さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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道元と懐奘

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孤雲懐奘。1198〜1280
 
朝朝 日は東より出で
夜夜 月は西に沈む
雲収まって山骨露はれ
雨過ぎて四山低し
畢竟如何
という道元の詩がある。何でもない当たり前な風景に心を打たれているのだ。しかしここに私たちが住んでいるかけがえのない美しい世界がある。
 
道元は1227年、28歳で宋から帰国する。道元が空海とも最澄とも栄西とも違うのは、何の書物をも持ち帰らず空手で帰って来たことだ。道元は一身の内に仏道の真理を持ち帰ったのである。その真理とはごく当たり前な世界を新鮮に感動をもって見つめ直すことに他ならない。目は横に鼻は直にあることをあるがままに受け止めることである。
 
 
その後、道元はもとの建仁寺にて修業を続ける。道元の噂を聞いて各地から相見に来る僧がいた。修行僧による武者修行である。その一人が孤雲懐奘(こうんえじょう)だった。懐奘は道元より二つ年上で、年少より出家、比叡山に登り天台、倶舎、三論、法相、成学の教学から密教、浄土教まで修めた学僧だった。懐奘は学識では誰にも負けない自信があった。懐奘の目的は道元を論破することだった。その論戦は熾烈を極めた。
 
例えば道元の兄弟子・明全が師の明融が重病であるにもかかわらず、振り切って渡宋したことについて、菩薩の行にそむくのではないかと迫った。「父母や師匠への恩愛より仏道修行を先にすべきは理解するが、自分の恩愛は捨てたとしても、老いたる病人を捨てることは仏道ではない。仏道修行は縁に随い事にふれて行うのが道理、やはり国に止まり看病すべきだったのではないか。」これに対して道元は「老病を助けんとて孝をいたすは、只今生暫時の妄愛迷情の喜びばかりなり。迷情の有為に背いて無為の道を学せんは、たとえ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝縁と成るべし。是を思へ、是を思へ。」
 
論戦は三日に及んだが、ついに懐奘は道元には歯が立たなかった。道元は出家した僧に対しての仏道への態度は徹底的に厳しかった。懐奘は全身全霊から道元に服し、弟子入りを決意する。そして道元は自分の教えを託するのは懐奘だと決定する。懐奘はその後、開山された興聖寺では首座を任され、払子を執って説法をすることになる。道元37歳。懐奘39歳。
 
懐奘は常に師・道元に影の如く従い正法眼蔵の整理、道元との言行録である正法眼蔵隋問記を書き残した。永平寺の二世となり曹洞宗の興隆に心血を注いだのも懐奘である。
 
******** 上卦は天
******** 陽の代表。広い世界。
********
******** 下卦は火
***  *** 文化。文明。才能。
********
 
「天火同人」の卦。同人とは志を同じくすること。同人雑誌はここが語源である。一つの文化、思想を持った人のもとに共感する人々が集まってくること。君子は同志を得て初志を貫徹するのである。
 
「本物の弟子一人に伝えよ。」道元はあくまでも師である如浄の遺言に随った。道元が如浄にとっての伝承者であったように、懐奘こそ道元の本物の伝承者だった。こうして鎌倉時代、武士の精神に相応しい禅が広まったのである。

道元の身心脱落

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天童山があった浙江省
 
道元が宋において修行した寺は、名僧が集まったことで知られる天童山にある天童寺である。無際了派のもとで2年間修業した。一心に語録を学んでいると、先輩僧から「語録を読んで何になる。」と言われ「古人の行いを知る。」すると「それが何になる。」と言うので「郷里に帰って人に教える。」すると「それが何になる。」「衆生を利益する。」すると「それが何になる。」道元は参った。
 
よくよく考えると自分の修行は何の役に立つのか解らなくなった。そこから道元は眼を開かされた。人間として高い境地に達しなければ知識はただの知識でしかない。自分の修行は「只管打座」いっさいを忘れてひた向きに座ることであると。
 
無際了派が死んだあと、道元は正師を求めて旅に出る。ところが正師には出会わなかった。諦めかけた時、一老僧が如浄という人物を教えてくれた。しかも如浄は無際了派の後任で天童寺に移ったという。道元は再び天童寺に戻り、如浄に相見した。如浄こそ道元を大悟させた師であった。
 
如浄は中国ではとくに名を遺した僧ではないが、道元によって日本の禅宗史上で名を留めた。如浄は国王権臣に近ずかず、深山渓谷に住むことを好み、雲水の指導には峻烈を極め、いい加減な者は寺から追い出したという。その如浄は会見したその日から道元には目をかけた。たとえ一人でも良し、本物の禅僧を創ることが自分の使命と心得ていた。道元こそその本物であると見抜いたからである。
 
如浄に就いてまもなく道元は熱心に求めつづけて得られなかった悟境についに達した。道元は如浄に「身心脱落しました。」と告げる。如浄は喜んで「脱落、脱落。」と答え、印可を与えた。そして最後の別れが来たとき、「都会に住むな。国王、大臣に近づくな。常に深山幽谷に住み、たった一人を接得せよ。」と教えた。道元が帰国した翌年に66歳で世を去った。
 
******** 上卦は火。
***  *** 文明、文化、才能。
********
***  *** 下卦は地。
***  *** 大地、暗闇、地下。
***  ***
 
「火地晋」の卦。晋は進む。太陽が地上に顔を出す象。明徳が発揮されるのである。希望が全身にあふれだす。努力が報われる時である。
 
人間には生まれながらに何かを備えた人とそうでない人がいることは明らかである。また本人でも気づかないところに何か光るものを備えていることも事実のようである。小は小なりに備えられた何かを発揮したいものです。死んでから気付いたのでは遅い。人生はそんなに長くはない。

道元と典座

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阿育王寺
 
日本の宗教家の中でキリストや釈迦にも匹敵する天才的宗教家は誰かと問われれば、私は真っ直ぐに道元の名を挙げる。道元ほど志した道を真っ直ぐに進み、無駄な時間を過ごさない人も稀だ。必要な先生がいつも目の前にいる。目の前の先生から実に素直に最大限の学びを会得する。道元ほど達人の境地に、最短距離で一直線に到達した例は稀である。
 
道元は明全とともに中国・明州慶元府の港に入港した。しばらく停泊したので、港に上り土手の石に腰かけていた。するとそこに椎茸を買いに来た60代の僧が来た。道元はそのひた向きな目に興味を覚え、早速その老僧に話しかけた。「御馳走したいから少し話をしてくれないか。」と申し出た。
 
するとその老僧は「時間がないからすぐ帰る。」と言って取り合ってもくれない。そこで道元は「台所のことなら、貴方が居なくてもどうにかなるだろう。」と言うと老僧は「とんでもない。他人に任せられる仕事ではない。」と答えた。道元も負けずに「貴方のような老僧が台所仕事なんぞにかかわっていて、どんないいことがあるのだ。」と切り返した。
 
するとその老僧は呵呵大笑して言った。「外国の好人(こうじん)よ、あんたは何にも知らないな。仏道の修行がどんなものか、文字がいかなるものか、お解りでないな。」道元は圧倒され、小さくなってしまった。必死に立ち直り、叫んだ。「では文字とはどのようなものですか。修行とはどのようなものですか。」老僧は言った。「解らなければ、阿育王山においで。解るようになるから。さて、急がなくちゃ。」と言って帰って行った。阿育王山とは禅を修行する宋の五山の一つである。
 
建仁寺でも6年間修行して修行がどんなものかを知って居る心算であった道元には堪えた。そして学んだ。修行とは書物を読むことや座禅することだけではない。行住坐臥、一日中、一年中、炊事や洗濯、清掃、生活の全てが修行なのだと知った。中でも食事係りを典座(てんぞ)というが、最も大切な修行として尊んだ。後に道元は弟子たちのために「典座教訓」を残し、そこに「山僧(自分)、いささか文字を知り、弁道を了ずることは、すなわちかの典座の大恩なり。」と述懐している。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 陰の代表。未知数。
***  ***
******** 下卦は風。
******** 謙譲。へりくだる。従順。
***  ***
 
「地風升」の卦。升とは昇り進むこと。昇進である。地の下から若木の芽がすくすくと成長する象である。謙虚と従順の徳を備えているものは時期を得てぐんぐん成長する。
 
「一を知って十を知る」という言葉があるが、正に道元の若き日にぴったりの言葉である。あの近寄りがたい道元ではあるが、きっと常に素直な心を持っていたのだろう。素直な心こそ人間を成長させる第一の条件なのだろう。
 
 

道元の出家と渡宋。

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栄西。1141〜1215
 
両親の死後、道元は異母兄にあたる源通具(みちとも)に育てられた。その秀才ぶりは群を抜いていた。母方の松殿家も跡継ぎとして欲しかったようである。しかし道元は仏道への志を立て、13歳の年に母方の叔父にあたる 良観法印を訪ねて出家を願い出た。思いとどまるよう説得されたが志は変わらなかった。翌年、天台座主・公円のもとで出家したのである。
 
父は源通親、母は松殿家、れっきとした貴族の子である。比叡山でも扱いが悪い筈はない。道元は好きなだけ勉強が出来たようだ。しかし真剣な修行を求める道元には物足りなかった。15歳になった道元は、2度も宋に渡り禅を日本に広めようとした栄西禅師を建仁寺に訪ねる。74歳であった栄西は翌年には亡くなるが、活発な修行に励む禅僧の姿に道元は自分の求める仏道を発見する。
 
道元が正式に建仁寺での修行を始めたのは18歳からである。師は栄西の高弟であった34歳の明全(みょうぜん)。明全は禅風を起こすことに情熱を燃やしていた。そのためにも宋に渡り、正師を求め真正の禅を究めてみたいと心に期していた。修行に熱心な道元にも宋に渡ることを強くすすめた。
 
いよいよ渡宋の日程が決まったとき、明全のもとの師である比叡山の明融が重病になる。明融は明全に「わたしはまもなく死ぬ。このたびの入宋は思いとどまりわしの最期を見届けてくれ。」と言った。明全は迷った。弟子たちにも意見を聞くと、全員が「渡宋は来年にされたらいかがでしょう。」である。しかし明全は弟子の意見を聞くうちに決心が定まった。「私の決心は求法の志。死をも覚悟しての求法なれば、失いやすい時を空しく過ごすことは、仏の心にも叶うはずがない。入宋のこときっぱり決心がつきました。」
 
後に道元は「然あれば今の学人も、或は父母の為、或は師匠の為とて、無益の事を行じて徒に時を失いて、諸道にすぐれたる仏道をさしおきて、空しく光陰を過ごすことなかれ。」と弟子たちを戒めている。かくして師弟は博多を出港した。1223年、道元24歳、明全40歳。明全は惜しくも在宋中天童山にて病死、遺骨は道元が抱いて帰国する。道元にこの世界の厳しさを最初に教えてくれたのは明全その人である。
 
***  *** 上卦は地。
***  *** 陰の代表。未知なる世界。
***  ***
***  *** 下卦は沢。
******** 喜ぶ。親睦。
********
 
「地沢臨」の卦。臨は望む。下の陽気が二つになり、いよいよ未知なる世界に臨む。勝海舟が日本人として初めて太平洋横断する船に「咸臨丸」と名付けた。この卦から取ったものである。
 
鎌倉時代に外国へ渡るということは、命を賭ける決心が求められたであろう。仏道の修行とはそうしたものである。先師たちのその覚悟が今日の日本人に生きている。今に生きる我々もいかなる困難があろうとも、乗り越えなくては先師たちに申し訳ないのである。
 
 

道元の出生

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道元。1200〜1253
 
今回から曹洞宗の開祖・道元に取り組んでみたい。道元と聞くと私は自然に背筋を伸ばし、身の引き締まる思いがする。それほど道元は厳しさ、崇高さ、完全無欠の印象が強い。その道元の人生はその出生にある。生まれた時代は鎌倉初期、日本の乱世である。父も母も当時の権力の中心に身を置き歴史の荒波を泳いだ。この父母を語らずして道元は語れない。
 
父は権謀術数の政治家である源通親(みちちか)。権力を得るためなら平気で変節もする、利用する、妻を換える、無用な者は捨てる。平家が実権を握るや最初の妻を捨てて清盛の姪を妻にした。平家が没落すると後鳥羽天皇の乳母をつとめた女性である高倉範子(はんし)を妻として後白河法皇の側近になる。後白河法皇は権力者として有名であるが、実際の権謀はその寵姫である丹後局と通親が中心だった。
 
その証拠に源頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇の室として入内させようとした時、関白である藤原兼実を無視して通親と丹後局に賄賂を贈り依頼している。ところが通親は莫大な賄賂を受け取りながらも実行に移さない。頼朝の力だけは利用して政敵である藤原兼実を失脚させた。その上、自分の養女を後鳥羽天皇の室とする。そして生まれた子を土御門天皇とする。通親は外祖父として土御門通親とも呼ばれ権勢を欲しい儘にした。
 
母方の松殿家は代々の関白の家系であり父は基房、祖父は藤原忠通。基房は平清盛により失脚されていたが、平家を討伐した木曽義仲と手を組んで権力を取り戻したそのときに絶世の美女と言われた娘の伊子(いし)を義仲の妻に差し出した。一代の風雲児・義仲はこの花のような美女に魅せられた。やがて義仲は源頼朝の命をうけた義経の大軍に攻められたとき、この美女と別れることが出来ず戦機を逸してあえなく命を落とした。
 
この美女が道元の母である。義仲の死後、再び没落した松殿家にひっそり暮らしていたところを権力者の通親が見初めて愛妾にしたのだ。道元が2歳の時その父は死ぬ。そして8歳の時その母が死ぬ。道元が生涯権力を忌避し、独身を貫いたのはこのような父母の元に生まれたからである。
 
***  *** 上卦は水
******** 艱難、陥る、悩み
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 行動、志
********
 
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは行き悩み生みの苦しみ。草木の芽が地面の中で伸びようとしているが、地面を突き破ることが出来ないでいる。人生で言えば悩みを抱えた青春期。時代で言えば困難山積の草創期である。若々しい生命力が問われる。
 
乱れに乱れた世を道元少年はどう見たのか。どう感じたのだろうか。人々を救うのは権力ではない。人々の心を立て直すしかない。そのために自分は何が出来るのだろうか。道元少年は真剣にそればかり考えていた。
 
 
 

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