艱難、問題、悩み
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 行動、志、若さ
********
 
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)は生みの苦しみ、悩み。草木の芽が地面からなかなか出て来れない状態を示す象。人間であれば悩み多き青年時代。社会であれば混乱する時代に新しい動きが始まるときである。
 
幕末の混乱の最中に一人の青年がアメリカに密航しようとした。失敗し捕えられたが、獄中の青年は日本の明日を解っていた。その青年こそ明治維新の先駆けとなった吉田松陰である。時代の転換点にはその役割を担った人物が出現するのだろうか。

.
kan*u*uuk*u
kan*u*uuk*u
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

幕末の歴史。

ファン登録

標準グループ

ブログ作成

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事