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孤雲懐奘。1198〜1280 朝朝 日は東より出で
夜夜 月は西に沈む
雲収まって山骨露はれ
雨過ぎて四山低し
畢竟如何
という道元の詩がある。何でもない当たり前な風景に心を打たれているのだ。しかしここに私たちが住んでいるかけがえのない美しい世界がある。
道元は1227年、28歳で宋から帰国する。道元が空海とも最澄とも栄西とも違うのは、何の書物をも持ち帰らず空手で帰って来たことだ。道元は一身の内に仏道の真理を持ち帰ったのである。その真理とはごく当たり前な世界を新鮮に感動をもって見つめ直すことに他ならない。目は横に鼻は直にあることをあるがままに受け止めることである。
その後、道元はもとの建仁寺にて修業を続ける。道元の噂を聞いて各地から相見に来る僧がいた。修行僧による武者修行である。その一人が孤雲懐奘(こうんえじょう)だった。懐奘は道元より二つ年上で、年少より出家、比叡山に登り天台、倶舎、三論、法相、成学の教学から密教、浄土教まで修めた学僧だった。懐奘は学識では誰にも負けない自信があった。懐奘の目的は道元を論破することだった。その論戦は熾烈を極めた。
例えば道元の兄弟子・明全が師の明融が重病であるにもかかわらず、振り切って渡宋したことについて、菩薩の行にそむくのではないかと迫った。「父母や師匠への恩愛より仏道修行を先にすべきは理解するが、自分の恩愛は捨てたとしても、老いたる病人を捨てることは仏道ではない。仏道修行は縁に随い事にふれて行うのが道理、やはり国に止まり看病すべきだったのではないか。」これに対して道元は「老病を助けんとて孝をいたすは、只今生暫時の妄愛迷情の喜びばかりなり。迷情の有為に背いて無為の道を学せんは、たとえ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝縁と成るべし。是を思へ、是を思へ。」
論戦は三日に及んだが、ついに懐奘は道元には歯が立たなかった。道元は出家した僧に対しての仏道への態度は徹底的に厳しかった。懐奘は全身全霊から道元に服し、弟子入りを決意する。そして道元は自分の教えを託するのは懐奘だと決定する。懐奘はその後、開山された興聖寺では首座を任され、払子を執って説法をすることになる。道元37歳。懐奘39歳。
懐奘は常に師・道元に影の如く従い正法眼蔵の整理、道元との言行録である正法眼蔵隋問記を書き残した。永平寺の二世となり曹洞宗の興隆に心血を注いだのも懐奘である。
******** 上卦は天
******** 陽の代表。広い世界。
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******** 下卦は火
*** *** 文化。文明。才能。
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「天火同人」の卦。同人とは志を同じくすること。同人雑誌はここが語源である。一つの文化、思想を持った人のもとに共感する人々が集まってくること。君子は同志を得て初志を貫徹するのである。
「本物の弟子一人に伝えよ。」道元はあくまでも師である如浄の遺言に随った。道元が如浄にとっての伝承者であったように、懐奘こそ道元の本物の伝承者だった。こうして鎌倉時代、武士の精神に相応しい禅が広まったのである。
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