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小松原の鏡忍寺
日蓮の進む道には次から次と災難が待ち受ける。「日蓮の四大法難」といわれている。一つ目が前回の「松葉ケ谷の法難」である。九死に一生を得た日蓮であるが、そんなことに怖気づいたり逃げたりはしない。翌年(1261年)には再び鎌倉に戻って辻説法をしている。死んだと思っていた念仏者たちはびっくりした。
直ちに幕府に訴えると幕府は流罪にして鎌倉から永久追放しようとする。厄介者には裁判もなにもない。日蓮を捕え、由比が浜から船で護送し、伊豆の海岸から離れた「まな板岩」に打ち捨る。「伊豆流罪」である。幸い漁師に救われ、かくまわれる。流罪であるからそこからは動けない。じっと我慢の日々を送る。
幕府の北条時頼には日蓮の流罪は本意ではなかった。道元の禅を信奉する熱心な仏教徒である時頼は信仰は自由にすべきが持論であった。2年後には赦免とするが、幕府の執権を始め流罪に関係した主だった者たちは相次いで病死している。日蓮の法力だろうか。時頼も赦免後に37歳の若さで死んだ。
その後、日蓮は故郷の小湊に帰った。母を訪ね、父の墓参りもした。しかし日蓮の命を狙う者は故郷にもいた。日蓮の信者である領主の工藤吉隆から招きを受けて、10人ほどの共を連れて小松原を通行した時である。松林の中から雨のように矢を射かけられ、武装した男たちが刀を揮って襲いかかってきた。武士であり熱心な念仏信者である東条景信の一団であった。弟子の鏡忍房は殺され二人が重傷を負った。急を聞いて駆け付けた工藤隆吉と下僕二人も死んだ。日蓮は頭を切られ左腕を骨折する重症を負ったが辛うじて逃れることが出来た。「小松原法難」である。
「法華経」の中には「法華経を信じ行ずる者は悪口罵詈され、刀杖瓦石が加えられる。」と説かれている。歴史上「法華経」の行者でそのような迫害にあわされた者は日蓮ただ一人である。死と背中合わせの迫害にも日蓮は負けないどころか、さらに自信を持って前へ進んでいく。「日蓮こそは日本第一の『法華経』の行者なり!」「日蓮こそ『法華経』の化身なり!」すさまじいばかりの気概である。
*** *** 上卦は水
******** 困難、悩み
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*** *** 下卦も水
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「坎為水」の卦。坎為水(かんいすい)は次々と災難にあうこと。一難去ってまた一難である。こんな時に人間の真価が決まる。「自ら反みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾れ往かん。」この気概が必要である。たじろがず進んでいけば道は開ける。
一介の漁師の子が日本の名僧として名を連ねているのは、この気概があればこそである。聖書にも「キリストに従うものは迫害にあうだろう。」という一節がある。無教会派のクリスチャン・内村鑑三が日蓮を愛した理由もここにある。正義を貫くのは時として命がけのこともある。
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