さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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道元の世界

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剱岳
 
今回で道元の最終とします。10年以上前から道元については興味を持っていました。しかし「正法眼蔵」も「正法眼蔵随聞記」も書棚に並べて居りますが、今でも歯が立たず殆ど積読(つんどく)のままです。一連の記事は紀野一義先生の「名僧列伝」が基本ですが、鎌田茂雄先生の「正法眼蔵随聞記講和」は何度も読んで道元の世界に近づいて見ました。そんなレベルの私が道元を語るのは百年早いことは承知の上で、自分の言葉で何とかまとめを掲載いたします。 
 
平安貴族の時代から武士階級に実権が移った日本史史上かつてない動乱時代に、権力を欲しい儘にした父と、その権力により翻弄された母との間に、類い稀な資質を持って生まれたのが道元だった。道元は幼少時代から権力を嫌い、仏道に己の生きる道を求める。その迷いのない、真っ直ぐな志こそ名僧の中の名僧と言える。この天才には苦節何十年という長い雌伏の時は要らない。常に目的に向かうべき高いハードルが目の前に待っている。
 
建仁寺の栄西、そして明全、宋に於ける如浄、又とない師に遭うべくして逢う。無駄な月日がないのが道元の人生である。帰国後の道元には、懐奘(えじょう)、義介(ぎかい)などの優れた弟子が集まり、波多野義重の助けもある。旧勢力からの弾圧もあるが、越前・永平寺での開山となる。幕府の援助もきっぱりと拒絶して真剣勝負で道を切り開く。
 
道元の残した「正法眼蔵」は後に続く僧たちに著したものである。凡人の我々が読み解くには難解である。そこで弟子の懐奘(えじょう)が残した「正法眼蔵随聞記」によって、ようやく道元の世界が垣間見えてくる。それは「只管打座」。道元は弟子たちにひたすら修行せよと説く。他のどんな世界にも目をくれるな。一つの目的に向かってわき目もふらず、修行していることさえ忘れて修行せよと言っている。そうすればいつか仏と一体になれるのだと。
 
「無常迅速」「生死事大(しょうじじだい)」繰り返すこの言葉。あっと言う間に人生は終わりを迎えるということだ。何かの目的を持つ人にとっては、人生は余りにも短い。だから「今」だけに全力を尽くせ、明日はないと思えと。
 
権力とは一線を引いたが、厳しい禅の世界は武士階級には必要不可欠なものとして普及する。武士たちはやがて「剣禅一如」「武士道」の道を創造する。徳川260年、そして明治維新、日本の精神世界にはこのバックボーンがあった。それが道元の世界である。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 坤、陰の代表
***  ***
******** 下卦は天
******** 乾、陽の代表
********
 
「地天泰」の卦。天地が逆になっている。天は上を向き、地は下を向く。そこで上下が和合すると見る。易の64卦の中で最も泰平、安定を表す卦である。座禅をする僧がどっしりと動かずにいる姿にも見える。
 
道元は孤高の山を連想させるほど、厳しくもあり懐かしい。近寄り難いようだが、何か惹きつけられる。日本人として誇りを持てる人物の一人である。
 
 
 
 

道元の愛語

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永平寺そば
 
道元は出家してきた弟子たちには、真に厳しく、少しの緩みも許さず接した。出家するということは俗世間の家族、恋愛、欲望、生活、楽しみ、全てに決別して、ただひたすら仏道の修行に入ることである。そんな弟子たちに悔いのない人生を送らせたい。一日も早く悟りの境地に導いてやりたい。そんな願いがあればこそ、厳しい修行を強いるのである。弟子への深い愛があればこそである。
 
在家の信者や一般の人には常に優しい僧であった。弟子たちにも人に対するときは、常に愛の籠った言葉をかける様に諭している。「人に接する前に、まず慈しみの心を興してからから言葉をかけなさい。愚痴や悩み、不平不満は何でも聞いてやりなさい。例えば教養のない人や粗暴な振る舞いをする人だったら尚の事、赤ちゃんに接するような心を持って話しかけなさい。」
 
「良いところがあったなら褒めて上げなさい。良いところが見つからない人だったら、可愛そうな人だと憐れんでやりなさい。そうすれば、知らず知らずにこちらの心が相手に伝わり、いつかは心を開いてくれるものです。」「この愛語というのは不思議な力があるものなんだよ。敵のように憎みあっている人も和睦することもある。愛語を聴いた人は嬉しくなるだろう。自分を愛してくれていることを人づてに聞いたならば、肝にも魂にも響いてくるものなんだ。」
 
「愛語は愛心より興るのだ。愛心は慈しむ心が種子なのだ。愛語は廻転の力があることを学んで貰いたい。廻転の力とはその人の人生を根本から変える力なのだ。どんな君子でも、悪党でも、男でも、女でも、人間には心があるのだ。心が心に響いたならば、どんな人間も心を動かすものなのだ。」
 
道元の残した「正法眼蔵」の中に愛語の力を説いている箇所がある。他人を動かす愛語はどうしたら持てるのだろうか。それは相手の人間より心が豊かで大きくなければならない。人間力がなければ相手の心は動かない。その人間力は自分を厳しく鍛えることによって始めて備わる。そのためにも道元は弟子たちを厳しく鍛えたのではないだろうか。自分には厳しく、人には優しくである。
 
******** 上卦は風
******** 従順、謙虚、へりくだる
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、感動
********
 
「風沢中孚」の卦。中孚(ちゅうふ)は誠心誠意のこと。孚の字は卵を抱いている親鳥の姿からできた文字である。易には「中孚は豚魚」という言葉がつけられている。愛情を注ぐなら禽獣にもその愛は通じるということである。
 
権力で人を制することは出来るが、人を本心から従わすことは出来ない。
人を動かすには感動がなければならない。
乱世の時代に権力を極端に嫌った道元は、愛の力で人を導いてやろうとした。愛の力を養うためにも「只管打座」だったのだ。

道元と権力

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北条時頼。1227〜1263
 
道元は師の天童如浄から権力者に近づくなと厳しく遺言され、堅くその教えを守った。それ以前に道元は権力に対しては生まれながらの忌避の情が強かった。それは道元の父が権力者であり、母がその権力に翻弄された一生を送ったからである。(詳しくは始めの「道元の出生」に述べた)
 
幕府の執権である北条時頼は篤く仏法に帰依しており、貴族の子ながら宋に渡り、新しく禅寺を興した道元には興味を持っていた。家来の波多野義重に命じて道元を鎌倉に招くことになる。永平寺への道を開いた波多野義重からの懇請ならば断わる訳にはいかない。数名の弟子を連れて鎌倉幕府を訪ねることになった。北条時頼が20歳の若さで執権職に就き、勢力抗争の修羅場で必死に政治の安定を計っていることを知り、禅が役に立てばとも思ったかも知れない。1248年、道元49歳。
 
しかし、それは無理な話だった。修行の世界は権力の庇護のもとでは諂いや妥協が生じ、本当の修行にならないと確信した。道元に教えを乞いたい時頼からは寺院を建立するので、鎌倉に留まる様に懇請された。きっぱりと断り、早々に永平寺に帰ると申し入れる。時頼のたっての願いを聞き入れ弟子の首座・玄明(げんみょう)を鎌倉に留めることにした。 
 
山僧出去半年余
猶ほ孤輪の大虚に処するが如し
今日山に帰れば雲気喜ぶ
山を愛するの愛初より甚し
 
道元が永平寺に帰って作った詩である。道元にとって最も居心地の良い場所はこの深山幽谷であった。道元が帰った後で時頼はやはり道元に鎌倉に再び来て欲しいと願い、越前に広大な土地を寄進することにした。そこで玄明にその寄進状を持たせた。
 
自分たちの禅風が幕府に認められた証しでもあり、玄明は喜んで寄進状を永平寺に持ち帰ってきた。ところが道元は喜ぶどころか烈火の如く叱責し、法衣を奪い破門追放を命じた。その上、玄明が座っていた僧堂の座席を取り去り、床下の土を七尺も掘り捨てさせた。道元がいかに権力者に諂うことを嫌ったかを知る話である。
 
それっきり玄明は許されることは無く、行方不明である。許されたのは明治35年、承陽大師(道元)650回忌法要の折りである。時の永平寺貫主・森田吾由禅師を中心に関係者、高僧らが玄明の破門追放を赦免するために承陽大師に鄭重なる祈願をして恩赦となった。現在、永平寺・承陽殿下段に「玄明首座」という位牌が祀られている。
 
******** 上卦は天
******** 陽の代表、乾徳、父
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰の代表、坤徳、母
***  ***
 
「天地否」の卦。陽は上を目指し、陰は下を目指す。上下和合せず意志の疎通がない。「地天泰」の卦とは反対に、小人が蔓延り君子の道が亡び最も凶なる卦と解釈する。しかし、両極は相反するが故に調和があり統一がある。
 
「権力者に近づいてはならぬ。」この教えを守って永平寺は760年健在である。最近は政治を利用しようとする宗教団体も存在するが、宗教は本来精神世界にあるものだろう。国の繁栄も、功利主義、唯物主義に反する純粋な精神がその奥になければならぬ。

道元の弟子たち

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総持寺・仏殿
 
道元には多くの優れた弟子がいる。孤雲懐奘とともに永平寺の基礎を築いたのが徹通義介(てっつうぎかい1219〜1309)である。義介が懐奘の勧めで興聖寺の道元のもとに入門したのは23歳である。実は懐奘と義介は消滅した日本達磨宗にいた。 義介は越前の出身だったので、興聖寺から越前に移住する際には知人も多く、生活環境も周知しているので道元は最も頼りにした。
 
勢力のある武士・波多野義重の外護があったとはいえ、新たな土地で寺を興すことは大変であった。修行僧の食事の用意だけでも明日の保障はない。そんな中を道元は義介に食事係りである典座を任せた。桶を担いで山道を水を運ぶため何度も往復する毎日が何年も続いた。その中でも義介の修行は群を抜いており、道元の信頼は厚かった。
 
道元が死期を覚った時、枕元に呼んだ懐奘と義介に「懐奘、私のあとはそなたに頼む。義介、その次はお前に頼む。」そして「義介、お前の修行は良いがお前はもっと老婆心を持つように。」と語った。道元の死後は懐奘が永平寺を守り、義介は宋に渡り4年の月日をかけて各地を遍歴し修行を重ねる。帰国後は永平寺の伽藍の整備、各種儀式の規範の制定に尽力した。
  
義介が3世となり、出家だけでなく世俗への布教を図ろうとすると、出家主義の僧たちによる反発を招き論争が巻き起こる。論争は長期化し、一度引退した懐奘が再び住職に戻ることに。「三代相論」と呼ばれた。その後、義介は賛成派とともに永平寺を去り、加賀(石川県金沢市)に大乗寺を開山することになった。義介の弟子である瑩山(けいざん)が全国に布教を尽くし、晩年に開山した能登の総持寺(明治の火災により現在の横浜市鶴見区に移転)が今日まで続いている。
 
一方、永平寺は義介が去った後、一時は存亡の危機に晒されるが、道元の教えを慕って中国から帰化した寂円(じゃくえん)の弟子・義雲(ぎうん)により立ち直り、代々その門下により永平寺は支えられる。曹洞宗では教えの基盤を作った道元と、教えを広めた瑩山を両祖として崇める。永平寺と総持寺を両大本山として21世紀の現在、所属する寺は一万五千を数える。
 
***  *** 上卦は雷
***  *** 志、活動、長男
********
******** 下卦は風
******** へりくだる、従順、長女
***  ***
 
「雷風恒」の卦。恒は恒常不変。安定した結婚生活を表す。変化し続ける時代に不変を貫くことは容易ではない。変化の中にも不変なる真理を堅く守ることにより盤石の安定を得るものである。
 
道元が教えを説いた歳月は興聖寺で10年、永平寺で10年である。その後の760年は数知れない弟子たちの不断の努力である。日本人の精神にどれほどの力を与えてくれたか、測り知れないものがある。

道元の独立

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永平寺山門
 
道元が「只管打座」の教えを実践するためには、大きな壁が行く手を阻んでいた。仏教界に君臨する比叡山である。比叡山は自らの天台宗の他に新しい信仰が起こることには警戒し阻止した。法然や親鸞が布教しようとした念仏宗を朝廷を動かして停止させた挙句、主だった高僧たちを悉く流罪に処した。
 
禅宗に対しても厳しい迫害を加えた。独学で禅の悟りを開き、日本達磨宗を興し布教させようとした大日能忍(だいにちのうにん)は京から追放されその後謀殺された。建仁寺の栄西は2度も入宋して禅を学び、禅風を興そうとしたが猛烈な反対にあった。そこで天台や真言の教えを兼ねることでようやく禅宗を密かに広めようとしたのだった。栄西は死ぬ前に「我が没後50年にして禅風大いに興るであろう。」と予言して逝った。
 
道元が建仁寺に戻って数年後には弟子たちも増え、建仁寺を出ることになる。道元は純粋に「只管打座」を教えたかった。その後あちこちと仮住まいをする苦難の月日を過ごすが、帰国後6年の歳月を経た1233年、京都深草の極楽寺の跡にようやく興聖寺を開くことができた。若いが高僧の風格を備えた道元の元には日増しに弟子たちが集まってきた。しかしそうなると比叡山の圧迫は強まるばかり、ついに道元の身には命の危険も迫ってくる。道元の志は完全にいき詰まってしまった。
 
そのような状況下にあったとき、道元に帰依する武士の波多野義重が越前(福井県)への移住を勧める。40代になっていた道元も流石に雪深い越前で一からやり直すことに迷いはあった。雪国で「只管打座」の布教が適うものか、しかし道元に選択肢は他になかった。
 
悩みながらも道元は師であった如浄の忠告を思い興していた。「都に住んではならぬ。深山幽谷に住め。」「権力に近づいてはならぬ。」「本物の弟子をたった一人で良いから作れ。」道元は決心した。愛着残る興聖寺を弟子に任せ、京の都を去ることにした。全く何もないところからの再出発である。1243年、道元44歳だった。
 
***  *** 上卦は水
******** 困難、危険、悩み
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 不動、堅実
***  ***
 
「水山蹇」の卦。蹇(けん)は足なえのこと。行き悩む意味である。八方塞がりで動きがとれない状態である。こんなときにしてはならないことは破れかぶれになることだ。時期を待つことが肝要。そして有徳の賢者の声に耳を傾けること。
 
宗教家としては天才的とも言われる道元でさえ、にっちもさっちも行かないことがあった。我々凡人が何かをしようとしたとき、順調にばかり行く筈がない。「あせらない、腐らない、諦めない。」何かを志すものには忘れてはいけない鉄則である。

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