さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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親鸞の心機一転

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善光寺・経蔵
 
親鸞が生きた時代は仏教では「末法の世」と言われ災難につぐ災難の時代であった。源平の戦いによって一世を風靡した平家が滅び、鎌倉に幕府を立てた源氏も2代将軍・源頼家は北条に、3代将軍・源実朝は頼家の子・公暁(くぎょう)により殺される。その公暁も直ちに殺される。ついに源氏の家来であった北条氏に政権は移っていく。
 
京では親鸞たちを流罪にした後鳥羽上皇が隠岐の島へ配流になる「承久の乱」が起こっている。上層階級が骨肉の争いをしているとき、度重なる飢饉も広まり下層階級ではまさに飢えとの戦いを強いられていた。
 
配流となった親鸞は越後から再出発をすることにした。既に師の法然が他界した以上京都に戻る気にはなれなかった。親鸞には未知の地、東国に行く決心を固める。最初に訪れたのは信州の善光寺である。善光寺のご本尊は中央に阿弥陀仏、左右に観音菩薩と勢至(せいし)菩薩が安置され三尊を一体として後光に包まれている。
 
親鸞は法然の教え「念仏して弥陀に助けられまいらすべし」について、自力の念仏と他力の念仏とに区別があるべきだと考えさらに研究する。結局、善光寺に一年余り滞在し、1214年、42歳のとき上野(こうずけ)の国(群馬県)佐貫(さぬき)に着いた。佐貫で目にしたものは飢えに苦しむ夥しい数の窮民だった。
 
親鸞に救済する術はない。弥陀にすがるより道はないと決心した親鸞は浄土三部経の千部読経の行に入る。浄土三部経の読経は一回読み終わるのに3時間はかかる。これを千回やろうというのだ。気が遠くなりそうだが、親鸞は始めた。念仏祈祷の法力により衆生の救済を一心に願った。4日目のことである。『親鸞よ、読経を止めて衆生とともに生きよ!』心に響く天の声であった。親鸞は読経を止め窮民の中で窮民とともに生きるため、常陸の国(茨城県)の稲田へと歩を進める。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰、夜、暗
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 活動、出発
********
 
「地雷復」の卦。地中に芽が動き出す象である。真冬からようやく春の兆しが出てくる頃である。しかしあわててはいけない。陽気はまだ弱く、育ってはいない。陽気盛んになるのをじっと待つことが必要なのだ。
 
日本が最も混乱した時代である。農民は荘園の旧領主から年貢を取られた上に、新勢力の武士からも年貢を取られるという苛斂誅求に悲鳴をあげた。いつの時代も上が安定しないと下は混乱するばかりになる。
 
 

親鸞の苦悩

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上越市にある親鸞上陸の地
 
1207年の春、35歳の親鸞は流罪人として越後国府へ到着した。幸い妻の恵信尼は越後の豪族・三善一族であったので、生活はさほど困窮はしなかった。(恵信尼が仕えていた九条家が配慮したことだろう。)子供も生まれ家庭人としては良かったろうが、流人は流人である。親鸞をして安心の境地になれるものではない。
 
流罪赦免となるのは5年後であるが、師の法然が京に戻って間もなく80歳で亡き人になったので親鸞は7年間を越後で過ごした。何ら罪を犯したことはないのに流罪にされて権力に対する憤りは消えなかった。それまで親しみと尊敬の念を抱いていた上皇、天皇、公卿たちを許すことはできなかった。この間の悩み、苦しみが親鸞の人生最大の試練であったであろう。
 
親鸞も人間であり、聖人ではない。「僧でもなく俗でもなく自分はいったい何なのだ。」自らを愚禿(ぐとく)と称し、罪人に処した権力を怒り憎んだことだろう。自分の悪い本性も醜い欲望も抑えることが出来ぬ程、次々と悪念が頭の中を駆け巡った。情けない自分を責め続けたことだろう。追い詰められたとき、人の心はそんなに美しくいられるものではない。善人も悪人もその差は紙一重であることを自らの体験で知った。親鸞は苦悩した。
 
「愚禿悲観述懐」に自ら告白している。
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」
 
しかし、親鸞は負けない。負けてはならない。この流罪は権力者による不当な報復なのだ。その不当な処置に負けて病気になったり、死んだりしたなら、親鸞の意地が立たない。何としてもこのどん底から這い上がらねばならない。親鸞の念仏三昧は狂った様に続いた。ある日、親鸞の心にはっきりと天からの声が届いた。『親鸞よ、苦悩を突き抜け歓喜に至れ!』
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜ぶ、親睦 
********
***  *** 下卦は水
******** 陥る、困難、問題
***  ***
 
「沢水困」の卦。困難の困である。沢の下に水があり、枯渇している象。人生の試練のとき、臥薪嘗胆のときである。大人物になる人にはこの時期が必ずある。いかに耐え忍ぶかが重要である。
 
法然も親鸞も日蓮も時の権力者に逆境を強いられている。偉大な宗教家には共通する体験である。
権力者に同調し、取り入った宗教家がどんなに名声を得たとしてもたいしたものではない。
 
 
 

お先真っ暗

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法然。1133〜1212
 
法然の唱える「専修念仏」はますます都中に広まっていった。法然のもとには弟子の僧が380人以上が集まって居た。しかし、そうなると比叡山の旧仏教徒たちは面白くない。旧勢力と新勢力は段々対立するようになり、1204年ついに比叡山の宗徒は天台座主・真性に専修念仏の禁止を訴えた。
 
せっかく大きな力になりはじめた宗派であるが、法然は対立を避けるため主だった高弟80人を集めた。つまりへり下って今後は行動を慎みますという7か条の起請文を天台座主に提出することにした。しかし、対立は治まらず今度は朝廷に勢力をもつ奈良興福寺から朝廷に対して「専修念仏停止」の奏状が上呈される。「専修念仏は正法ではなく、やがては国土安穏を脅かすもの。」9か条からなる理路整然とした奏状であった。
 
しかし院も公卿たちも法然への支持者も多く、後鳥羽上皇も法然には好意的であった。ところが1207年に決定的に不利となる事件が起こる。上皇が熊野に行幸していた間に法然の弟子二人が主宰した念仏会に上皇の寵を受けている女房らが加わって外泊した。二人の僧が美男美声で女性たちに人気があったことから密通したのではと噂が広まった。
 
この事件により激怒した上皇は二人の僧を含め四人の僧を死罪に処した。累は法然一門全体に及ぶ。法然は土佐国に流罪。親鸞を含めた7人の高弟たちも各地に流罪になった。しかも僧という身分も名もはく奪され、ただの罪人として法然は藤井元彦、親鸞は藤井善信の俗名を附された。専修念仏という宗派には壊滅状態となる「承元の法難」である。
 
苦節25年、やっと師と伴侶にも恵まれ、これからという希望にあふれる青年僧・親鸞であったが突然何もかもを失うことになった。厳しい修行とはいえ京で生まれ京しか知らない親鸞には都を追われることはお先が真っ暗になる出来事だった。恵信尼とふたりで越後国府、現在の新潟県上越市に落ちて行った。親鸞はそのまま師の法然とは再会を果たせない。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 大地、
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 太陽、文明、文化
********
 
「地火明夷」の卦。明夷(めいい)は明が夷(やぶ)れる。太陽が地下に隠れる象である。何かの原因で住んでいる世界が真っ暗になること。「艱難汝を玉にす。」こんなときはあせらず、内面の充実をはかることに専念すればよい。
 
人生には思いも由らない出来事でお先真っ暗になることがある。事件や事故、家族の不幸、失恋、離婚、失敗もあれば突然の失業もある。せっかく築き上げた成果が無に帰すこともあるだろう。そんなとき一番してはいけないことはヤケクソになることだ。じっと耐えていれば必ず事態は好転する。

師と伴侶

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恵信尼。1182〜1268
 
親鸞が比叡山にて厳しい修行に明け暮れした20年の間に、時代は変わり1192年、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府が成立している。1201年春、29歳の親鸞は叡山での修行にも学問にも限界を感じていた。さらに新しい高い修行を求めて叡山と決別し下山する。最後の望みを聖徳太子に賭けた。太子ゆかりの京都・六角堂での百日参籠を行う。
 
果たして参籠すること95日目の暁、夢の中で聖徳太子の御示現があった。夢告に従い念仏を唱え他力本願による救いを教える法然上人のいる黒谷に向かった。「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで万苦から救われるものか、親鸞は納得が行くまで降る日も照る日も黒谷に通った。納得が行くまでに100日がかかった。その抜群の学識と極めねば已まぬ探求心に法然も舌を巻き、自分の後継者はこの者だと認めた。親鸞は決定した。「例えこの師に騙されようとも生涯従って行こう。」
 
六角堂の夢告は妻帯せよとのお告げもあった。当時僧になるには妻帯は許されない掟であったが、法然の教えは違っていた。妻帯しても修行が出来るものは妻帯せよというものだった。親鸞は生涯の師を得ると同時に生涯の伴侶を得ることになる。役人の娘で公家の九条家に女房として仕えていた恵信尼と結婚した。親鸞33歳、恵信尼24歳のときであった。
 
親鸞にとって結婚は女犯するという考えではなく、僧にとって結婚することこそ正しい業なのであり悩める衆生と一体になれるのである。性欲の煩悩を抱えた僧が愛憎に苦しむ衆生を救えるはずはないと考えた。親鸞にとっても20年間女性に触れることもなく修行に専念していたので恵信尼は正に救世観音の化身であった。
 
長い間、修行を続けようやく生涯の師と伴侶を得た親鸞。人生の春を感じたことだろう。世の為、人の為、生涯を捧げようと決心した。
 
***  *** 上卦は沢
******** 少女、喜び
********
******** 下卦は山
***  *** 少男、動かないもの
***  ***
 
「沢山咸」の卦。咸は感と同意。感動、感激の咸である。山の上に水がある象。山にも岩ばかりであれば趣がない。沢があり、雪があってこそ美しい。若い男が若い女に恋をするときほど豊かな感激に富むものはない。
 
修行に明け暮れしていた若き親鸞も良き師と良き妻を得て、希望に胸を膨らませたことだろう。聖人の様な親鸞にもこんなひと時があったと思うと嬉しくなるものだ。

親鸞の修行僧時代

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親鸞。1173〜1262
 
名僧たちの第二弾は親鸞である。親鸞の幼名は松若丸、下級貴族の日野有範(ありのり)の長男として生まれた。始めに親鸞の生きた時代を考えて見たい。松若丸が生まれる前、1156年に保元の乱、1159年には平治の乱が起こっている。貴族の統治から台頭してきた武士階級への劇的な変化の時代である。
 
天下を取った平家に対し、朝廷側の反乱、一度は追放された源氏の巻き返し、日本中に内乱が起こる。源平が激しく争う最中、大干ばつにより1181年には養和の飢饉が発生する。方丈記によると洛中の死者だけでも4万人を超えたという。
 
没落した下級貴族の日野家もいよいよ困窮し、五人の子供たち全員を出家させることになる。しかも出された宗派がまちまちであることから、引き受けて貰えれば何処でも良かったことが想像される。長男の松若丸は天台座主・慈円のもとで得度し、範宴(はんねん)となる。1181年9歳のときである。
 
比叡山延暦寺に入山して厳しい修行と学問に明け暮れる若き日の親鸞。
親鸞の修行は「常行三昧」。唐から帰朝した円仁によって始められた行法であり、九十日間、道場内の仏像の周囲をお念仏を唱えながら朝から晩まで歩き続けるという行である。来る日も来る日も、全く同じ単調な生活環境の中を二十年間耐え抜いたのである。
 
当時朝廷内で出世を断たれた公家は仏教界で出世を目指したが、仏教界も摂関家などの力が及び高い家柄や身分がないと到底出世は望めない。親鸞はやがて学識、修行、実績が延暦寺での評価にはつながらないことを知る。更に親鸞が深い苦悩と疑問を感じたことはこの厳しい修行が人間の苦悩や絶望の救済に役に立つのだろうかということである。親鸞は悩み続けた。
 
******** 上卦は山
***  *** 動かぬもの
***  ***
***  *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
 
「山水蒙」の卦。蒙昧、啓蒙の蒙である。困難に直面しているが前方には動かざる山が立ちふさがっている象である。山のふもとに水が涌いている象でもある。水の流れは頼りないが、やがては大河となる可能性も秘めている。良き師が必要な時でもある。
 
若き日の親鸞。9歳から29歳までの20年間の修行生活。それだけで頭が下がる。その持久力、忍耐力はどこからくるものだろうか。日本がどん底に落ちた時代にこそ、時代を救う力が涌いてくるものだろうか。

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